第7話 モスマンとの暗闘
2匹目のモスマンが廃工場から飛び出したのと、黒マントの袖からミスリルの鎖が放たれたのは、ほぼ同時だったと言っていいだろう。
「GEKYAッ!?」
自らを縛り付ける鎖に仰天するモスマン。その身体は、ミスリルが帯びる破邪の魔力にとって音を立てながら焼けていく。
悲鳴を上げるモスマンを他所に黒マントが右手を大きく横に薙げば、鎖で拘束されているモスマンもまた、遠心力によって強く地面に叩き付けられた。
砂煙の向こう側では、ピクピクと痙攣するモスマンの姿。その肉体がボロボロと崩れ去り、モスマンが絶命した事を鎖を通して察知した黒マントは、機械的な動作で鎖を回収する。
「俺の見立てでは、残存モスマンは約50匹。速攻で叩く!」
そうして黒マントがダーツを投げ撃とうとした矢先。
『────KIKYAAAAAAAAAAAAAAA!!!』
50匹のモスマンによる猿叫。呪詛の魔力を含んだ悪魔の雄叫びは、廃工場周辺の大気をビリビリと震わせて、生者の命を侵し溶かそうと黒マントの鼓膜を揺さぶる。
思わずダーツを投げる寸前のモーションで停止してしまう黒マント。牙に毒を持つモスマンは、その鳴き声にも毒という名の呪いを宿している。しかも、それが50匹。常人であれば魂が狂い死ぬだろう死神の合唱は、果たして──
「……気を抜くと命取りになるな、これは」
黒マントの精神を揺さぶりこそしたものの、モスマンどもが目論んだ彼の絶命とは程遠い結果に終わる。
動揺するモスマンども。それを見逃す黒マントである筈がなく、改めて猛毒のダーツが投擲される。ダーツはモスマンの群れの1匹に命中するも、深々と突き刺さらなった為か、その場に倒れ伏させたものの毒が完全に回ってはいないようだ。
「このマントが無ければ危うかったな。ヒーローならば、超人的なスペックでノーダメージと聞くが……」
モスマンの呪詛を撥ね除けた秘密、それは彼が“怪人黒マント”たる由縁、身に付けているローブマントにある。
彼のマントもまた、魔女術の技術を用いて作られた魔法の道具の1つ。魔力を糸に変換して編まれており、ある程度の魔法ならば軽減、ないしはシャットダウンする対魔力の布なのだ。
『GISYAAAAA!!』
それを知る由も無いモスマンどもは、翼をはためかせて一斉に廃工場の外へと飛び出してくる。どす黒いモスマンの群れが空を覆い、黒マントは自分の周囲が急に暗くなったかのように錯覚した。それはまるで、月明かりに照らされた夜空を真の漆黒で染め上げる闇の雲。
赤い無数の光が漆黒の雲をおぞましくデコレーションし、隙間からガチガチと聞こえてくる歯ぎしりは聞く者を不快にさせる事間違いなし。
「空中に出たか! ならば……」
黒マントが投擲の構えを取る。左手に握られたルーンカードは5枚、その内の1枚を上空のモスマンどもへと向けて投げた。
宙を切り標的へと向かうカードに刻まれているのは松明のルーン文字だ。先ほど視界の強化に用いたルーンだが、本来の使用法は──
ドォオォオン!
