第16話 友達
「で、あるからして……この作品は16世紀の……」
ところは私立馬宮高校。時刻は午前11時を少し過ぎた辺りと言ったところか。
40人ほどが入る教室では、変わらぬ日常の一風景が展開されていた。
教師が、教室中に響くほどの声量で教科書の内容をスラスラと述べ、並行して同じ文章を黒板に記していく。
それを聞いている生徒たちもまた、教師の語る内容を必死に聞き取り、ノートに書き写していた。
小難しい表現をしたが、要するに授業中である。
現在の科目は歴史。「退屈」との事で、生徒からの評判はあまりよくないらしい。
しかし大多数の評判に反して、翔は歴史の授業が好きだった。
大昔の偉人たちの軌跡を追い、思いを馳せる事は翔にとって楽しいもの。
加えて、今は亡き両親の影響でファンタジーやオカルトの類いに造詣の深い翔は、過去の偉人たちに関するエピソードをよく好んでいる。
で、あるにも関わらず。
「…………」
今の翔は、どこか上の空。
机に頬杖をつき、ボーっと窓の外を見つめている。いや、外を見つめているとも言い難い。たまたま目線の先が窓の外であっただけで、翔の視線は虚空を向いているだけだった。
好きな歴史の授業である筈なのに、翔は心ここに在らずといった感じ。
周りのクラスメートたちも翔の異変には気付いているらしく、授業を聞きながらも時折心配そうに彼を見ている。
「では、この問題だが……黒井」
「…………」
「黒井? どうした、黒井?」
とうとう教師に気付かれてしまう。クラスメートたちは「あちゃー」といった表情を浮かべつつ、経緯を見守っている様子。
教師から呼びかけられても、翔はなお気付かない。
「黒井、おーい!」
「………………」
「──黒井ッ!!」
「あっ、ひゃいっ!?」
教師の、怒声にも似た叫び声。
これには流石の翔も我に返ったらしく、椅子を蹴っ倒してまで反射的に立ち上がってしまう。
ガッタン! という椅子の転げる音が教室中に響き渡る。数秒遅れて訪れる静寂。
首を震わせながら周囲を見渡す翔。クラスメートたちの視線は翔ただ1点へと注ぎ込まれていた。
つぅ、と冷や汗が頬を伝う。その場に立ち尽くす翔。当然ながら、教師はそれを放置する事なく口を開く。
「立ち上がるほどに回答したいか、いい心がけだ。今の問題、答えてみろ黒井。『宮廷炊事教本覚書』の著者は誰だ?」
「あ、はい。えー……と。トーマス・コルヴィッツ……で、す?」
「14世紀の人物が200年後に本を出版できるか馬鹿! 答えはアンゼルム=ドラテルン! 座って授業を聞け!」
「はい、すみません……」
すごすごと着席する翔。チラリと隣を見れば、クラスメートが生暖かい視線で見つめてきていた。
それを認識し、より一層顔を赤らめる。自らの感情を誤魔化すように頭を掻き掻き、また頬杖をついた。そうして翔は、視線の先を黒板へと固定する。
「はぁ……」
浮かない表情で、今日何度目になるかも分からない溜め息を1つ。
少なくとも、翔自身が途中で数えるのをやめたくらいには、今日だけでたくさんの溜め息が虚空へと消えていた。
■
「一体、どうしたのさ翔ん。今日なんかおかしいよ?」
ズバリといった具合に、池原が切り込んだ。
時は昼休み、ところは校舎の屋上。
一般的な学生であれば昼食に舌鼓を打っている時間帯であり、それはここ馬宮高校の生徒たち、そして翔とそのクラスメートたちも例外ではない。
今日の天気は快晴そのもの。カラッと晴れたいい天気である為、翔たちは気分転換も兼ねて屋上でランチタイムと洒落込んでいた。
そんな中で放たれた一言。
半分ほどまで齧られた焼きそばパンを片手に、池原が翔へと問いかけたのだ。
突然の奇襲に、翔は思わずお弁当(翔の自作である)を食べる最中の動きで停止する。箸から零れ落ちた卵焼きが、再びお弁当箱の中へと帰ってくる。
周囲で食卓(屋上のフェンス)を囲むクラスメートたちは「それを聞くのか……!」という表情を浮かべていた。
「えーっと……そんなに、変だったかな? 僕」
