眷属と人間の交わり
骨鯨。キロ島近海の守護神の名をそう呼ぶ。水神の眷属であり、ナルド・リヴァイアやイルス・リヴァイアと同格の存在だ。
古くはケートスとも呼ばれていたらしいその大鯨は全身が骨でできている。鯨の全身骨格が意思をもって動いているのだ。だから名を骨鯨という。
その骨におびただしい量の油脂がまとわりついて鯨の輪郭をなしている。骨鯨の構成要素は骨と鯨油だけで肉も内臓もない。
「そんなものですから、いるだけで厄介なんです」
体から流れ出た鯨油が海に漂ってしまう。なにせ本体が巨大な鯨だ。その輪郭をなす油脂の量も多いし、そこから流れ出る鯨油の量も相当に。
どのくらいかというと、古い記録では1時間ほどその場に留まっただけで辺り一帯の海面は鯨油に覆われてしまった。海面に薄く張るなんて優しい量じゃない。ひとの身丈ほどの厚さのある量だ。
「ほら、肉を茹でた後にできる油の層ってあるじゃないですか、あれです。あれの厚さが成人男性くらい」
「例えが俗っぽくないですか? ……想像はしやすいですが……」
事実そんな感じなのだ。
そんなものがいたら海洋汚染が著しい。船は油に邪魔されて満足に行き来できない。
火のクランはその大量の鯨油に目をつけて、鍛冶の燃料や交易の取引材料としているが、大量に安価に出してやっと消費しきれるほど。それが毎日だ。少しでも採取と消費が滞ればあっという間に海は汚れる。
だから厄介なのだ。さらにどうしようもないのは、自らの災厄性を骨鯨自身が自覚しているということだ。しかし、自覚しているからといって止めることもできない。
本当に厄介なのだ。それに比べれば、ナルド・リヴァイアなんてかわいいものだ。彼の鱗が起こす波によって海は荒れるが、被害はそれくらい。熟練の船乗りが操作すれば行き来できる。
対処可能なだけ良心的だ。番といちゃつくほのぼのとした光景もたまに見られるし。
「そういえば、氷神には眷属はいないんですか?」
眷属のことを話題にしたついで、リグラヴェーダに聞いてみる。深く突っ込むと不干渉と非接触の約定に触れるので軽く。民ではなく神のことなのでセーフだろうか。
「存在はしていますよ。どんなものかは知りませんが」
「え?」
「私たち氷の民に混じっているんです」
曰く。水神の眷属が海竜だの骨鯨だのであることと違って、氷神の眷属は異形の形をしていないのだという。人間とまったく同じ容姿をしているらしい。そうして氷の民の中に混じり、信徒の視点で信徒の様子を見ているのだそう。眷属だ信徒だと区切ることなく、眷属が信徒と同じ視点でものを見る。
だからそこに区別をする必要はないのだ。眷属も信徒も、お互いにその差異を区別しない。信徒の中にどれだけの数の眷属が混じっているかなんて数えないし、特定もしない。
「そうして身を寄せなければ生きていけない土地でしたからね、ここは」
「今は違うんですか?」
「えぇ。寒さもだいぶ緩みました」
"大崩壊"をきっかけにこの大陸はかなりの温暖化が進んだらしい。原初の時代はもっと寒く、吐息すら凍てつく極寒だったという。
「これこれ。勉強はこれくらいにして、不要となった供物を食料庫に戻さねばのぅ」
「あ」
供物とはいえ、雪兎の生肉やら魚やらが供物台にどんと置いてある。このまま置いていけば腐敗してしまう。せっかくナルド・リヴァイアが遠慮したものを腐らせてだめにしてしまったとなれば大問題だ。何より単純にもったいない。
「そうですね。片しましょう」
***
せっかくだからと供物の一部を今日の夕飯に使い、たっぷりと満足したその晩。
今日は星がよく出ている。誘われるようにテラスに出て、その夜空を眺めていたら。
「一人でテラスに突っ立ってたら危ないですよ、ライカ様」
「ナフティス!」
「報告のため一時帰還しましたよっと。ご健在で何より」
相変わらず唐突な登場だ。……と、そうじゃない。報告とはなんだろう。
「女性の部屋に夜中に行くとか無礼極まりなくて申し訳ない。気になる情報を得たもので」
「いえ、構いません。それより気になる情報とは?」
「火のクランが動きます」
キロ島からこの町に向け、使節を載せた船が出港したらしい。
イルス海の海賊を自陣に引き入れたこともある。先に私の耳に入れておかねばと思って戻ってきたのだそう。
「わざわざありがとうございます。でも、その情報をどこから?」
「風のクランの情報網ですよ」
風のクランの所属ではないが、その筋から入ってきた情報なのだそうだ。まさしく風のうわさというやつだ。
深くは追求しないほうがよさそうだ。仮に聞いたところで答えないだろう。
「ナフティスはこれからどこへ?」
「"ドラヴァキア"に行こうと思ったんですが……相手が相手なんで、ちょっと留まろうかと」
相手は過激なことで知られる火のクラン。万が一がないとは限らない。
争いごとは再信審判の地に限定し、平時のクラン同士の闘争は許さないという世界のルールに抵触することなど厭わず、魂が深淵に食われても構わず手を出してくることは、あの過激な火のクランならありえなくもない。正気ならまずやらないが、使節が正気とは限らない。
万が一だが、万が一を見逃してその一に当たったら取り返しがつかない。だからナフティスは旅を中断してこの一件がおさまるまで護衛に戻ると言ってくれた。
「そろそろちゃんと活躍しないと忘れられますしねぇ」
「何の話ですか」




