第2話 現れた都市伝説
翔たちがホームルームを受けている時間から時計の針を少しばかり進め、放課後。
今日の授業全てが終了した事を告げるチャイムが学校中に鳴り響き、生徒たちはようやく終わったかと一息つく、そんな時間帯。
「あ、もうこんな時間か。じゃあ僕はそろそろ帰るよ」
「あら、翔んもう帰っちゃうの? 最近早いねぇ」
「気を付けて帰れよー。もし怪物やヴィランに出くわしたら……」
「直ぐに逃げる、でしょ? 分かってるさ」
リュックサックの中身を検めつつ、クラスメートたちとそんな会話を交わす。
リュックのファスナーがジッと音を立てて閉じられ、翔はそれをよいせと背負い、教室の扉に手をかけた。
「じゃあ、また明日」
「はいはーい、またねー」
「ヴィランや怪物も怖いが、“怪人黒マント”にも気を付けるんだぞ」
「ははは、ジョークとして受け取っておくよ」
軽く笑い、扉をガラリと開く。何の躊躇いもなしに教室と廊下の境を跨ぎ、教室を後にする翔。
「所詮は都市伝説。あんまり真に受けないようにね」
その言葉を最後に、教室の扉がピシャリと閉じられる。
その時、翔は教室に背を向けていた為にクラスメートたちには気付かれなかったが──
翔は、どことなく気まずそうな表情を浮かべていた。
「そう、都市伝説……で、あるべきなんだ」
そう小さく呟いて、翔は廊下を歩き去っていく。
■
ふぅ、と小さな溜め息が大気中へと拡散していく。
チラリと右を見てみれば、遠くビル街の彼方へと夕日が沈んでいこうとしていた。
どこからかカラスの鳴き声さえ聞こえてくる。一般的に思い浮かべるであろう夕暮れの光景が、翔の視界に広がっていた。
「今日の夕飯は何にしようか……久々にカレーでも作ろうかな」
ポツリ、とそんな他愛の無い独り言を漏らす。
翔が1歩1歩足を動かす度に、様々なものが詰まったリュックサックが、翔の肩と背にその重みを伝えていく。
夕飯をカレーにするならば、スーパーに行かねばならない。今日の特売は何だっただろうか? 他に何か買うものは無かっただろうか?
そんな事を考えながら帰路を急ぐ彼の姿は、凡そ普通の男子高校生そのものに見える事だろう。
黒井 翔。17歳、男性、馬宮高校2年。
両親は3年前に交通事故で死亡。現在は伯父が後見人を務めているが、翔たっての希望で、現在は両親と共に住んでいた家で一人暮らしをしている。
黒髪黒目の中肉中背。成績は中の上くらいといったところ。性格もいたって普通の好青年。
特記事項を挙げるとするならば、ヒーローに強い憧れを抱いており、自他共に認めるヒーローオタク。しかし少々度が過ぎるだけで、ヒーローオタクという点に然程の特異性は無い。
傍目からは、凡そ普通の男子高校生そのものに見える事だろう。
しかし、彼にはある秘密があった。それはクラスメートはおろか、親しい間柄の人物さえも知らされていないもの。
そしてそれは、黒井 翔という少年が普通の男子高校生ではない事を示す、重大極まるものだった。
「そうと決まれば早く帰ろう。荷物を一旦家に置いてから──」
「──きゃあぁぁぁぁぁあ!?」
ピタリ、と。まるで時が止まったかのように、翔の動きが静止する。
翔の耳は、たった今聞こえてきた女性の悲鳴を決して聞き逃す事は無かった。
悲鳴を聞いた翔の顔つきは、先ほどまでの普通の学生らしい柔らかなものではなく。鋭く研ぎ澄まされた眼差しと、状況を素早く把握する為の、まるで軍人めいた真剣な表情へと変化していた。
(悲鳴は直ぐ近くから聞こえてきた……きっと、この辺りに……)
キョロキョロと周囲を見回す翔。彼の頭の中では、事態は既に一刻を争うものだと認識されている。
状況を知る事は即ち、悲鳴を上げた人物の生存率に直結するのだと、翔は知っていた。
「……いた」
果たして翔の予想通り、悲鳴の主は直ぐに見つかった。
