船上にて、鐘は高らかに響き渡る
――これは、神々と人間の古の契約に基づいて行われる審判である。
神々と人間は共に在る関係であった。人間は神々を信仰し、神々は信仰に応じて恩恵を与える。
その原初の契約は人間側から切断され、長きに渡る不信の時が続いた。
しかし神々は人間を捨てることなくその慈悲を垂らした。不信の咎が償われた時、再信の機会を与えた。
それが再信の伝承である。そして今、再信の審判が果たされる。
神々から人間へ、信を問う審判が今来たる。
あぁ神々よ、この世で最も敬虔なる我らを神の国へと導き給え!
***
古ぼけた手記の字をなぞり、私は息を吐いた。
視界が揺れる。否。揺れているのは船だ。ナルドの荒海に蹂躙されるがごとく漂っている。
「……やはり後悔しておいでか?」
私の溜息を聞き咎め、大老が口を開いた。
私が生まれた時から教育係を勤めてきた老爺は私の動作から心情を的確に見抜く。しかし今回ばかりは外れだ。私が今しがた吐いた溜息は後悔でも郷愁でもなく、審判に勝ち神々の元へ旅立った先祖への感嘆と称賛だ。
「後悔などしません。これが私の道です」
後悔などはない。私は決意をもって故郷を出奔したのだ。
その決意を曲げて引き返すわけにはいかない。故郷から離反した私たちの活路は北にある。否、北にしかない。
北方の永久凍土。原初の時代から人間の住まぬ土地。そこにしか私たちの安住の地はない。
「しかし、もう1ヶ月ですじゃ。本当に北に大陸があると思っておいでで? 世界の地形を激変させた"大崩壊"ならば、大陸ごと……」
「いいえ、あります」
歴史と地理の授業が正しければ、だが。
我らが故郷のある大陸の北にはナルド海を隔てて永久凍土の大陸が存在しているとされる。数千年前に『あった』と言われているその大陸を目指し、故郷を出奔して1ヶ月、北を目指して航海している。
『ない』というのはほぼありえない。歴史と地理の授業が正しければ、それは世界の3分の1ほどを占める大陸だったという。それにはるかに劣る面積の大陸でも"大崩壊"を耐えた。ならば多少削れてはいても、仮に粉砕されて島となっていても、少なからず『ある』はずだ。
「……今なら、引き返す道もおありでしょう」
「大老、私の心を試す真似はやめてください」
1ヶ月。どこを見ても荒海しかない海上。信じられるのは方位磁石と太陽と星々の運行だけ。いつまでも目的地は見えず、もしかしたらという不安さえ呼び起こされてしまう。『あった』という歴史と地理は偽りではないのだろうか、と。
その不安を見透かして、大老は私の心に甘い蜜を注いでくる。引き返し、離反したのは若さゆえの過ちだったと詫びるのも悪くはない。今が引き返す最後のチャンスだと。
だけど、私はそれを間違いだとは思わない。その信念のもとに離反したのだから。
それに引き返すのは私に賛同して船旅についてきた人々への裏切りだ。
「私は、皆を裏切るわけにはいかないんです。……裏切りに異を唱えて離反したのですから」
「……決意が緩んでおらぬかと心配しておったが、余計な口出しだったようじゃの」
「そうですよ。まったく、ハルじぃは昔から口うるさいんですから……あ」
いけないいけない。私はこれから皆の指導者となるのだから。こんな緩んだ口調ではいけない。
しっかりと、確固たる信念を打ち立てた立派な指導者らしい言葉遣いでいなければ。ハルじぃなどという緩い呼び方ではだめだ。格式高い大人然とした態度で、ハルツバリの大老と呼ばなければ。
花畑で花を摘んで微笑むような少女の時代はもう終わったのだ。花畑の少女を脱して永久凍土に降り立つ女首領にならなければ。凍てつく氷にも負けぬ凛とした女性に。
軽く頬を叩いて気合を入れ直し、自分に言い聞かせる。ついてきてくれた皆が信頼を寄せられるような指導者でいなければ。
指導者としての立ち振舞いは知っている。大丈夫、いつも見ていた背中を真似するだけ。大丈夫よ、ライカ・カンパネラ。義兄さんをなぞればいいの。
「そんなに肩肘を張らんでもいいじゃろうに……。皆、お主を幼少から知っておるのだから」
「これはけじめです。……確かに、皆のほとんどはそうですけど」
花畑で花を摘んで無邪気に笑う少女を微笑ましく見守っていた大人たち。冗談を言い合える学友。私についてきてくれた皆はそんなような人々だ。
私がこうして指導者らしくあろうとしても、世間を知らぬ未熟者が肩肘を張っているようにしか見えないのかもしれない。子供が見栄を張っている滑稽な姿に映るのかもしれない。
だけど、でも。少女の時代とは決別したのだから、皆にはその認識を覆してもらわなければ。
「意地っ張りじゃのぅ……」
大老の溜息は聞かなかったことにする。
「ライカ様! 陸地が! 陸地が見えました!」
甲板で荒海を睨んでいた航海士が告げてくる。荒波の向こうに白く雪積もる永久凍土の大陸が見えた、と。
その大声は私の鼓膜から脳に染み渡るがごとく、たちまち船内に響き渡っていく。1ヶ月の放浪に疲弊が見えていた船内に一気に活気が吹き込まれていく。何人かは甲板へと駆け出していった。
「上陸の用意をお願いしま……いえ、上陸の用意をしなさい」
「はいさぁ!」
危ない危ない。危うくまた気が抜けるところだった。指導者なら敬語は使わない。船員に伝えるのは『お願い』ではなく『命令』でなければならない。
もちろんある程度の親しみは必要だけれど、今はしっかりとした立ち振舞いが優先。言い聞かせながら、船乗りたちが上陸の用意を整えていく経過を見守る。
上陸にあたっての危険はなく、船をつけるぶんには問題ないそうだ。そこから荷を下ろし、拠点とするかは上陸しなければわからない。目の利く船乗りが言うには、拠点とできる可能性は非常に高そうだとのこと。
「舷梯を下ろしやした! 上陸できます!」
「ありがとう。……じゃぁ」
指示から用意完了までが早い。さすがはナルドの荒海をさばく優秀な船乗りたち。彼らがいなければ船は荒海に揉まれて海底に沈んでいただろう。
その手腕と技術に感謝しつつ、大老とともに部屋を出て舷梯へ。すでに皆は舷梯を降りていて、氷の大地を左右に見渡していた。……ふむ、位置関係と高さ的にちょうどよさそうだ。
「皆」
舷梯の上から、雪原を見渡す皆へ。指導者らしい凛とした声を永久凍土に響かせる。
皆の視線が集中したのを認めて口を開く。さぁ、噛むなよ私。
「我が名はライカ・カンパネラ。貴君らの命と信を預かってこの地に根を下ろす!」
さぁ、この氷の大地から審判を越え、神の国へと至ろうではないか!!