第8話 ヒーロー参上!
「サ、テ」
プロフェッサー・キャンディが、自分の灰色がかった顎髭を撫でる。彼は決して黒マントから視線を逸らす事なく、しかし状況を確かに俯瞰していた。
切り捨てジャックの剣閃によって斃されたモスマンは凡そ4匹。残るモスマンは31匹といったところか。
彼は懐から飴玉を1つ取り出すと、左手のみで器用に包装を解き、中から出てきた黄色の飴玉(レモン味のようだ)を口の中へと放り込む。
コロリ、と頬の内側を転がる飴玉。その酸味を楽しむプロフェッサー・キャンディの振る舞いに、戦況への憂いなどは無いように見えた。
「目視できるだけでもモスマンが30匹近ク……発見がもう少し遅ければ大変な事になっていただろうネ」
おぞましきモスマンどもを一瞥しながらも、いたって冷静にそう語るプロフェッサー・キャンディ。彼の言葉を受けて、鞘に納めた刀の柄へと切り捨てジャックが手を添えた。
視線だけで敵を切り裂けるような、それほどに鋭い彼の眼差しが、初老のヒーローへと向けられる。
「それで教授、オーダーは?」
「殲滅一択だろうサ。魔界の怪物、それも呪毒持ちを野に放つ訳にはいかないヨ」
「仔細承知。それでは──」
切り捨てジャックがモスマンの群れへと向き直る。
『GIッ──SYAAAAA!!』
それと同時に、モスマンどもはけたたましく奇声を上げながら群を成して切り捨てジャックへと襲い掛かった。無数の目を赤く点滅させながら牙を剥く娥人間の脅威は、標的が常人であれば、いとも容易く死に至らしめる事ができるだろう。
──標的が常人であれば、だが。
「切り捨てるとしましょうか」
スゥ、と切り捨てジャックの目が細められる。納刀したままの刀を握りながら、彼は大きく腰を落とす構えを取る。
次の瞬間、切り捨てジャックは構えをそのままに地面を蹴り飛ばし、迫り来るモスマンの脅威へと自ら飛び込んでいった。
光さえ呑み込む漆黒の塊へと、まるで砲弾めいた勢いで吸い込まれていく1人のヒーロー。普通であれば、自殺行為と思われるだろうその行い。しかしそれは──
「“切り捨て御免”」
切り捨てジャックにとっては、ただの攻撃手段に過ぎなかった。
正面からモスマンの群れへと突っ込み、内部を突っ切り、後方へと飛び抜けた切り捨てジャック。彼の手には、いつの間にか抜刀されていた一振りの刀。
見れば、モスマンの群れがグシャリと半分に割れ、幾匹かのモスマンどもが身体を崩壊させる事で己の死を表現している。
月光でキラリと煌めく白銀の刃は、磨き上げられた居合切りの一閃によって、モスマンどもを切り裂いて──否、切り捨てていた。
「す、凄い……」
モスマンの麻痺毒から未だ復帰できずにいた黒マントは、その光景を見て感嘆の一言を呟いた。憧れていたヒーローの活躍、それを間近で見られている事への感動。先日、プテラブレードと共闘した時とはまた別ベクトルでの喜びが、フツフツと炭火のように湧き上がる。
だからこそ、黒マントはこの状況をただ座視していたくはなかった。痺れる手を動かしながら、何とか懐の解毒薬を取り出そうと試みる。
「おっ……俺、も……!」
「おっと、待ち給エ」
そうして、ヨロヨロと立ち上がらんとする黒マントをプロフェッサーが制する。彼の目線は黒マントを見据えているが、その瞳に嘲りの感情は無いように思えた。
「モスマンの毒が回っているのだろウ? 暫くは私たちに任せ給エ」
「だ、だが……」
「まァ、見ているといいサ」
それだけを言い残し、カッコと靴音を立てながらプロフェッサーは前へ出る。コロリ、と彼の口の中で飴玉が転がり、プロフェッサーはワイルドな笑みを浮かべた。
「ジャック君、私も動いていいかネ?」
その声は、モスマンどもの囀りが木霊する戦場にあってもよく響き、遠くの切り捨てジャックまで届いたようだ。
「大丈夫なのですか?」
「ディナーに食べたチョコレートケーキ分のカロリーは消費しておきたいのだヨ」
「50手前にもなって、またそんな甘ったるいものを……どうせ1ホール丸々なのでしょう? 血糖値が不安で仕方ありませんよ」
「イヤイヤ、私の研究では魔力とカロリーには密接な関係が……とまァ、それは今は良イ」
カッツ。
