第15話 樫の杖の七番目
ヒーローではない。
それは、目の前のヒーローたちに対して度々言ってきた言葉。
頑なに自分を──“怪人黒マント”を「ヒーローの在り方」として認めようとしない翔の言動に、3人は訝し気な表情を浮かべる。
フム、とモノクルのズレを直しながら、真っ先に静寂を破ったのはヒューズだった。
「以前も同じ事を言っていたネ」
「……はい」
「“怪人黒マント”……イヤ、黒井 翔君。その時の、私と志郎君との会話を覚えているかネ?」
「…………はい」
深く、重く。コクリと頷いた翔を見て、ヒューズは水差しを右手に持ち、左手を彼へと差し伸べる。
それが水のおかわりを注いでくれるのだと理解した翔は、持っていたコップをヒューズに差し出した。コップを受け取ったヒューズは水差しから水を注ぎ込みながら、優しく語り掛けるように言葉を続けていく。
「私は君に『何の為に戦っているのか』と聞き、君はそれに答える事ができなかっタ。それは良いだろウ。では、もう1つの宿題の方だガ……」
「僕が、“怪人黒マント”が『善』か『悪』か……ですよね」
「ウム、ウム。覚えていたようで何よりだヨ」
なみなみと水の注がれたコップが、ヒューズから翔の手へと渡された。渡されたコップから水を零してしまわないように「おっとっと」と注意深く両手で抱え持つ。
コップに口をつけてズッと啜れば、冷たい水が喉を通って胃の腑に落ちる。
「前もって言っておくが、我々は君が悪であるとは思っていなイ。これは、『樫の杖の七番目』の総意と思ってくれて構わないヨ」
「そうですね。仮にヴィランだとしても、その時は切り捨ててしまえばいい話ですし」
「コラコラ、そういう事を言うのはやめなさイ」
ヒューズの突っ込みに対して、志郎は平然と「冗談ですよ?」とおどけてみせる
そんな男2人のやり取りを横目に、翼もまた、翔に優しく微笑みかけた。
「あたしも、君がヴィランだなんて思ってないよ。話してみて分かったもん、君はいい人だよ」
「そこまで言われると、少し照れ臭いですね……ありがとうございます」
頬をポリポリと掻く。
そこでヒューズは咳払いを1つ。「話を戻すガ」と切り出した。
「改めて、君の口から答えを聞きたイ。君は善かネ? それとも、悪かネ?」
「……僕、は」
視線を下に落とす。コップに注がれた水の冷たさが、翔の手を通してじんわりと伝わっていく。
答えなど決まっている。しかし、それを口に出していいものか。
1時間とも錯覚できるほどに長い1分。そうして翔はゆっくりと、しかし確実に口を開いた。
「悪、では……ありません。ですが」
「ですが?」
「善かと言われると、分かりません……」
か細く、ポツリと放たれた呟き。翔の口から紡がれたのは、何とも曖昧な返答。
しかしそんな彼の態度を不快には思っていないらしく、ヒューズは「成る程」と顎髭を撫でた。
数十秒ほどの思案。やがて結論が出たのか、ヒューズは翔と目線を合わせ、言葉を投げかける。
「これは推測だが……君は、自分が“怪人黒マント”としての活動を始めた理由を、ふざけたものだと、そう認識しているのではないかネ?」
「……!」
ビクリ。翔の身が僅かに跳ねる。
それを見逃すヒーローたちではなく、翔はヒューズからの指摘が図星である事を見抜かれてしまった。
「それ、は……」
「アア、深く聞くつもりは無いヨ。誰にだって聞かれたくない事、知られたくない事はあル。だから君は、目撃者の記憶を消していたのだろウ? 少しでも、自分の動機を悟られたくないが為ニ」
「…………」
俯く翔。
視界の隅では、翼が心配そうな表情で翔を見つめていた。志郎もまた、翔を警戒こそしていないが、彼の動向をじっと見守っている。
「君は自分の動機をふざけたものだと、馬鹿馬鹿しいものだと考えていタ。だからそれを知られたくないし、そんな動機から“怪人黒マント”になった自分を恥じていル。先ほどの発言から考えるに……恐らく君は、自分を偽善者だと思っているのではないかネ?」