「GIGAッ!?」
「GYAGYAAA!?」
爆発。
魔力を流す事で起動した松明のルーンは、モスマンの群れの中へと消えたカードを起点として、灼熱の炎を生み出した。
多分に魔力を含んだ魔法の火炎は、空中で固まって飛行していたモスマンどもの身体をその熱で呑み込んでいく。
モスマンの群れによって月光が隠され、夜空を蝕んでいた黒色は、どうしようもないほどに熱く燃え焼けるオレンジ色を以て四散した。
ボトボトと、その身に炎を纏わせながら落下していくモスマンども。それはまるで、蚊取り線香の煙で死に絶えゆく夏の虫を思わせる光景だった。
その身を灰に変えながら崩壊していくモスマンの死骸を踏み潰しながら、黒マントは冷静に残存戦力の解析を進めていく。
「……チッ」
ギャアギャアと騒がしく囀るモスマンどもを見て、黒マントは自分の見立て以上にモスマンが生き残っている事を知った。
反射的に出てしまった舌打ちは、モスマンどもの鳴き声によって掻き消される。
普段の翔であれば舌打ちなどしないだろう。しかしプテラブレードとの邂逅時、話し方から正体を推察される事を恐れた黒マントが意図的に口調を変えていた為、黒マントとしての活動をしている時は自然と口調が変わってしまっている。
翔の一人称である「僕」が、黒マントの時は「俺」になっているのがその証左だ。
「5匹……いや、4匹が限度か。やはり、独学ではこの程度という訳だな」
黒マントは魔法道具職人、つまり魔法使いである。しかし、彼には魔法使いとしての明確な師匠、先生、教師の類いは存在しない。
彼の力の根元は、今は亡き両親が蒐集していた魔導書だ。その記述を元に独学で勉強し、魔女術とルーン魔術を身に付けた翔──黒マントの魔法の技量は、あまり高いとは言い難い。
無論、独学でここまで会得したのはひとえに素質・才能があったが故だろう。しかし、それを加味しても──
「これは少し、厳しいかもしれんな……!」
“怪人黒マント“は非力である。戦闘能力が欠けている、という意味ではなく、純粋な身体能力に乏しい。通常の魔法使い系の超人であれば、肉体強化系の超人に比べれば劣るものの、ある程度の身体能力は持っている。
しかし黒マントは──黒井 翔は一般人である。魔力を持ち、多少魔法の才能があるだけの一般人である。超人ではない。
彼はそれを魔法道具やルーン魔術で誤魔化してはいるものの、それにもやはり限度がある。
超人と一般人との身体能力の差で、最も顕著なもの。それは──持久力だ。
(残り46匹……保つのか?)
マラソンをスタートからゴールまで全力を維持しながら走り続けられる一般人は少ない。超人であれば可能だろう。しかし、黒マントは超人ではない。
モスマンが全滅するのが先か、黒マントが息切れするのが先か。この戦いはそういった側面も併せ持つ。
こうしている間にも、モスマンどもは直ぐに陣形を立て直し、同胞の命を奪った黒マントへ強い恨みの視線を注いでいた。
空を埋め尽くすほどの異形の群れ。相対するは、限りなく超人に近く振る舞う一般人。傍目から見れば、無謀な挑戦にしか見えないだろう。その事は、黒マント自身がよく知っていた。
しかし、それでも。
「負けてたまるかよ」
右手に毒のダーツを、左手にルーンカードを強く握り締める。袖の奥からは、ミスリルの鎖とアラクネーの糸が、いつでも射出できるように見え隠れを繰り返していた。
例え無謀な戦いと言われようとも、愚者の行いと嘲られようとも。元より、黒マントには撤退という選択肢は存在しない。
自分はヒーローではない、ヒーローと呼ばれる資格は無い、ヒーローとして在れるだけの実力は無い。自らを自嘲する言葉は幾らでも心の底から浮上してくる。だが、その上で──
──俺の憧れるヒーローは、こういう時に逃げるような人たちじゃない。
ニヤリ、と笑みを1つ。素顔は純白の仮面で覆い隠されているが故に、その笑みを知覚できる者は誰もいない。
それでも黒マントは、己を奮い立たせる為にあえて笑ってみせた。
「押し通る」
ただ一言、そう呟いて。モスマンの群れが動き出すと同時に、黒マントは松明のルーンカードを1枚投げ放った。カードが手を離れる瞬間に魔力を流し込んでいる為、数秒のタイムラグを置いてルーンの力を起動させる事ができる。
しかし、今回は先ほどとは状況が違った。
『GYUGIIIII!!』
ルーンカードがモスマンどもに届く直前、モスマンの群れは2つの塊に大きく割れる。その直後、虚空にて松明のルーンが起動して爆発。爆発による熱風がモスマンどもを襲うものの、直撃を避けた為に明確な脱落者が出る事は無かった。
「──!」
「GYUUUUUGIIIII!!」
これには黒マントも驚いた。同時に、自分がモスマンどもを無意識下で過小評価してしまっていた事に気付き、それを強く恥じた。
モスマンどもはルーンの威力と脅威を理解したのだ。その上で脅威に対応するべく、グループを2つに分けて直撃を回避するという手段を講じた。
それを群れ単位で行ったのだ。何という知能と情報伝達能力だろうか。黒マントは内心で舌を巻きつつ、目の前の怪物どもを強大な脅威だと再認識する。
(やはりここで叩く! 野放しにするのはあまりにも危険だ!)