それは、翔のいる場所からほんの少し離れたところにある狭い路地裏。その奥の奥、よく目を凝らさねば見えないほどの位置に、それらはいた。
「っひ、ぃひい……」
1人は、OLと思しき女性だ。彼女は目の前のそれに対して、明らかな恐怖の感情を剥き出しにして怯えている。路地裏に直で座り込み、彼女の持ち物らしき鞄の中身はそこら中に散乱していた。
そして、もう1つ。怯え、どうする事もできない女性を前に立つその異形。
「GURURURURU……!」
それを一言で言い表すならば、「鬼」だ。
どす黒く、それでいて筋骨隆々とした肉体は、明らかに異常としか言い様が無い。額から生えた1本の歪な角と、虎めいて鋭くねじ曲がった牙が、それが尋常の存在ではない事を雄弁に語っている。
それがどこから現れ出でたかを正確に知る者はいない。ただ、この世界に生きる存在は誰もが、それが“魔界“と呼ばれるもう1つの地球から這い出てきた存在であると知覚している。
或いは、この“人界”に生きる者たちの本能とでも言うべきナニカがそう囁いているのかもしれないが……少なくとも、今重要な事ではない。
今最も注目するべきは、魔界より出でた怪物(仮に悪魔と呼称する)が、路地裏の奥で女性を襲わんとしている事のみだ。
誰かが介入しなければ、あの女性を待ち受けている末路は悪魔の餌に違いない。或いは介入したとしても、悪魔の食卓に並ぶメニューがもう1品増えるだけかもしれない。
ヒーローは、魔界の怪物どもやヴィランと戦える、即ち対等に渡り合えるだけの能力を持っているからこそ英雄と呼ばれるのだ。
この場にヒーローがいない以上、力無き一般市民が悪魔の前に出ても犠牲者が増えるだけに過ぎない。
──そう、この場にヒーローはいない。
にも関わらず、翔は周囲を見渡していた。周囲に誰かがいないか、監視カメラはどこにあるか。女性と悪魔から意識を外さずに、いたって冷静に周囲の把握に努めていた。
それはまるで、誰か助けを求められる人物を探しているのではなく──
(目撃者なし、監視カメラもなし。それなら……)
それはまるで、周囲に誰もいない事を確認しているかのよう。
ひとしきり確認した後、翔は上を向いた。彼の目線の先には、小さなビルの屋上があるのみ。
それを「良し」と頷いた翔は、徐に左手を掲げ──
次の瞬間、左手の袖から糸が射出された。
パシュッ、という小さな射出音と共に、服の袖の内から白く細い糸が幾本も放たれる。それらは果たして翔の目論見通り、電柱の最上部に引っ掛かり、巻き付くようにして固定された。
それを確認するや否や、翔は大きく跳躍。その高さ、勢い共に常人のそれではない。同時に、左腕の袖の内側──ブレスレット型の小型ウィンチが小さな駆動音を立てながら、射出した糸を巻き取っていく。
驚異的な跳躍力と、電柱に引っ掛けた糸の巻き取り。2つの要素によって翔は見る見る内に上へ上へと昇っていく。
途中でビルの壁にぶつかりそうになった時は、壁を蹴り、電柱を蹴り。まるで立体軌道でもやっているかのように、あっという間にビルの屋上へと到達した。
翔は着地すると同時に、背負っていたリュックサックを近くに放り捨てる。
彼がクイと左腕を引っ張れば、電柱に巻き付いていた糸は電柱を離れ、袖で隠された小型ウィンチの中へと帰ってきた。
「目撃者……無し!」
再び周囲を確認する翔。彼は近くに放ったリュックサックに手を伸ばし、決断的な動作でファスナーを開け放った。
その中に入っていたのは、学校で中身を検めた時に入っていた教科書やノートなどではなく。
──折り畳まれた黒色のローブマントと、純白の仮面。
翔はリュックから抜き取ったローブマントを広げ、慣れた手つきでスパっと身に付けた。次いで純白の仮面を顔につけ、グイと具合を確かめる。
それらの所要時間は、果たして10秒もあっただろうか?
