閏時 ~Leap at the time~ 第6話
「いらっしゃいませ、柏木弥那さん。すめらぎ骨董店へようこそ♪」
蝦夷梅雨の晴れ間。マティバレィの定休日。達矢が仕入れや買い出しに出掛けた後。弥那は久しぶりに前の職場に行ってみようと思い立った。
するとそこには、見慣れたカフェは無く。代わりに昭和中期の雰囲気をかもし出している骨董屋が建っていた。
骨董屋が目に入っていないのか、道行く人は誰も、この不可思議な状況にまったく気づいていない。カフェを訪れた人は、骨董屋をすり抜けてその中に入ってゆく。幻なのかと思って自分も同じように骨董屋をすり抜けていこうとするが、できない。
仕方なく骨董屋の出入り口に戻り、古びた扉をそっと引き開けた。小さなカウベルがカランと鳴ったと思ったら、目の前に女性が立っていて、彼女が笑顔でそう言った。
さて何歳くらいだろう。光の加減か、肩より少し長い髪にはところどころに茶が混じり、小柄で童顔な見た目の通りであれば中高生であるように思える。が、アースカラーでまとめたコーディネートとどこか理知的な面差しが、弥那たちと同じくらい、二十代半ばであるようにも見える。いずれにしても、不思議な雰囲気を纏った女性だった。
とりあえず、彼女に対して抱いた最初の疑問を聞いてみた。
「ど、どうして私の名前を? 以前どこかでお会いしましたか?」
「昨日、マティバレィでブレンドをご馳走になりました。大変美味しかったです。ですが傘の件では、大変失礼致しました。言い訳するわけではないのですが、時にああいった天然なドジを踏んでしまうところがありまして」
そう言って、深々と頭を下げる。
「あ、ああ、昨日最初にいらしゃったお客様でしたか。それは失礼致しました」
そう言って、こちらも深々と頭を下げる。
「いいえ。ここでの格好とはまるで違ったので、たぶん達矢さんも気付いていなかったと思います。よろしくお伝えください」
「わかりました、伝えておきます。――いえそうだとしても、フルネームは名乗っていなかったはずですが……」
「それについては後ほどお話します。それより、ご挨拶が遅れました。私はここの店員をしています、皇夏音と申します。天皇の『皇』に夏の音と書きます」
居ずまいを正して礼をする夏音に、弥那もそれにならって礼をする。
「ああ、あなたが夏音さんでしたか。その節は、住谷がお世話になりました」
「いいえ、私は何も。それより、いかがですかあの懐中時計。お役に立てていますか?」
「そうですね、彼から贈り受けて、今では私のものとさせてもらっています」
そう言って、バッグから懐中時計を取り出す。
「戻れるのはひとり一度きり、一時間という制限もあって、そんなに頻繁には使えていないのですが、これまで四度ほど、助けていただきました」
「そうですよね、よく知っています。やはりなかなか使いどころが難しい物なのだなと、私たちも思っています」
「え、よく知っています?」
「はい、懐中時計を通して、どのように使われているかを観察させていただいていますから」
訝しげに眉をひそめる弥那に、夏音は澄まし顔で何てことでも無いようにさらっと答える。
「大体は、昨日達矢さんが仰っていた推測通りです。カモフラージュというわけではないですが骨董屋として営業している傍ら、地下にラボラトリーがあり、店主はその所長で私は助手です。達矢さんにはその懐中時計の被験者として、ご協力いただいています」
「え、じゃ、じゃあ貴女たちは、今まで四回、誰が何のためにこれを使ったのか全部把握してるの?」
あまりのことに、理解が耳に追いつかない。何がなんだかわからず、丁寧語が吹っ飛んだ。
「その通りです。弟の和也さんの時には、こちらから働きかけて懐中時計を回収しようともしていました」
やっと理解が耳に追いついた。と思ったら、今度は疑問が泉のように湧き出してきた。
「ちょっと待って。じゃあ貴女たちは、一時間どころか何時間も何日も何ヵ月も何年も、タイムリープする事ができるの? いったい貴女たちは何者なの? 自由にタイムリープできるなら、何のために私たちの世界に現れて、この懐中時計を達矢に売ったの? それに――」
