幕間小話 出奔前の一幕
時は遡る。私たちが永久凍土の大陸に到着する3ヶ月前の話だ。
南東大陸北部。そこが私たちの故郷だ。
知恵と慈悲を象徴する水神の信徒が住み、水のクラン"コーラカル"を擁する国。
小人種族のスルタン族が中心となる水のクランでありながら、その指導者はスルタン族ではなくヒトであった。
並みいる有力者をおさえ、その頂点に上り詰めた首領の名はユーグ・リンデロート。
――私の、義理の兄である。
「もうすぐ再信審判ですね」
「あぁ、そうだね」
再信審判の始まりまであと30ヶ月少々。クランの上層部は次の再信審判をどう勝ち抜くかの作戦会議が白熱していた。
前回の再信審判では、戦術を駆使して勝ち上がったものの、最後の最後で樹のクラン"トレントの若木"の奇襲を受けて戦線が崩壊、混乱状態で散り散りになったところを火のクラン"簪"にまとめて焼き払われて敗北を喫した。我々を打ち破った勢いで"トレントの若木"まで飲み込んだ"簪"どもは再信審判の勝者となった。
当時の再信審判の参加者である老人世代は、あのような無様な敗北をするものじゃないと息巻いている。奇襲ごときで動揺する戦術ではだめだと、あれやこれやと。
「義兄さ……いえ、首領はどのようにお考えですか?」
「公の場じゃないんだ。そんなにかしこまらなくてもいいよ」
「公の場でうっかりするわけにはいかないので」
教師をお母さんと呼んでしまうあれだ。あんなようなミスはしてはいけない。
確かに今は公務の隙間の休憩時間であるが、だからといって気を抜いてはいけない。私の失態はそのまま義兄さんの瑕疵になる。姉さんの評価も下がってしまう。2人が積み上げたものを私の不用意な一言で崩してしまうわけにはいかない。
「議会の提案なんだが、聞くかい?」
「私が聞いていいなら」
私はまだ政治の場に参加できない。年齢と地位が足りない。だから私はこうして義兄さんの隙間時間に顔を出し、議会の様子を義兄さんから聞くしか手段がない。
「他のクランと同盟を結ぼうと思っているんだ」
「同盟ですか?」
これから覇権を争うというのに、同盟?
目を瞬かせる私へ、義兄さんは穏やかに微笑み、頷く。
「僕らの得意分野は知恵だ。反面、正面からのぶつかり合いは得意じゃない」
「はい」
「だから他の力を借りよう、というわけさ」
成程。そういうことか。
休審期には、我々の知恵を頼る各クランへと人を派遣し、その見返りに物資や技術、人材を得ている。この柔軟な流動性もまた水のクランたる所以。そうして構築された各地への人脈、情報網もまた我々の武器だ。
そしてそれを再信審判での立ち回りに応用しようというのだ。同盟を結び、力に不慣れな我々を支援してもらう。その見返りに水のクランの知恵を提供する。往古、神々と人間がそうであったように、助け合う関係だ。
「ですが、それで勝ち上がった場合……最終的に、我々と同盟相手の2勢力が残ります」
神の国へと招かれるのは、再信審判を勝ち上がった1勢力だけ。仲良く手を繋いで勝利とはならない。
他を蹴落として勝ち上がれば、最終的に残るのは我々と同盟相手だけ。その時どうするというのか。最後の最後、決闘でもするのか。
「いいや。いいかい、僕らは知略のクラン。つまりやるべきは背後からの襲撃さ」
「襲撃? まさか本土を狙うとか言いませんよね?」
それはルール違反だ。再信審判の覇権争いは中央大陸のみで行い、戦力を各クランの領土に差し向けることはしてはならない。審判のルールを外れてしまえば資格なしとして再信審判への参加資格を失う。
もし死んだとしてもこの世に転生し、何度でも再信審判に加わり、そしていつか神の国へと至ることができる。その救済の資格すら失われてしまう。資格のない魂は破壊神が眠る奈落の底へと落ち、万物を食らう口に食い殺されて転生できなくなってしまう。
「そんな恐ろしいことはしないよ。奈落の底には堕ちたくない」
「では」
「同盟を申し出した時点で、最後に2勢力が残るという見立てをあちらもするだろうね。それを逆手に取る」
最後の最後で残った2勢力での決闘になる、と思っている同盟相手の裏をかく。つまりは、まだその場面ではないと油断している時期に手を切る。おおよその大勢が決した頃がそのタイミングだ。
あらかた強豪を蹴散らした後、あるいは強豪を相手取っている間。その瞬間に背後から刺す。
それは、裏切りだ。最後に決闘なんて気持ちよく終わらせはしない。仲間と思って油断する相手を裏切る。
「立派な作戦だろう?」
「それは……」
確かに、それは立派な作戦だ。だが、でも。
裏切りの作戦を再信審判でするというのか。これがただの殺し合いの戦争なら私とて賛成した。だが、信を問う戦いで裏切りの作戦は使うべきではない。人間同士で裏切り、勝ち上がった人間を神々は神の国へと招いてくれるだろうか。そのはずがない。
「ありえません。それは、するべきじゃない……!!」
「――この、痴れ者が!!」
割り込んできたのは義兄さんではない。ちょうど部屋に入ってきたらしい議会員――私の父である。
大股で歩いてきた父はヒステリックに私を罵る。首領の前だから暴力沙汰にしないだけで、そうでなければ平手が飛んでいただろう。
「劣妹の分際で!! エレナに劣るばかりか、あげくに意見だと!?」
この怒り方は私が言ったことへの文句ではない。姉に劣る劣等物でありながら、一丁前に意見したことそのものへの怒りだ。劣妹という身分を自覚し大人しく隅で縮こまっていればいいものを、優秀な自分たちと肩を並べようと出張ってくるなと言いたいのだ。
そんなもの、知ったことか。
水神の教えだ。知恵の前にはすべて平等。貴賤などありはしない。富める者も貧しき者も同じ教育を受け、等しく知恵を蓄えるべし。知をもってして行われる議論の結論は身分で決められるべきではない。富める愚者の論より貧しき賢者の言だ。
だとするなら、私がこうして意見することに何の問題があろうか。私は水神の知平等論に従ったまで。むしろ子供の出来で優劣を決め、その優劣でもって意見を封殺する父こそ水神の教えに反する不敬者だ。
「なんだと、口答えするのか! この……!!」
「おやめください。父上。首領たるユーグの前ですよ」
「おぉ、エレナ」
騒動を聞きつけて制止に駆けつけたのは姉だった。
エレナ・リンデロート。首領の妻となるべく育てられた我が姉だ。慈悲深く賢く淑やかでたおやか。完璧すぎて妬む余地もないほど絵に書いたような良妻だ。私にとっても自慢の姉である。
「知を用いる議論では誰しも平等に意見を。それが水神の教えでしょう」
「おぉ、そうであった。うむ、少し白熱しすぎたようだ」
「……それ、私も同じことを言いましたが」
今更だが。私が言っても聞かないどころかさらに激怒するくせに、同じことを姉さんが言うと聞き入れる。こんなもの今更で、何の感慨も枯れ果ててしまったのだが、それでも一言言っておきたい。それ、私も同じことを言いました。
「あぁ、あぁ、エレナ、素晴らしい。素晴らしい我が娘よ……」
……こうして無視されるのも、もう、慣れている。