「…………良し」
ボソリと放たれた声色は、いつもクラスメートたちと話している時のそれではない。どこか威圧感の混じる、重く低い声だ。
そうして黒装束を身に付けた彼は大きく跳躍し、ビルの真下へと飛び降りた。
■
その女性の20余年の人生で、自らの不運を最も呪った瞬間があるとするならば、今がまさにその時だ。
彼女が何か変わった事をしたかと言えば、そうではない。普通に会社での業務を終えて、普通に家へと帰ろうとしていただけ。
その帰り道で、突如として目の前に、異形の怪物が──悪魔が現れた。ただそれだけの事で、女性の人生は終わる瀬戸際に立たされていた。
「ひっ、あ、ぁあ……!?」
「GO、GAAAAAAA……!」
女性は、ヒーローやヴィランとは無縁な生活を過ごしていた。それだけに、唐突に現れた“非日常”は彼女の思考をかき乱して仕方がない。
悪魔に襲われて、路地裏まで追い込まれた事に気付いた時には既に遅い。足はすくみ、思わず腰が抜けて座り込んでしまう。その場から立ち上がる事さえ、逃げ出す事さえできずにいた。
そんな状況に陥った女性が、分からない事だらけの現状で唯一理解できる事があった。
「GUKOKOKOKO……GAッGAッGAッ……♪」
目の前の悪魔は、愉悦している。女性が怯え、恐怖している様を見て、喜び、楽しんでいる。
たったそれだけの情報だったが、女性を絶望させるには十分だった。
ともすれば早く殺された方が、これ以上この恐怖を味あわずに済んで楽かもしれない。そんな思考さえ駆け巡ってしまう。
果たして女性がそう望んでしまったからか、悪魔は熊ほどに太く大きな腕を振り上げ、先端の鋭く歪な爪をキラリと光らせる。
あの爪が振り下ろされれば、女性の柔らかな肢体など容易く引き裂かれてしまうだろう。
女性の顔は、これ以上ないほどに恐怖の感情を帯びていた。
「GURUッ──GAAAAAAAN!!」
「ひっ──きゃあぁぁぁぁぁあ!?」
最早これまで。悲鳴を上げた女性が思わず目を瞑る。しかしいつまで経っても、彼女が想像していたような感覚も痛みも襲ってこない。
一体何が起きているのだろう。そう思い、女性がゆっくり目を開くと……
「GUA……GAAA……!?」
今まさに振り下ろされようとしていた悪魔の腕と、その手首を縛る──鎖。
淡い青白磁色に輝くその鎖は、幾重にも悪魔の腕に巻き付いており、決して動かさせまいと腕を縛っている。
やがて、変化が訪れる。鎖が巻き付いている悪魔の腕が、ジュウゥゥゥウと異質な音を立て始めたのだ。否、その表現は適切ではないだろう。
焼けているのだ。鎖が巻き付いている箇所が、肉が。音を立てて焼けているのだ。
「GAッ──GAAAAAAAAAAA!?!?」
けたたましく、悲鳴にも等しい悪魔の叫び声が路地裏に木霊する。
呆然とする女性。その視線は自然と、悪魔の腕を縛る鎖、その根元へと向かっていった。
ピンと伸びた青白磁色の鎖、その先にあるもの……それは──
「まことの銀は聖なる金属。貴様ら魔性の存在にとっては、苦痛そのものだろう」
そこに立っていたのは、悪魔とはまた別のベクトルで異質な存在だった。
まず目を惹くのは、漆黒に染まったローブマント。夕暮れの光を以てしても照らせないほど黒い布地は、その人物の体型はおろか頭部までをも覆い隠している。
そして顔はと言えば、漆黒のマントに似合わぬ純白の仮面で隠されていた。まるでこの世ならざる者のような重く低い声色からして、徹底的に自らの正体を隠しているようにも思える。
黒いマントで正体を隠した謎の存在。その右の袖、深淵を想起させる漆黒の中から、幾本もの鎖が伸びて悪魔の腕を縛っていた。
「え……あ……?」
思わず、そんな声が漏れてしまう。
目の前に立つ黒マントの人物が何者なのかを、女性は混乱し切った頭で推し測れずにいた。
自分を助けに来てくれたヒーローなのか、それとも横槍を入れに来ただけのヴィランなのか。
それを知ってか知らいでか、黒いマントの人物は、仮面越しに女性と悪魔をじっと見定めている。
「GURUッ……GUッ、GUUUUU……!」
「無駄だ。貴様のような低級悪魔に、ミスリルの鎖を引き千切れるものかよ」
何とか腕を縛り付ける鎖を解こうと、悪魔が身じろぎをする。しかし鎖を引き千切るどころか、悪魔はその場から動く事さえ叶わなかった。
そんな悪魔の醜態を見ながら、黒マントの存在が威圧的な声色を放つ。それはごく普通の声量であったにも関わらず、路地裏の大気をビリビリと震わせているようにも錯覚できた。
そこでふと、女性の脳裏にある可能性が生じる。
それはオカルト好きの同僚から聞いた、眉唾ものの都市伝説。
人知れず現れて、怪物を滅し、目撃者の記憶を曖昧にして去っていく。正体不明、詳細不明、全てが謎に包まれた怪人。
その名を──
「“怪人黒マント”……!?」
その声を聞いた黒いマントの存在が、真っ白な仮面を女性の方へと向ける。
仮面越しに彼女の目へと飛び込んでくる瞳は、不気味極まるもののように感じられた。