若干興奮気味になって、矢継ぎ早に次から次へと疑問が溢れ出す。
「弥那さん弥那さん。お気持ちはわかりますが一回深呼吸して落ち着いてください。これからひとつひとつ、疑問にお答えしていきますから」
その言葉通り弥那を落ち着かせ、頃合いを見て、夏音は答え始めた。
――まず、確かに私たちは、その懐中時計を使わずともタイムリープすることができます。このように建物ごと、別世界へも。できますが自由自在に制限なくいつでもどこへでもというわけではありません。ある程度です。一定のルールも制限もあります。例えば、こちらに来たくても、弥那さんの前職のカフェのように、時空の特異点がある地点にしか繋がりません。
「やっぱり時空の特異点があったんだ、ここに。たまに店の前がぐんにゃり歪んで見えることがあったから、もしかしたらそうなんじゃないかとは思っていたの」
――ええ。特異点といいますか、ひずみやゆがみと言った方が近いかもしれません。次に私たちは、あなた方から見て“内側の世界”の住人です。
「内側の世界? この世界の時間軸の先にある未来でもなく、別次元の世界でもなく?」
――並行世界、というのが近いかもしれません。逆に私たちから見るとあなた方は“外の世界”の住人なんです。お気づきとは思いますが、あなた方とは異なる歴史や文明を有しています。ただ言語や通貨については、こちらの世界のそれと変わりありません。
「翻訳や両替は必要無いってことね?」
――そうです。そしてその懐中時計は、私たちの世界からすると過去の産物であり、私たちがタイムリープできるようになった初期の時代のものなんです。
「私たちからするとどちらも未来のものに思えるんだけど」
――そうですよね。そして研究の一環で、その懐中時計を、外の世界のタイムリープできない時代の人たちが使ったらどうなるだろうということを調べるために、被験者を無作為に探し、該当したのが達矢さんだったんです。
「無作為になんだ。まったくあの男は、運がいいのか悪いのか」
――ちなみに、それは試験機ではなくむしろ量産機でして、ひとり一回一時間だけという縛り以外の制限はありません。
「時計自体の使用回数は制限無しなの?」
――はい。動力がネジ巻き式ということもあって、使う人が変わっていけば半永久的に使用できるものだということは、文献からわかっています。ただし取り扱い説明書のようなものはありますが設計図が残っておらず、研究していても構造的にはまだわからないことが多く、現存する部品も少ないので、何かの拍子に壊れてしまうと、壊れ方によっては直すことができないかもしれません。
昨日の雅美さんとのやり取りも、懐中時計を通して観察させていただいています。その上でこのように、これらのことをお伝えしようと、今日また時空の狭間にお店を出現させ、現時点でそれの持ち主である弥那さんをこちらの世界へご招待させていただいたというわけです。
僭越ながら、達矢さんに知られたくない話もあるだろうと邪推して。
「そうだったんだ……」
懐中時計に目を落とし、呟く。
――達矢さんは懐中時計をこちらに返したがっていたようですが、これらのことを知った上で、弥那さんはいかがお考えですか?
「私の考えの前に、質問してもいい?」
夏音の問いかけに、弥那は肘から下を挙げて、そう言った。
――何でもどうぞ。
「四人が四人とも、閏時を使って一時間戻った時に、戻る前の自分と遭っていないの。あれってどういうこと?」
――それは、閏時を使った時点で、巻き戻した一時間の間の出来事も使用者もリセットされ、無かったことになるからです。
夏音はさも簡単なことのように言ってのけるが、行われていることはとてつもなくとんでもない。いったい何をどうすれば、これの竜頭を操作する数秒間でそれだけのことが出来るのか見当もつかない。きっと訊いてみて答えられても、自分にはとても理解できないだろう。
――たとえば弥那さんが閏時を使用される際、あなたは達矢さんの血で手や服が真っ赤になったのですが、閏時を使用したことで達矢さんが交通事故に遭ったことが無かったことになり、血の跡が綺麗さっぱり消えたのです。お気づきでしたか?