「まるっきり変だよ、変! 朝から様子おかしかったモン」
「んだんだ。数学ん時も吉峰センセに怒られてたじゃねぇか」
「ずーっとボーっとしててさ。授業中だってのに、別の事考えてるみてーでよ」
そう、翔の異変は歴史の授業だけではなかった。
2限目である歴史の授業、その前の1限目である数学の授業でもまた、翔は考え事を繰り返して授業に集中していなかったのだ。
数学の教師は怒ると怖い事で有名であり、授業に意識を割いていなかった翔は当然、こっ酷く雷を落とされていた。
そして、それだけに終わらず。
「おまけに、池原が持ってきた新ネタにも反応しねーでやんの」
「あれは確かに変だったよな。ヒーローオタクの翔が飛び付かないなんて」
「自称情報通の池原サマは寂しがり屋なんだから、定期的に構ってあげろよー?」
「ちょっとそこのキミ? 発言に突っ込みどころが多過ぎるんだけど、とりあえず殴っていい?」
流れるように取っ組み合いへ移行する池原とクラスメートたち。
騒がしくない時は無いのかと問い詰めたくなるほど賑やかなクラスメートたちのやり取りを見て、翔は小さく、しかし不自然に笑った。
池原という女子生徒は情報通を自称しており、ヒーローとヴィランに関する最新情報を仕入れてきてはクラスメートたちに披露している事は、ここまでで度々語ってきた。
翔もまた自他共に認めるヒーローオタクであり、池原が仕入れてきた情報に食い付いたり補足を挟んだりなどして、ヒーローに纏わる話題を盛り上げてきた人物である。
にも関わらず。今日の翔は、池原の語る最新情報に食い付く事もなく、ただ自分の席で物思いに耽るのみ。
普段のヒーローオタクっぷりからはまるで想像できないほどに、翔はヒーローの話題に興味を示していなかった。
いつもの翔を知る者の中で、これを不審に思わない者など1人もいないだろう。池原を始め、翔と親しいクラスメートは誰もが彼を心配していた。
「……まさかとは思うけどサ。もしかして翔ん、ヒーローが嫌いになっちゃった……とか?」
「そんな訳無いじゃないか」
即答だった。
「例え天地がひっくり返ったとしても、僕がヒーローを嫌うだなんてあり得ないね。明日、地球が滅ぶって与太話の方がよっぽど現実味があるよ」
「良かった、いつもの黒井だ」
「じゃあ、何だってボケっとしてたんだよ? 昨日学校に来なかった事と関係あるんじゃないか?」
「えーっと……そうだね、その……」
口ごもる翔。お弁当箱の中から再び卵焼きを掴み、今度こそ口の中へと放り込む。
クラスメートたちは知る由も無いが、翔は一昨日“怪人黒マント”として悪女野風と交戦し、重傷を負っていた。その後、ヒーローチーム『樫の杖の七番目』に保護されて、彼らの事務所で過ごしていたのが昨日の事。
ローブマントに仕込んでいた治癒術式と、プロフェッサーお手製の魔法の巻物によって肉体的にはすっかり元気になり、昨日の内にさっさと自宅に帰っていたのだ。
そんな訳で、表向きには翔は昨日、学校を丸1日サボった事になっている。
「なんて言ったらいいんだろうか……その、ね? ええっと……」
「む、怪しい。さては何か隠してるね?」
煮え切らない態度の翔に対して、池原の目がキラリと光る。
図星と言った様子で、ビクリと身を強張らせる翔。それを見た生徒たちは、「うーん」と声を漏らしながら顔を見合わせた。
「まぁ、どうしても言えないようなら深くは聞かないさ。そんくらいの気遣いはできるべ」
「だな。気軽に踏み込んじゃいけない部分もあるだろ」
「そうだねー、私が迂闊だった。ごめんね翔ん」
「いいよ。池原さんも皆も、僕の事を心配してくれてるんだし」
頬を掻きながら呟いた翔の一言を受けて、クラスメートの1人が「当ったり前だろ!」と腕を組む。
「俺たち友達だろ? こんくらい普通さね」
「────」
動きが止まる翔。首を傾げる生徒たち。
反射的に翔が思い出してしまったもの。それは昨日、プテラブレード──翼からかけられた言葉。
──あたしと、友達になってくれないかな?
