水の王、氷の女を見据えて
あぁ断れないだろうな、と水の王は笑った。
「ユーグ? どうかしましたか?」
「いいや。少し、想像したものが面白かっただけさ」
妻の問いかけにふっとユーグは微笑んだ。
今頃、書状は届いただろう。そしてそれを読んで、義妹は苦い顔をしているはずだ。
断れはしない。受けるしかない。そういう状況だ。すでに他のクランに根回ししているのだし。
ライカはきっと、自分の信頼が実を結んで各クランが交易の続行を決断してくれたのだろうと思っているだろう。しかしそれは違う。
どこのクランも、他のクランに寄越す物資があればフィニスの地の戦いに注ぎ込みたいものだ。それを曲げて"ニウィス・ルイナ"との交易に回すと決めたのは、裏でこちらの口添えがあったから。地理から『氷の女』と水のクランという氷と水の親しさ、義兄妹の縁まで持ち出して言い添えたのだ。
"ニウィス・ルイナ"との交易のはこちらが担うので皆は最低限で構わない、と。
水のクラン内で手に入る物資のラベルを貼り替え、他のクランからのものと偽装する。そうすれば各クランは物資を回さずに済む。自クラン内の余剰物資をフィニスの地の戦いに注ぎ込める。
その提案に各クランは賛同し、結果、"ニウィス・ルイナ"相手との交易の9割が水のクランが担うことになった。
そこで。仮に同盟を蹴られたら。当然水のクランとの交易はなくなる。この9割の根回しは解かれ、表向き通りにそれぞれのクランに負担がかかることになる。
そうなった場合は適当に理由づけて交易を切ってしまえ、という話もすでに通してある。
そうなれば"ニウィス・ルイナ"は完全に交易相手を失う。後で気付いたって遅い。もう逃げられない。
「でもユーグ、あの子がカウンターを打ってきたらどうするのかしら?」
水のクランは計略によって裏切りの算段をしている、と公表されたら。
神々から人間へ信を問う再信審判において、信を裏切って得る勝利に意味はあるのかと説得してクランを味方につけ始めたら。
まずは卑怯な水のクランを排除してから正当に争おうと根回しされたら。
妻の問いに、あぁ、とユーグは笑う。それこそこちらの思い通りだ。
それに対する反撃はある。しかも、出せば一瞬で決着がつき、"ニウィス・ルイナ"は終わるものだ。
ユーグは火のクラン先代首領暗殺犯が今どこにいるかを知っている。誰かを知っている。
それを火のクランに通達すれば、ライカは終わる。火のクランからの承認は暗殺犯の犯人を探すことが条件で、もし仮に他の者が暗殺犯を摘発したら承認は取り消しだ。
そっと、火のクランの首領の少女にその名前を教えてやればいい。きっと炎のように激怒するだろう。激怒のままに承認を取り消し、それでライカは終わる。
今回の再信審判を見送って、次回の再信審判に賭けるなんて舵切りは絶対にしない。次に賭けるのであれば最初から出奔しない。今回の再信審判に賭けているから出奔したのだし、ユーグもその信念を認めて見送ったのだ。
「……まったく……悪ぶるのも大変ですね」
冷ややかな計略を口にするユーグへ、エレナが苦笑する。
今述べたようなことでもってユーグは議会を説得し、各クランに根回しを済ませた。
しかし、その計略は決して冷たいものではない。根底にはとてもあたたかなものがある。それを悪ぶってわざわざ汚い権謀術数のようにしたのだ。
難儀な人だ。エレナは肩を竦めた。計略の根底にある感情は唯一つ。
「守りたいだけでしょうに」
あの未熟な義妹を。義妹についていった元民たちを。彼らが掲げる信念を。
他の誰にもかき消されたりしないように。志半ばで理不尽によって折れないように。
ゴールの寸前まで手を引っ張ってあげたいだけだ。ゴールを譲るかどうかは別の話ではあるが。
最後の最後できちんと互いに決着をつけて、そして勝った方が誇らしく前を向いて神の国へ行けるように。
ただ、守りたいだけだ。
水が象徴するのは万物を押し流して浄化する非情。しかし恵み与える慈悲でもある。
その精神を誰よりも持っているからこそ、ユーグは水のクランの首領たり得ている。
権謀術数という非情さの裏に、守りたいものを守る慈悲。だからこそ。
「ただ貪欲なだけさ、エレナ。勘違いしないでくれ。僕は強欲な人間なんだ」
何をも濁流に飲み込む水の貪欲さ。それが象徴するように強欲なだけ。
だって、最後にライカと決着をつけることはユーグの望むことだ。信を裏切ってでも勝つ知略は間違っていないと水神に示すためには、自分たちに反発して出ていった者たちを打ち負かすことが必要だ。それが再信審判の決着の場面であればなおよい。
その望みのために、強欲にも状況を利用しているだけ。表向きの計略も、守りたいものを守る自分の慈悲の心さえも。
「僕だって神の国へ行きたいのさ。エレナ」
だって、僕たち新婚旅行はまだだろう?




