凍土の使者
音もない災厄が静かに牙を剥いた。
雪崩? 雪崩だって?
どうして。いや、わかる。この暖気で雪が緩んで山の斜面から滑り落ちるが如く雪崩れ落ちたのだろう。
原理はわかる。いやそんなことを脳内で述べている場合ではない。
踵を返して大老のところへと戻る。やや乱暴に扉を開けて入室する。行儀が悪いということに構っている余裕はなかった。
「雪崩って……どこで!? 皆は!?」
「落ち着けぃ。被害らしい被害はないわい」
慌てるなと大老が手を払う。
曰く、たまたま全員が拠点付近に戻ってきたタイミングでのことだそうだ。北の平原の向こうの山から雪崩れた雪は運良く逸れ、拠点を襲うことはなかったと。人も物資も無事だ。
それを聞いて、ふっと力が抜けた。長い息を吐く。
よかった。本当に。ここで雪崩で半壊しましたじゃぁどうしようもない。
単純に拠点構築という意味ではなく、人の死がなかったことへだ。意地のような信念で、ほとんど喧嘩別れのように出奔した私についてきてくれた民たちを失うわけにはいかない。私を信じてついてきて、雪崩に飲み込まれて死んでしまったなんてあんまりだ。
「……あの、お話中に失礼します」
「ヘクス?」
褐色の肌に内巻きの短めの銀髪。南東大陸のさらに南東、樹のクランを構成するアレイヴ族から移籍してきた薬師だ。内に引きこもるアレイヴ族の性情らしからぬ積極的な彼女はすぐに馴染んで、今や私の主治医を務めている。そのつながりで私についてきてくれた。
ヘクスが少し困惑したような、緊迫したような顔で私を呼ぶ。
くるくるとよく表情が変わる活発な彼女らしくない口数の少なさだ。いったいどうしたのだろう。
「どうしました?」
「えぇと……客人、です……」
…………なんて?
思わず素で返しかけた。客人? ここで?
客人っていったっていったいどこから。まさか故郷を出奔した私たちを追って義兄さんが使者でも寄越したか?
「その……町からだそうです」
「まち」
呆気にとられるあまりそのまま繰り返してしまった。まち、町、町から客人?
町というのは東のほうにあった遺構に間違いない。だが、そこから? 誰が来たって?
「……とにかく、面会しましょう」
信じがたいことだが、ともかく私に面会を求めているなら応じないわけにもいかない。雪崩の対応については各々に任せて、その客人とやらに会ってみようじゃないか。
ヘクスに客人をここに連れてくるように伝え、彼女が向かったのを見送る。ヘクスが連れてくるまでに机の上を片付けておこう。色々とメモやら何やらした紙が散らばって客人を迎えられる状態ではない。
決して、動揺する心を落ち着けるためではない。うん。驚いた動物がおもむろに毛づくろいを始めるあれではない。断じて。そういうことにしてほしい。
大老も一緒になって無言で手を動かす。いつも以上に執拗に紙の端を整えて端に積み上げていると、ヘクスが戻ってきた。
「失礼します。……どうぞ、こちらへ」
「お邪魔します」
ヘクスに代わって部屋に入ってきたのは年若い女性だった。見た目の年齢でいえば私よりもやや幼いくらいか。成人を迎えたばかりでまだ未成年気分が抜けない、そんな年頃。
床につくんじゃないかというくらい長い金髪と、睫毛に縁取られた氷のような薄青の目。素直に、美しい、という感嘆が漏れてしまう。
服は見覚えのないデザインだ。ドレスのような、ローブのような。胴まわりは体に張り付くようにぴっちりとしているのに、裾や袖の末端は緩く広がっている。末広がりの袖が作り出す布の波の隙間に白い指が覗く。
「お初にお目にかかります。我が名はリグラヴェーダ。ラピスの町に住む魔女です」
「町に……? でも、あの町は」
あの町は原初の時代から存在するというのが私たちの見立てだ。それが正しければ、彼女は原初の時代から現在まで生きていることになる。
そんなことがあり得るのか。だとして、どうやって。
「魔法で肉体の時を止めておりました。術者が解かぬ限りこの体は時を刻みません。そしてその術者も喪われました」
……つまり。彼女は。原初の時代から。今まで。不老のまま。生きていたと?
原初の時代から今まで。途方もない時間を。膨大な時間を。何年あると思っている。千年単位だぞ。それなのに、彼女は、この永久凍土の地で、一人で?
「そん……」
「本題に入らせていただきます。貴方たちは、この地に住もうというのですね?」
「それは……そうですが」
そら恐ろしくなる私たちをよそに、彼女は冷静に本題に切り込んできた。
住むかどうかなんて。私たちはこの地に住むつもりだ。そしてこの地より、再信審判に勝つ。
「……できれば立ち去っていただけませんか」
「それはどうして?」
「往古よりこの地に住む同胞の願いです。私達は誰にも暴かれたくはない」
永久凍土の地に古より生きる『誰か』がそれを望まない。彼女は使者なのだ。
「先程の雪崩は同胞からの警告です。……どうか、喪われる前に立ち去り、この地を忘れてください」
「でも」
「貴方がたの事情はある程度聞かせていただきました。……無礼とは思いましたが、魔法で」
盗聴と言うと聞こえが悪いが、まぁそんなようなもので。この岸に接岸した時から監視していたという。
長く誰も立ち入らなかった永久凍土の地にいきなり見知らぬ集団が来た。その集団はこの地に入植し、拠点を築こうとしている。だから追い出そうというのだ。
だが、それではいそうですかとはならない。私はもう引き返せないのだから。
他の土地へ行くことは考えていないしありえない。水のクランは裏切りを計画しているぞと触れ回り、他のクランに与することは絶対にない。
クランはそれぞれの神を信仰して作り上げられた国家だ。他のクランに属するということは宗教を変えることと同義だ。
私は故郷を出奔したが、水神への信仰は捨ててはいない。他の土地で他のクランに鞍替えするなんて絶対にあってはならないのだ。
「私たちは引くわけにはいかないんです。そちらのルールがあるならそれに従います。ですからここに拠点を築かせてくれませんか?」
「…………同胞に伝えておきます」
今日はひとまずそれだけを。そう言って、彼女が手を叩く。ぱん、と澄んだ拍手の音がして、次の瞬間、彼女の姿は消えていた。
魔法で転移したのだろうか。そのような魔法は超希少だが現代にもある。だが複雑な術式と大掛かりな準備が必要なものだ。それを何気ない拍手で発動するなんて。魔法がありふれていた原初の時代の人物だからだろうか。きっとそうなのだろう。
「……まいったな……」