その一言を受けて、当時の翔は激しい動揺を隠せなかった。
結局あの後、翔は返事を誤魔化して、逃げるように事務所を後にしてしまった。それ故、翼に対して不義理を働いてしまったと、翔は強く後悔の念を抱いている。
クラスメートの一言で想起してしまった昨日の光景。それによって、翔は再び思考の海へと沈んでいく。
突然硬直した翔を見て、困惑を隠せないクラスメートたち。
「……翔ん、どうしたの?」
「……えっ? あっ、ああ!? えっと……」
池原の声かけで我に返る。
彼女の表情は、明らかな不安と心配の感情を翔に向けていた。
「……本当に大丈夫? しんどいなら早退してもいいんだよ?」
「いや……その……うん、そうだね」
深く、深く。重く頷く翔。
深呼吸を数回。やがて徐に顔を上げていく。
「……ねぇ、皆」
やがて決心したのか、翔は真剣な表情を浮かべながら、クラスメートたちに対してこう問いかけた。
「ヒーローと友達になれると思う?」
■
ヒーローと友達になる。
それは、黒井 翔という少年が幼い頃から抱き続けてきた夢だった。
ヒーローと共に戦いたい、肩を並べたいという夢は、自らに才能が無い事に気付いてからは諦めていた。
それは誰もがそうだ。先天的にせよ後天的にせよ、スーパーパワーを持たない人間は「ヒーローと共に戦いたい」という夢を諦めて成長していく。
しかし、「ヒーローと友達になりたい」という夢だけは。翔は、それだけはどうしても諦める事ができなかった。
例え肩を並べる事ができなくても。時間を見つけては会い、言葉を交わし、食事や買い物を共にしたり、時には喧嘩する事だってあるだろう。
そんな「普通の友人」らしい関係性を、ヒーローとの間に結ぶのが翔の夢だった。
だが、そんな淡い夢を大きく揺るがす出来事が起きる。
小学生の折、自分の夢を話した翔は、当時のクラスメートたちから笑われた。盛大に馬鹿にされた。
何を馬鹿な事を、と。そんな事ができる訳が無い、と。いつまで経っても幼稚だな、と。
──さっさとヒーローから卒業してしまえ、と。
小学生という年頃は、何かにつけて何かを馬鹿にしたがるものである。子供であるが故に、時として残酷極まる発言を軽率に口に出してしまう。
そんな経験があったにも関わらず、翔の心の歪みが最小限に留まった事は、ある種の奇跡とも形容できるだろう。
翔はヒーローを好きであり続けた。例え周囲から馬鹿にされようとも、それでも自分の中にあるヒーローへの憧れを否定しなかった。
幸いにして、高校に入ってからは池原を始めとした、今なおヒーローが好きだという変わり者たち──理解者に恵まれる。それもまた、翔が真っ直ぐさを保てた要因である。
しかし、それでも。
翔は「ヒーローと友達になりたい」という夢を誰にも語らない。池原でさえ、彼の「夢」を知らない。
時を同じくして。翔は大きな転機を迎えていた。
中学2年生の時、交通事故で亡くなった両親の遺品を整理していた際に見つけた魔女術の魔導書と、それによって発覚した翔の魔法使いとしての素質である。
別段、翔は魔法使いとして特級の才能を持っている訳ではない。誰もが宿す魔法使いの素質と言えど、魔法使い系の超人が得たスーパーパワーには遠く及ばない。
それでも、翔には素質があった。魔法道具職人、魔女術使いとしての素質が。
同時にそれは、翔の中で燻り続けていた「夢」が大きく燃え上がる着火剤でもあった。
