海に座す蒼
翌日、アグリコラは本当に籠いっぱいの芋を持ってきた。民が食べるぶんは確保して、余剰分なのだそうだ。
ピスカトルからは漁をして得た大ぶりの魚、ウェナトルからは森で狩って血抜きした雪兎。ささやかながらガーディナーも森で得た山菜と薬草を出してきた。
供物としては十分な品目だろう。大老も召喚のための陣と水盤の用意が終わり、いつでも祭祀を執り行うことができるとの報告を受けた。
必要なものが揃ったのなら早速。供物台に供物を並べ、大老に後を委ねる。
「では大老、お願いします」
「うむ」
それでは、と大老が杖で床を叩く。静かな空間に音が響いた。
それから召喚のための供物を水盤へと投じて、長々と詠唱を紡いでいく。老人の嗄れた声ではなく、気張った朗々とした声で。荒れ狂う海の竜をこの場に招請するための文言を滞りなく注いでいく。
「出ませい、猛き荒海の竜の王、海竜王……ナルド・リヴァイア」
その名を呼ぶと、ぐらりと水盤にはった水が揺れた。内部から弾けるように水面を散らし、海の底と同じ色をした青い鱗の頭が出る。黄色の目が私たちを見た。
これがナルド・リヴァイア。正確にはその力を分けた分身である。本体の鱗一枚にも満たぬ力を割譲して、召喚に応じるために遣わしたものだ。分身でも意識は本体とつながっている。対話は十分に可能だ。
「……ナルド・リヴァイア……猛き海竜……」
分身の頭だけ。ひとかかえほどの水盤からほんの少し頭を出しているだけなのに、対面しているだけでものすごい威圧感を覚える。すさまじい圧力だ。隣に控えているリグラヴェーダが身構えるほど。
だが、怯んではいけない。ぐっとこらえてナルド・リヴァイアへと向き直る。
「ナルド・リヴァイア。はじめまして。我が名はライカ・カンパネラ。"ニウィス・ルイナ"の首領です」
黄色の目が無言ですがめられる。続きを促しているようだった。
前置きはいいから本題に入れと言いたげなプレッシャーを感じながら、本題を切り出す。もちろん航海の安全の契約の話だ。
――何故?
音のない声が聞こえた。海竜が発した『声』だ。鼓膜を揺らすタイプではなく脳に直接響くタイプの。
粗暴な厳しさを漂わせる声が問うてくる。何故それを要求するのかと。
「私は、再信審判に勝たねばなりません」
その信念の証明のため、再信審判に勝たねばならない。
再信審判に参加するには、各クランの承認が必要だ。早くも樹のクランからの承認を得た。しかしその承認は海路の安全の保証の上にあるものであり、安全を確保するにはナルド・リヴァイアの守護が必要であること。
それらを嘘偽りなく答え、契約のための供物を指し示す。これが我々があなたに差し出せるものです、と。
――了とした。
あっさりと、ナルド・リヴァイアはそれを承認した。
信念のために離反し、自立しようという反抗心が気に入った、と添えて。
ナルド・リヴァイアは荒ぶる海竜。争いは好むところというわけか。再信審判の争いが過激化するのは喜ばしいことであり、そのためなら契約も悪くないと。
――だが、供物は要らんよ。
「え……で、ですが……」
――反抗心と自立心、行動に移した気概に免じてだ。
それに、とナルド・リヴァイアは続ける。
氷の地に住まうなら食料は必要だろう。町の結界の守護がなければ極寒。ろくに植物は育たない。厳しい環境を慮って、供物として食料を奪うことを免ずる。それに何より、水神の愛しい信徒の願いだ。水神の眷属たる自分が拒絶する理由はない。
そう言い、ずるりと滑るようにナルド・リヴァイアは水盤へと吸い込まれて消えた。あとには水面のように静かな沈黙だけ。
「……用事だけ終わらせたら帰ったみたいですね」
まったく気配がないことを探っていたらしいリグラヴェーダがぽつりとこぼす。この静かさからして、どうやらそのようだ。
ともかくこれでナルド・リヴァイアの守護を得ることができたのだ。荒ぶる海は私たちに慈悲を垂らした。
「ところで、口を挟まずに見ていましたがひとつ気になることを聞いてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
「ナルドの海の海竜は番と聞いていますが……もう片方は?」
「あぁ……えーと……」
ナルド海を縄張りとする海竜は2匹いる。雄のナルド・リヴァイアと、雌のナルド・レヴィアだ。
荒ぶる海と穏やかな凪の二面性をそれぞれ象徴する海竜は番であり、今呼び出したのは雄の方。では雌の方に話を通さなくてもいいのか。リグラヴェーダが質問したいのはそういうことだろう。
「ナルド・リヴァイアは過保護でのぅ」
代わりに答えたのは大老だ。
ナルド・リヴァイアは番にたいへん甘い。荒ぶる海の象徴であるナルド・リヴァイアは気性も荒く過激で、常に怒っているといっていい。その荒ぶる海竜が唯一心を穏やかにするのが番といる時だ。この時ばかりは怒りもなりを潜めている。
そのナルド・レヴィアは"大崩壊"により大きく傷ついた。眷属として存在を保てなくなるほどの重傷を負ったのだという。肉体的な損傷もそうだが、魔力やそういった神秘的な視点からも。
その傷を癒やすため、何百年も海底で眠ることになった。絆を交わすこともできない孤独はナルド・リヴァイアにとって心にひどい傷となった。
再信の時代になり、神々と人間の絆を取り戻した現代では傷もすっかり癒えたのだが、そのことからナルド・リヴァイアは番に対して過保護なのだ。愛しい番がまた傷つくことはあってはならぬと。
そのため、ナルド海の守護神という役割が負っている仕事をすべてナルド・リヴァイアがやることにしたのだ。海路の安全の契約も、水神の眷属として信徒を守護することも。すべての役目を1体でこなし、大事な番は安全な海の底で大事に愛おしむ。
「……まぁ、割と出てきますけどね」
番の精神状態がそうだろうが、ナルド・レヴィアだって立派に水神の眷属。役目をこなすことは本能に近い部分に刷り込まれている。
だからひょこりと時々海上に頭を出す。人間に見つかったらどうするんだ、お前に何かあったら、と言いたげに心配する番に、大丈夫よ、あなたったら過保護ねと苦笑するように鳴く姿は時々目撃される。
「キロ島近海の守護神ほど厄介ではないですしね……」
私が火のクランに留学した時は火のクランの本拠地であるキロ島で暮らしていた。
その時に聞かされたキロ島近海の守護神ほど厄介ではない。あれはもう恩恵などなく、ただの災厄でしかない。
せっかくだ、語ってやろう。




