海に座す蒼と海に眠る蒼
ナルド・リヴァイア召喚の儀式のための供物。最適だと思い当たるものはひとつ。それは、この町に流れる雪解け水だ。
この雪解け水は町の外の北方の山に積もった雪が溶けて流れてきたものだ。そしてその雪の大本はというと、この大陸を自らの領土とした氷神が作り出したもの。
つまりこの雪解け水は自然のものではなく神の力に由来する水といえる。端的に言えば『神の力の水』だ。
この『神の力の水』はナルド・リヴァイアに捧げる供物としては最適なものではないだろうか、と思うのだ。神秘学において氷の属性と水の属性は親しいところにある。親戚のようなものだ。そして形態は水。水神の眷属に捧げるならぴったりではないだろうか。
そう思い、供物として用意した。朝一番に汲み上げた冷たい水を水瓶に入れ、これを2瓶。2瓶なのはナルド海の海竜が番であることを考慮して。1つはナルド・リヴァイアへ。もうひとつは海底にいる雌竜ナルド・レヴィアへ。
「始めるぞ」
いつかにした召喚と同じ手順で儀式が進められていく。水盤に供物として用意した水を注ぎ、そうして召喚のための詠唱を大老が紡ぐ。
「出ませい、猛き荒海の竜の王、海竜王……ナルド・リヴァイア」
海に座す蒼が水盤から顕現する。本体の鱗一枚にも満たぬ力を割譲した分身体が水盤から頭をもたげて現れる。小さな細身の蛇ほどしかない体躯だというのに、深海の水圧よりも重い重圧を感じる。これがナルドの海竜。
召喚に応じて姿を見せたナルド・リヴァイアへ、最大限の礼をもって頭を下げる。
私たちが信仰する水神の眷属だ。敬意は当然。横に控えるリグラヴェーダもまた膝をついた。
ナルド・リヴァイアはというと、くだらぬ前置きはいいと言うように黄色い目をすがめた。短く早く本題に入れと急かしていることを察して、顔を上げた私は話を切り出した。
話というのはもちろん、再信審判のためフィニスの地へ赴く船の安全だ。どうか船に水神の加護を。
――了とした。
ただし、とナルド・リヴァイアが付け足した。
――船の加護については引き受けよう。それとは別に、汝らに課したいことがある。
「なんでしょうか?」
加護については今供物として捧げた水を対価に引き受けた。それとは別に、私たちに要求したいこと。
いったいなんだろう。水神の眷属から直々に言い渡されるような用事だなんて。相当特別な事態だ。思わず背筋が伸びる。
ナルド・リヴァイア曰く。供物として差し出したこの水をもっと用意してくれないかとのことだった。
先日のフィニスの地起動のあおりを受けて、ナルド・レヴィアの調子が良くないのだとか。フィニスの地に渦巻く濃密な魔力にあてられ、酔ったような状態だという。それでどうにかなるようなほどではないが、目眩に似た症状に悩まされているそう。
ナルド・リヴァイア自身も同じような状態だったのだが、供物として捧げられたこの水を得たことで症状がだいぶ軽減されたという。
そこで、いまだ海底で酩酊する番の不調を晴らしてはくれないだろうか、と。
あまりに俗っぽいたとえをするが、要するに二日酔いに蜆汁を飲むようなものだろう。
成程、了解した。それならお安い御用だ。眷属直々の願いとあっては応えるのは当然。それがちょっとした労力で叶えられるならなおさら。
「わかりました。偉大なる蒼き竜ナルド・レヴィアへ供物を捧げます」
――頼んだ。
ひらりとひれを翻し、小さなナルド・リヴァイアは水面に頭を突っ込んだ。まるで水に潜るかのように消え、そして後には沈黙が残った。
「水を用意しましょう」
「えぇ。それと供物を届けるための船も必要でしょう」
「そうですね。水瓶と船、それから船員も準備しないといけません」
祭壇を作って用意してもよいのだが、どうせなら海に直接届けに上がろう。
不調というのなら動くのも辛いはず。信徒の招請を受けて分身体を切り離して派遣するだなんて負担をナルド・レヴィアに強いることはできない。こうして航海の安全の加護も得たのだから、直接ナルド・レヴィアに捧げに行けばいい。
「それと、今日からナルド・レヴィアへの祈りの時間も増やしましょうか」
神は信徒たちの祈りで存在の強度と密度を増す。信仰が集まれば集まるほどはっきりと力をもって存在できる。平たく言えば、信仰が神の食事なのだ。祈られれば祈られるほど神の腹は満たされる。
それは神の眷属も同じ。それならば、ナルド・レヴィアに祈りを。そんな酩酊にも負けぬほど確固として在れるように。
普段から水神への祈りは欠かしてはいないが、より時間を多く。略式ではなく正式で。食事の量と質を高めるのと同義だ。
「では、そのように」
「えぇ。よろしくお願いします」