魔導書を教本に、2年かけて魔法を独学で勉強した。数々の魔法の道具を制作した。
そうして準備に準備を重ね、翔は漆黒のローブマントを身に纏い、夜の街へと繰り出した。
これから自警ヒーローとしての活動が始まるのだと、強く奮起していた。
それらの行いは、ただ1つの「目的」を達成する為に。
──ヒーローと友達になる。
しかし。翔の心底には、ある1つの歪みがあった。
それは夜の路地裏で怪物に襲われていた人を見つけ、初めて遭遇する怪物に恐怖しながらも必死に戦い、何とか怪物を退けた夜。
もう大丈夫ですよ、と。そう声をかけようとして、怪物に襲われていた人の方を振り向いた時。
翔の脳裏に蘇ったもの。それは──
──ヒーローと友達になる? そんな事ができる訳無いだろ、馬鹿だなぁ。
──黒井はいつまで経っても幼稚だな。そんなもの、幼稚園児しか言わないぞ。
──さっさとヒーローから卒業してしまえ。
気が付けば、翔は自らが助けた人に対して記憶消去の魔法を行使していた。
逃げるようにその場を立ち去る。誰にも見つからないように、まるで怯えるように。
次に翔がローブマントを身に付けた時、手には純白の仮面が握られていた。
変声の魔法を籠めた仮面で素顔を隠し、夜な夜な路地裏で怪物を屠り、目撃者の記憶を消して立ち去る。
そうして黒井 翔という少年は、都市伝説“怪人黒マント”になった。
翔は「ヒーローと友達になる」という夢を諦めきれずにいる。
それと同時に、翔は「ヒーローと友達になる」という夢を馬鹿馬鹿しいものだと考えていた。
聞けば誰もが馬鹿にする。聞けば誰もが軽蔑する。
ヒーローと友達になりたいが為に魔法を勉強した? 武器を自作して自警ヒーローになった?
嗚呼、なんて子供みたいな理由なんだ。そんな理由でヒーローになるなんて馬鹿げている。
誰かからそう言われた訳ではない。そもそも、ヒーローを志した「目的」など誰にも話していない。
だが、それでも翔の耳には、そんな嘲りの言葉が聞こえてやまなかった。
だからこそ、翔は自らの正体を隠そうとする。自分が黒マントであると、誰にも知られないように立ち回る。
どこまでも矛盾し切った心理。ヒーローと友達になる為にヒーローを志し、しかし臆病なあまりにその機会を捨て去っていく。
幼い頃からの「夢」に手が届くというのに、翔──黒マントはその「夢」から逃げ続ける。
“怪人黒マント”はヒーローではない。“怪人黒マント”は偽善者である。
翔の心には、そんな強迫観念が根付いている。
そうして1年が経ち、黒マントは今も街の裏で活動を続けていた。
しかし、そんな彼に変化が訪れる。
プテラブレードとの邂逅、切り捨てジャックとプロフェッサー・キャンディとの邂逅、チーム『樫の杖の七番目』との邂逅。
彼らと共に戦い、彼らと語らい、彼らの考えを知った。そうして、恐怖にも似た翔の強迫観念に一石が投じられる。
彼らは“怪人黒マント”を善と認めた。ヒーローであると認めてくれた。それは、翔に絶大な衝撃を齎した。
だからこそ、翔は考える。自分の在り方と、彼らの在り方。自分の考えと、彼らの考え。
──自分が抱き続けてきた「夢」と、どう向き合うか。
そうして時は現在へと戻り。
深く、深く。長く、長く。周囲に心配されながらも思考の海に沈み続けた末に。
決心した翔は、クラスメートたちに対してこう問いかけた。
「ヒーローと友達になれると思う?」