審判を前にして、風
ついに再信審判か、と誰かが呟いた。
見回しても誰もおらず、ただ風が囁いているだけだ。
風が遠くの声を運び、自分の声を遠くへ運ぶ。この現象を風神の信徒たちはこう呼ぶ。
『風の噂』と。
『風の噂』が囁いた。ついに再信審判だ、と。
『風の噂』はやれどこで誰が誰の暗殺をなしたと自らの功績を囁きあっている。
――雷のクランでまた暗殺に成功したとか。
――火のクランはだめだな。付け入る隙がない。
――樹のクランは?
――あいつが忍び込んでるよ。
――水のところの議員はどうだ? 議会に影響力のある重役を狙おう。
――土のクランは潜り込めたか?
――あぁ。詩人の派閥になりすましての事前調査は終わっているさ。
誰が言葉を発しているかは聞いている側はわからない。発言者が曖昧なのもまた『風の噂』の特徴だ。
重要なのは、どう動いているかだ。狙うべき標的が重ならないか、お互いに邪魔をしあわないか。それこそが肝要だ。
風の信徒の派閥には2つがある。詩人の派閥"ヴィル"と暗殺の派閥"アイル"。
詩人の派閥は歌と踊りを愛し、各地を旅して歌い踊る穏健派だ。対する暗殺の派閥は闇に隠れ、各地を旅してしめやかに弑する過激派である。
再信審判が近づくと活発化するのは後者の暗殺の派閥だ。再信審判のルールにおいて、フィニスの地以外でのクラン同士の武力による争いは禁じられている。しかし、それが唯一許されているのが暗殺の派閥だ。彼らだけが武力衝突禁止のルールを無視して他クランを害することができる。その特権を利用し、あらゆるクランの重役を暗殺してクランに混乱をもたらす。そうして立ち行かなくなったクランが自滅していき、最後に立っていることで勝利する。それが風のクランの勝ち方だ。
彼らは『風の噂』を利用して連絡を取り合い、計画を練る。計画を練るといっても水のクランがそうするような緻密なものではなく、どのクランの誰を狙っている者がいるかどうかの照会くらいだ。獲物がかぶり、互いに邪魔をしあってしまっては本末転倒。その徒労を防ぐための打ち合わせだ。
――そういえば。
ふと、『風の噂』が呟いた。
あの規格外はどうしているのだろう、と。
――あれは目が覚めるような烈風だったな。
――あぁ。何よりもしなやかな疾風だった。
何よりも風に愛された男。ついた二つ名は"規格外"。
その暗殺の手腕は素晴らしいものだった。詩人の派閥になりすまして旅をし、獲物を定めて狩り殺す。
風の信徒は暗殺を得意としていて、普段は穏健派のふりをしているのだという世間一般の目を巧妙にかいくぐり、集団に溶け込み、そして事をなす。隙間風のようにどこからでも入り込み、そして去っていく。
風の信徒のこれまでの歴史でも、あれほど風神の信仰を体現した者はいなかったろう。
――その風も、もはや吹かぬ。吹かぬ風のことなど忘れよ。
そう。その"規格外"は消えてしまった。
きっかけは火のクランの首領暗殺だ。再信審判の期間以外かつ、フィニスの地以外での争い事の特権を許されている身ではあったが、その暗殺はあまりにも決定的すぎた。再信審判が始まる前から火のクランが脱落の憂き目にあってしまった。
特権を考慮しても影響が大きすぎる。始まる前から決着してはならない。不戦勝は許されない。よって、彼は破門された。
風神が破門以上の処罰をくださなかったのは、その後、未熟とはいえ先代首領の娘が首領となってクランとしての体裁が整ったからだ。そうでなければ、彼の魂は深淵に送られて万物を食らう悪口に食い尽くされていただろう。それほどの功績であり、罪科であった。
――あれは火の信徒に処刑された。風は凪いだのだ。
――諡はモガリといったか。
――モガリ、殯か。よい名だ。死を願われるとは。
――それほどまでに『生きていてほしくない』のだろうな。よほど恐ろしい風だったとみえる。
――虎落笛。冬の烈風と韻を踏むか。
そう、彼は死んだ。あの"規格外"はいなくなったのだ。
だが、と『風の噂』が囁く。
――もし、生きていたら?
あの"規格外"のことだ。多少の牢なら簡単に抜け出すだろう。拘束も監視もかいくぐって、風のように処刑台から抜け出したのではないか。そうできる実力を持っているはずだ。なにせ"規格外"なのだから。
それに、処刑されたと発表されたがその死体を誰も見ていない。忌々しい重罪人はさっさと埋めるに限ると火のクランは言っていたが、もし、それは取り逃したことを隠すための言い訳なのだとしたら。
――そりゃぁ、生きていても不思議じゃないけどさぁ。
――でも、だとしたら、あの"規格外"が敵ってことになるぞ?
どこのクランに流れ着いたかはわからないが、もし仮に、どこかのクランに拾われて、その一兵となっていたら。
強力な味方は凶悪な敵に変わる。あの"規格外"が敵に回るなんてことは考えたくもない。
――もし敵なら…………勝ち目、ないよなあ……。