2つの集団に分かれたモスマンどもは、空中をうねるように飛行し、黒マントの左右から襲い来る。挟み撃ちだ。
ガチガチガチガチ、と牙を噛み合わせる不協和音が黒マントの精神を乱れさせる。
しかし、黒マントとて魔界の怪物との戦いはこれが初めて、という訳でも無い。活動を始めてから1年しか経っていないと言えど、黒マントも人知れず命懸けの戦いを繰り広げていたのだ。
故に、左右から襲来せんとする漆黒の暴威に対して、黒マントはただボケッと突っ立っている訳が無く。
「──ここっ!」
左右から迫る死の黒に対して、黒マントはそれらが自分へと着弾するギリギリのタイミングで前方へと転がり出る。
素早い前転、素早い受け身、素早い態勢の立て直し。両手に握られた己の武器を決して振り落とす事はなく、その場からの離脱に成功した黒マントは、振り向きモスマンどものリアクションを観測する。
「GYUGIッ!? GIッ、GIッ!」
「GIGAGAGAッ!」
獲物を見失ったモスマンの群れは、互いにスピードを殺しきれずに正面衝突。上空に吹っ飛ばされる、地面に叩き付けられるなど、様々なダメージを受けているようだが致命傷には程遠い。
しかし、黒マントとしてはそれでよかった。群れ同士が正面衝突し、場が混乱したその一瞬こそがチャンス。
黒マントの左手に握られたルーンカードは4枚。その内の2枚を、黒マントはモスマンの群れの直下へと投げ付けた。
混乱から立ち戻りつつあるモスマンの群れの真下。地面に着弾した2枚のルーンカードには、どちらにも同じルーン文字が記されている。注がれた魔力によって淡く輝くルーン文字は──
「“棘のルーン”!」
棘のルーン文字。暗示するところは「計画的な足止め」「危険回避」。魔力によって力を発揮したルーンカードは、逃げるタイミングさえ計れなかったモスマンどもの顎へ、地面から伸び襲い掛かる槍の柱を突き立てた。
『GUGYAAAAA!?!?』
数匹(黒マントの見立てでは4匹ほど)のモスマンが、百舌鳥の早贄めいて串刺しに合う。その周囲にいた他のモスマンどもは、間一髪のところで回避に成功したようだ。
効果を失った槍が崩壊していくのとほぼ同タイミングで、串刺し状態のモスマンどももまた、魔界の怪物の宿命としてその身を焼き焦がしていく。
意識していなかった位置からの奇襲により、再び混乱状態に陥るモスマンども。無論、黒マントがそれを放置するかと言えば否である。
「“松明のルーン”!」
左手に持っていた残り2枚のルーンカードが投擲される。敢えてモスマンどもの手前で起爆するよう魔力量を調整された松明のルーンカードは、黒マントの目論見通りにモスマンの群れを二重の爆風で吹き飛ばす。
「──見えた! “ヒドラのダーツ”!」
右手に持っていた毒のダーツ、5本全てを投げ放つ。1本1本がまるで別の生き物であるかのように別々の軌道を描き、地面に墜落したモスマンや空中に投げ出されたモスマンなど、無防備な状態の個体へと死を齎すべく飛来する。
「GYAッ!?」
「GYAGUッ!?」
「GUGAッ!?」
標的たるモスマンを確実に撃ち抜いた死の矢弾は、強力な毒素と呪詛の魔力を以て、新たに5匹のモスマンをこの世から消し去った。
またそれ以外にも、松明のルーン魔術によって起きた二重の爆風を受けて焼け死んだモスマンが数匹。黒マントが目視した範囲では、ざっと2匹ほどと言ったところか。
黒マントの攻勢によって、残りは概算で35匹ほど。
「よし、ここから──ッ!?」
しかし、ここで想定外の事態が生じた。
「GIGYA、GYA…………」
初めにダーツを当てたモスマン。完全に毒が回り切っていなかったが故に、その場に崩れ落ちるのみで済んでいた個体が動き出していた。
地面を這いずるように低空飛行していたその個体は、黒マントの意識の外から強襲。その左腕へと噛み付いた。
「ぐ、うぅう……ッ!」
