人身御供の娘
夜。さて寝るかとベッドに入ろうとした時、控えめなノックの音がした。
「はい、どちらさま?」
「ライカ様、ストップ」
ドアを開けようと伸ばした手を、横から現れた手が掴んだ。ナフティスだ。
戸棚の影から現れたナフティスは、声を潜めて非礼を詫びた。
「夜中に女性の部屋に現れるなんてすみません。ですが、護衛として捨て置けなかったんで」
「いえ。……それよりも、どうかしたんですか?」
「……来客は、雷のクランが置いてった子なんですよ」
影から覗き見て知った。アグリネが訪ねてきたのだ、とナフティスは言う。もしかしたら雷のクランから差し向けられた刺客かもしれないという可能性を考え、ナフティスは割り込んででも私を制止したのだ。
その心遣いは嬉しいが、過敏すぎる気もする。刺客でもなんでもなく、慣れぬ土地で何か不便があっただけかもしれない。
「もし本当に危なかったらその時はお願いします」
「…………お人好しすぎやしません?」
「信じてるんですよ」
アグリネが刺客でないことを。ナフティスが守ってくれることを。
そう告げて、扉を開ける。こちらが用意した寝間着に袖を通し、冷え防止に厚手のストールを羽織った姿のアグリネが緊張した顔で立っていた。
「どうかしましたか?」
「その……夜伽を」
「は?」
え? 思わず素で返してしまった。
よとぎ。夜伽。辞書を引かなくても知っている。そういう意味だ。恋愛経験ゼロでもわかる。
それともあちらの言葉でヨトギという単語が、いやこの顔はそうじゃない。よとぎとは夜伽で間違いない。
「私、女性ですが……」
「あっ……あの……ごめんなさい、言葉が違っていました。命乞い、懇願、えぇと」
「落ち着いてください。……とにかく、立ち話もなんですから、どうぞ室内に」
***
影に潜るタイミングを逸したナフティスも交えて彼女をテーブルへ。
恐怖と緊張と怯えでどうにかなりそうなくらい張り詰めている彼女に温かい茶を飲ませて落ち着かせ、なだめてから話を聞くに、とんでもない誤解があった。
『氷の女』は謀略に長ける残忍な女。機嫌を損ねれば原因となった人物をいたぶり、その悲鳴を楽しむ極悪非道。その冷徹さから打ち出される謀略によって、各クランの承認を得たのだ。
そうでなければ、たった数百人規模の小さな新興クランが各クランと肩を並べられるはずがない。氷のような権謀術数を弄する悪辣に違いない。
アグリネはそう父親から吹き込まれて送り出されたらしい。なんて誤解だ。
氷の女と噂されていることから危惧していたことが現実になった。しかも想像よりも色をふんだんにつけて。あぁまぁそう尾ひれがつきますよねぇ、とナフティスがぼやいた。
「夜な夜な人を拷問にかけて悲鳴を楽しむって……だから、わたし……」
「ちょ、ちょっと待ってください。そんなことしませんよ!」
アグリネがずっと緊迫している顔をしていたのはそのせいか。死んだほうがマシな目に遭わされると思いこんでいたのか。そりゃそういう顔にもなる。
いやでもこの由々しき誤解は解いておかなくては。
「そんなことはしませんよ。安心してください」
「でも……」
「確かに、我々はクランを立ち上げてから短期間でここまで来ました」
クランの運営なんて実は簡単じゃないのかと驕りそうになるくらい。
けれどそれは、たまたま運がよかっただけ。確か古い言葉でルッカといったか。神々に愛されているに違いない、そうでなければこんな幸運に恵まれはしない。そんな由来で、ものすごく幸運続きのひとをそう呼ぶ。
そんなルッカのような展開に恵まれたから。そして何より、私が民を信頼し、民が私を信頼してくれたから。だからここまで大きくなり得た。
「だから、夜な夜な人を拷問するとか……そんなことはしません。やれと言われても断ります」
「でも、じゃぁ……」
「それに」
人身御供として置き去りにされ、その役目を果たそうとした覚悟。恐ろしい相手だと聞かされていたにも関わらず逃げ出さなかった勇気。
それらは褒められるべきものだが、だからといってその身を差し出すのはよろしくない。
まだ年端も行かぬ少女なのだ。自分の体は大切にするべき。
「……ぅ……ふぇ……ひっく……っ」
そう説教したら、アグリネは泣き出した。緊張の糸が切れたように、黒曜石のような黒い瞳から大粒の涙を零す。
「ぅ、ひっく……うぇ、ぐすっ……わたし、ほんとは、こわかったんです……!!」
とてもこわいひとだって聞いてたから、絶対に死んじゃうだろうって。
でも、わたしがやらないと、父上が死んでしまう。恐ろしい氷の女の計略にはまって、再信審判の地で惨たらしく殺されてしまう。だから、父上を殺さないでって、お願いするために。わたしはどうなってもいいから。
泣きじゃくるアグリネは感情のままにそう言う。途中、砂語が入ってわからなくなったが、言っていることは同じだろう。
誤解とはいえ、なんと悲壮な覚悟で来たのだろう。途方もない。思わずぎゅっと抱きしめたら、華奢な腕をいっぱいに伸ばして抱きついてきた。
「よか、った……わたし、ひっく、ぐす……っうわぁあああん……!!」
***
「おや? ファムファタールの寝室から泣き声がすると思ったら……」
「リグラヴェーダ」
リグラヴェーダが来たから自分はお役御免。男が女の寝室にいつまでもいるもんじゃないと言いたげに無言でナフティスが影に消えた。
それを見送ってからリグラヴェーダへ振り返る。私と、私にしがみついているアグリネを見て察したような顔をした。
「まぁまぁ…………何かあったようで。ですが解決したご様子」
「えぇ。泣き疲れて眠ったみたいです」
安心して緊張の糸が切れて泣いて、泣き疲れて眠ってしまった。
「リグラヴェーダ、彼女を客室に運んでいただけますか?」
寝間着が涙や鼻水やらでぐしゃぐしゃだ。着替えている間、リグラヴェーダにアグリネを客室に届けてもらおう。
少女の小柄な体ならリグラヴェーダでも運べるはず。何ならナフティスに代わってもらってもいい。
「えぇ。了解しました。ファムファタール」
おやすみなさい。良い夢を。リグラヴェーダはにこりと微笑んだ。