プロフェッサーの靴音が、周囲の騒がしさを上塗りする。それは当然、闇夜で蠢くモスマンどもの塊にも聞き届いた。
ジロリ、とモスマンの真っ赤な眼差しがプロフェッサーの全身へと突き立てられる。
『GYUIIIIIIIIII!!』
今再び、モスマンどもの猿叫が放たれる。先の50匹による混声合唱と比べればその総数こそ減っているが、毒混じりの呪詛は決して侮ってよいものではない。
黒マントは身に纏う魔法のローブマントによって呪詛の雄叫びを防御するが……
「モスマンの呪われた叫び。成る程、これは確かに脅威だネ」
「お辛いようなら下がっていてもいいのですよ? 教授」
「真逆」
超人と一般人の相違点。それは肉体の強度にあると言っていいだろう。肉体強化系でなくとも、何らかのスーパーパワーを持つ超人は、肉体・精神共に一般人よりも耐久性に優れている。
故にこうして、モスマンどもの猿叫を聞いてもなお、彼らのコンディションに大きな悪影響は生じていない。
プロフェッサーはモスマンどもへと向けて、まるで手を差し伸べるようなポーズを取る。それは或いは、挑発とも受け取れるような体勢と見る事ができるようで。
「学生のガヤ程度で講義を中断していたら、教授は勤まらないヨ。さ、かかって来給エ」
『KYAGIIIII!!』
聞く者を震え上がらせるような叫びと共に、モスマンどもが襲来する。しかし、先ほどまでとは状況が異なっていた。
モスマンどもによって形成された漆黒の塊は2つに分割され、片方はプロフェッサー・キャンディへ、もう片方は切り捨てジャックへと襲い掛かっていく。
戦力を分散する事で、同時に2つの脅威を排除しようと試みているのだ。
それを理解して、プロフェッサーはニタリと笑う。
「成る程、場合によっては確かに有効な手段だろうネ。けれど──」
目を細めるプロフェッサー。一切動じもしない老いた人間を喰らい尽くそうと、無数の牙が殺意を剥き出しにして接近してくる。
プロフェッサーはそれを見据え、右手に持ったステッキをクルリと1回転。カツンと音を立て、ステッキの先端で地面を叩けば。
「“チョコレートプリズン”」
黒マントの視界は、一瞬世界が変わったように錯覚した。
「GYAッ!?」
「GUGIII!?」
モスマンどもの軌道上に突然出現したものは、氷で構築された巨大な檻。魔法使い系ヒーロー、プロフェッサー・キャンディが得意とする氷の魔法だ。
瞬く間に冷たい檻の内側へと閉じ込められたモスマンどもは、勢い余って氷の格子に衝突し、狭い空間の中を混乱しながら飛び交う。
それはまるで、虫かごに閉じ込められた蝶のようであり──
「“ママレードニードル”」
氷でできた檻。その天井や床、格子など至るところから、檻の内側に向かって氷の棘が伸びていく。
逃げる場所もなく、全方位から襲い来る氷の棘に対処する事もできず。モスマンどもはただ、冷え切った死の棘を全身に突き立てられる他無かった。
『GISYAッ──KYAAAAAAAA!?!?』
「相手が悪かった、それに尽きるヨ。次からは敵の戦力評価をきちんと行うようニ」
プロフェッサーのフィンガースナップによって氷の檻にヒビが入り、轟音と共に弾け飛ぶ。
月の光で幻想的に輝く無数の氷の欠片。それらに混じり、灰となって崩れていくモスマンどもの死体がボトボトと地面に落ちる。
やがてプロフェッサーが手を横に薙ぐと同時に氷の欠片は消え去り、モスマンどもの死体もまた、灰へと転じた事でその場には何も残らなかった。
ダンディな顎髭を撫でながら、自分へと向かってきていたモスマンどもが全滅した事を確認したプロフェッサーは、切り捨てジャックへと安否の声緒を投げかける。
「ジャック君、そっちは大丈夫かネ?」
「ええ」
チン、と刀を納刀する音。
「あらかた切り捨てましたよ」
残心を忘れる事なく、しかし脱力の溜め息を吐いた切り捨てジャックの周囲には、ボロボロと崩壊していくモスマンどもの死体の数々が。
プロフェッサーが氷の魔法によってモスマンどもを斃したのと同じように、切り捨てジャックもまたモスマンどもの打倒を既に終えていたのだ。
仲間が無事な事を確認し、プロフェッサーは「良シ」と頷きを1つ。