「それどころじゃなかったって事もあるけど、全然気づかなかった……。じゃあもうひとつ。もしこれを返さなかった場合、それに壊してしまった場合、そちらにとって不都合は無いの? 話を聞く限り、そっちの世界でも貴重なものであるように思えたけど」
――確かに貴重なものではあります。しかし私たちとしては、どちらでも何の問題もありません。お買い求めいただき、すでにそれはあなた達のものなのですから。それでももしお返しいただいた場合は、三千二百四十円はお預かりしていたものとしてお返しして、他の被験者を探します。そしてその方をこちらに招待して、所長がここの店主としてこう言うのです。
ここで、どこからともなく男性の――おそらくは所長の――声がした。
「もしその時計で一日を二五時間に出来るとしたら、お前さんはどうする? お前さんならいくらでそれを買う?」
――と。
「うーん…………」
「――それで? 結局どうすることに決めたの?」
「返して来ちゃいました。かなり悩みましたけど」
「そっかぁ……」
後日。雅美が来店して店内の客が彼女だけになった時。弥那はテーブルにブレンドを置いて、その日のことを雅美に話した。
「じゃあ達矢くんは――」
ちょうど達矢がキッチンから出てくるタイミングで彼の方を向いて、水を向けた。
「ええ、弥那を通して返してもらいました、三千二百四十円」
達矢は雅美の前にティラミスを置いて、そう答えた。
「そうなんだ、律儀な人たちね。――でも、ほんとにそれで良かったの?」
いただきますのジェスチャーをして、ティラミスの一角を掬い取ってパクリ。再び弥那の方を向き、半ば心配するように問いかける。
「良かったのかどうかはわかりません。わかりませんけどやっぱり、私たちの世界にいま在ってはいけないものかなって思ったんです。和也のことは例外として、これまでは悪用されることはなかったですけど、だからってこれからもそうだという保証はどこにもありませんし」
「そこはほら、弥那ちゃんの人を見る目次第じゃない? もしもの時も、夏音ちゃんたちがモニタリングしてくれてもいるんだし」
「そうかも知れません。でももしあれがここにあることが外に洩れて、マスコミがやって来たり世間沙汰になったりするのは絶対嫌です」
「ああ、それは気持ち分かるかも。確かに大事にはしたくないし、そういう切り口でここが有名になるのは私も嫌だわ。むしろ、出来れば有名になって欲しく無いところだし」
「それはそれで僕らとしては困ります」
「そうよね、ごめんなさい」
慌てて達矢が割って入る。雅美はいたずらっぽい笑みを浮かべて謝った。
「考え過ぎなところもあったかもしれませんけど、あれのおかげで救われたことも救えたこともありましたけど。その一方で、いろんな心配事があることを考えたら、今のうちにあっちに返した方が良いのかなって思ったんです」
「そっか」
「はい。――ああそうだ。夏音さんから達矢にひとつ伝言」
「夏音さんから? 俺に?」
「ええ。『今度またそちらにお邪魔します、ティラミス楽しみにしてますね』だって。懐中時計を通して見たティラミスが、とても美味しそうに見えたんだって」
自覚してのことなのか、声のトーンがいつもより一段下がっていた。
「おっと〜?」
「なんだ、そんな事か。お安い御用だよ――って、何でたったそれだけの事なのに、そんな不機嫌なんだ?」
「べっつに〜? 不機嫌なんかじゃないよ全然」
「おっとっと〜。弥那ちゃんの不機嫌さには気づいても、その理由がわかってない達矢くん。意外と鈍感だ〜」
雅美は、弥那のちょっとした嫉妬心を見抜きつつ、それに気づいていない達矢を面白がっていた。
首をかしげながら、達矢は出入り口に『本日貸切り』の札を出し。
「雅美さん。もしよかったらメイポロパンケーキを食べて行かれませんか? まだ試作段階で、出来栄えを調整中なんですけど、それでも良ければ」
と言った。雅美はそれを聞いて、
「パンケーキっ? ――ご馳走さまでしたっ。ぜひ食べてみたい!」
ティラミスを秒で平らげると、瞳を輝かせて催促した。達矢は微笑んで、
「かしこまりました。ではご用意致します。焼きたてをお持ちしますので、少しお時間をいただきますね」
と言って、執事のように恭しく礼をしてキッチンに引っ込んだ。
そうして。
その日の閉店時間は特別に、閏時の分だけ、遅くなった。
終幕