マントを貫通し、腕に食い込む毒の牙。痛みを食い縛った黒マントがモスマンの腹を蹴り上げれば、モスマンは空中へ吹っ飛ぶと同時に腕から離れていく。奇襲してきた個体は、数秒滞空した後に落下。今度こそ絶命したらしく、肉体が灰となって風に消える。
だが……
「チッ……俺とした事が……!」
膝をつく黒マント。モスマンの牙に含まれている毒は即効性の麻痺毒だ。一度噛み付かれてしまえば、たちまち身体の自由は失われていく。
それ自体は、直接的な死には至らない。だが、間接的な死には十分繋がり得る。
その「間接的な死」が何かと問われれば──
『GIGYAAAAA……!』
麻痺毒によって動けなくなった獲物を襲う、モスマンの群れによる狩りだ。モスマンはこうやって獲物を狩っている。
痺れる指先を何とか動かしながら、マントの内側へと手を伸ばす黒マント。何も彼は、毒薬しか作れない訳でも、作らない訳ではない。薬と毒は表裏一体。当然、魔女術には傷を癒し毒を治す薬品に関する技術・レシピも存在する。
そして魔女術を会得している黒マントもまた、治癒・解毒の水薬は常に携帯していた。
だが、この状況ではどうだろうか。
麻痺毒を何とかする為には解毒薬を飲む必要がある。しかし、解毒薬を懐から取り出して服用する動作を、麻痺毒が妨害する。
当然ながら、時間をかけて落ち着いて取り出せば服用も可能なのだが……
「それを許す筈も無し、か……」
「GYAッ、GYAッ、GYAッ!」
果たしてそれを、目の前のモスマンどもが放置する道理があるだろうか?
歯を食い縛る黒マント。一か八かで力を振り絞り、右手から鎖を射出しようと試みる。
『GIGA──GISYAAAAAAAAAA!!』
それを嘲笑うかのように、モスマンの群れによって形成された漆黒の殺意は、容赦なく黒マントへと襲い掛かり──
「フム、どうやらアレが現場のようだネ」
「どうしますか? 切り捨てますか?」
「お任せするヨ、好きにやり給エ」
「仔細承知」
一閃。
黒マントの背後から、彼を飛び越えるようにして奔る一筋の光。
仮面越しに黒マントは見た。月光を反射して銀色に煌めく刃の軌跡を。
白銀に閃く太刀筋は、黒マントを飛び越えてモスマンの群れへと飛び込み──
「──“切り捨て御免”」
黒の暴力を一刀の下に切り伏せた。
肉体を崩壊させながら崩れ落ちていくモスマンの群れ。黒マントは呆然としながらも、痺れの回った眼差しで、モスマンどもを一蹴した剣士の姿を認めた。
どこにでもある普遍的なジャージで身を包み、その上から銀色の陣羽織を羽織った男。ゆっくりと刀を納刀しながらも、刃を思わせるほどに鋭く冷たいその眼差しは、モスマンどもと黒マントの双方への警戒を怠らない。
「貴様……いや、あなたは……」
「やァやァ、無事かねそこの君」
不意に、後ろから声がかかる。痺れる身体で何とか背後を振り向いてみれば、そこにはダンディな渋い声色から想像できる通りの初老の男性が立っていた。
「プテラブレード君から聞いた話と、この状況……成る程、君が噂の“怪人黒マント”だネ?」
初老の男性は外国人であるらしい。老いてなお人を魅せ付けるようなダンディズムに満ちた容貌。朱色のコートを着込む彼の手にはステッキが握られており、より男性の渋さを際立てているようだ。
男性はモノクル越しの知性溢れる視線で、黒マントを見定めている様子。
この場に現れた2人の男。黒マント──翔は、男たちの事をよく知っていた。
何故ならば──翔はずっと、彼らの活躍を追っていたのだから。
「切り捨てジャックに……プロフェッサー・キャンディ……!?」
「オオ、よく知っているじゃないカ。そうともその通リ」
プロフェッサー・キャンディと呼ばれた初老の男性は、正解だとニヤリと笑った。遠くでは、剣士の男──切り捨てジャックもまた、コクリと頷いている。
「ヒーローチーム『樫の杖の七番目』、只今罷り越した次第だヨ。さァ、講義を始めようカ」