「さテ。とりあえずひと段落したところで、今回の状況について聞かせてもらえるかネ? “怪人黒マント”く──」
「──GISYAAAAAAAAAA!!」
意識の外。プロフェッサーが黒マントへと視線を動かした一瞬の間に、1匹のモスマンが飛び立つ。
それは、偶然彼らの攻撃を免れていた最後の1匹。身に受けたダメージによって、暗闇に潜む形で這い蹲っていたその個体は、今こうして反撃の機会と巡り合った。
低空飛行で、地面スレスレからプロフェッサーの懐へ飛び込もうとする報復の牙。
それに気付いたプロフェッサーが対応するには遅く、切り捨てジャックが割り込むには遠く。
麻痺毒でぬらぬらと濡れる牙が、年老いた男の喉笛を引き裂かんと迫り──
「させるかよ」
パシュ。
か細く、しかし月の光を受けて僅かに照る無数の糸が、モスマンの身体を縛り付ける。唐突に起きた異変に驚くモスマンは、糸の持ち主が手を薙ぐと共に、プロフェッサーから大きく距離を離された。
その糸がどこから放たれたかと言えば──無論、黒マントである。
左手の袖から射出した女郎蜘蛛の糸によって、絡み取ったモスマンを地面へと叩き付けた。彼の足元には、空になった小さなガラス瓶がコロリと転がっている。黒マントが薬草から自作した、魔女術の解毒薬だ。
黒マントは何とか麻痺毒の解毒に成功し、今こうして行動に移る事ができていた。
地面に叩き付けられたモスマンが身じろぐよりも早く。袖の奥底から取り出した猛毒のダーツを、黒マントは躊躇う事なく抜き放つ。
ダーツはモスマンの脳天に突き刺さり、呪詛の溶け込んだ猛毒を以てモスマンを絶命させた。
袖の奥のウィンチを稼働させ、身体が崩壊していくモスマンから糸を回収する。そんな黒マントの背後には、プロフェッサー・キャンディと切り捨てジャックの2人が立っていた。
「すまないネ。私とした事が、油断してしまっていたようダ」
「礼を言われるような事ではない。借りを返しただけだ」
「借り、ですか」
スゥ、と切れ味鋭い目つき。黒マントに対する警戒を崩さない切り捨てジャックの動向を、プロフェッサーは「まァまァ」と手で制した。
「改めて自己紹介といこうカ。私はヒーローネーム『プロフェッサー・キャンディ』。気軽に教授と呼び給エ」
「ヒーローネーム『切り捨てジャック』です。お見知りおきを」
「……俺に名前は無い。好きに呼ぶといい」
感情を押し殺した、不愛想極まる言動。
先日のプテラブレードに続き、新たに切り捨てジャックとプロフェッサー・キャンディに会う事ができた。その上、自分の危機を救ってもらう事さえできた。
黒マント──翔の内心は、著しい興奮状態に陥っている。故に翔は、心の奥の感動を表に出さないよう必死に堪える。
その事を知らない2人のヒーローは、顔を見合わせる。「フム」と声を出しながら言葉を返してきたのはプロフェッサーだ。
「それで、“怪人黒マント”君。君の事はプテラブレード君から聞いているヨ。危ないところを助けてくれたそうだネ」
「……偶然の結果だ。彼女ならば、俺が何かしなくてもヴィランを退ける事ができていただろう」
「そういう事にしておくヨ。とはいえ、“悪女野風”の脅威はまだ去った訳じゃないけどネ」
「……“悪女野風”?」
聞き慣れない単語に首を傾げる黒マント。その様子を見て、プロフェッサーは「そうだったそうだった」と先の発言に補足をつける。
「“悪女野風”というのは、件のヴィランに対して我々がつけた便宜上の名前だヨ。呼び名が無いと何かと不便だろウ?」
「それで“悪女”などという名前をつける教授のセンスも大概ですけどね」
呆れたようにそう言い放つのは切り捨てジャックだ。
「大概とはどういう事かネ、ジャック君。ちゃんと由来もあるのだヨ? 1812年の伝記小説『天縁奇遇』に登場する、全身に99個の口を持つ同名の妖怪が……」
「それで、“怪人黒マント”さん」
プロフェッサーの言葉を遮るように、というか無視しながら。切り捨てジャックは黒マントへと向き直る。キリっとしたその佇まいは、まるで存在そのものが一振りの刀であるかのよう。
「詳しくお話を聞かせて頂きたいのですが……いいですね?」
切り捨てジャックの言葉に、黒マントはコクリと頷いた。