「……その通り、です。まるで、見てきたように言うのですね」
「年の功、というやつサ。しかシ……」
チラリ、と己の仲間の方を見る。
志郎は腕を組み、首を横に振る。翼はと言えば、今にでも何かを叫びたそうに、ぷぅと頬を膨らませていた。
それを見たヒューズは翔へと向き直り、申し訳ないと頭を下げる。
「……少々、デリカシーに欠けていたようダ。すまないネ、ズカズカと物を言うのは私の悪い癖だヨ」
「いえ……それほど気にしていませんから」
首を横に振る。しかし、その動作には力も勢いも無いように見えた。
やってしまったな、と溜め息をつくヒューズ。これは間違いなく自分の失点だと、コーヒーを啜りながら思案する。
そこへ、双方に対しての助け舟を出したのは志郎だった。彼は前へ出ると、ヒューズの動きを手で制する。
「敢えてこう呼ばせて頂きますが……“怪人黒マント”。あなたは自らの行いを『悪ではないが善でもない』と言いました」
「……ええ」
「しかしあなたは、プテラブレードを……翼さんを助けてくれました」
志郎の瞳が、翔の姿をしかと見据える。
刃を思わせるほどに鋭いその眼差しは、欺瞞さえ切り裂く誠実な瞳とも解釈できるよう。
少なくとも、今の翔にとって彼の目線は、決して不快なものではなかった。
「でも、あれは結果論で……」
「あなたはそう思うのでしょう。それはあなたの主観だ、否定するつもりはありません。それと同じように、私の主観は、あなたが翼さんを助けたと認識しています」
黙り込む翔。それは言い負かされた訳ではなく、志郎の言葉をゆっくり反芻して理解しようと努めているからだ。
「それだけではない。あなたはモスマンの群れが街へ向かうのを阻止するべく戦っていた。そして昨日、見ず知らずの女性を助ける為、あなたは瀕死の重傷を負いながらも悪女野風に立ち向かいました」
「それは……でも、結局は僕1人だけでは倒せなかった……モスマンの時だって」
「それは確かにその通りです。あなたはモスマンの群れも悪女野風も、1人だけでは倒し切る事ができなかった。それは事実でしょう」
ですが。
翔の返事を待たないと言わんばかりに、志郎は畳み掛ける。
「それがどうした。翼さんを、街を、初対面の女性を。あなたは『誰か』を助ける為に、怪物へ、ヴィランへと立ち向かった。自分の意志で!」
「…………!」
「時として、あなたの行いは愚者のそれだと詰られる事もあるでしょう。余計な仕事を増やしただけだと、そう賢しらに語る者もいるでしょう。しかし──」
ふわり、と優しく笑いかける志郎。
刃のような眼差しは丸みを帯びて、まるで年端もいかない幼子を慈しむような表情。
志郎──切り捨てジャックというヒーローは、こんな表情もできるのかと、翔は内心で驚いた。
「そんな輩は私が切り捨てましょう。誰が否定しようとも、私たちはあなたの行いを否定しません。例えどんな理由があろうとも、どんな動機であろうとも。あなたが誰かを助ける為に、その命を懸けた事……それは、紛う事なき『善』の行いです」
「…………ぁ……」
ポロリ。
翔の頬を一筋の涙が伝う。
ヒーローが、憧れのヒーローが。こんなにも言葉を尽くして自分を励まし、認め、褒めてくれた。
それがたまらなく嬉しくて、恥ずかしくて、申し訳なくて。翔の目からは次第に涙が溢れてくる。
「ですから……? えっ? えっ、待って。私なんか不味い事言っちゃいましたか!?」
「あー、もう。直前まで格好いいコト言ってたのに……ほら、翔君。これ使って」
困惑と動転が入り混じった状態の志郎を半ば放置しながら、翼が翔にハンカチを差し出す。
涙声で「ありがとう……」と呟きながら、受け取ったハンカチで涙を拭っていく。
グスグスと鼻を鳴らす翔。それらを俯瞰して、ヒューズはもう1度咳払いを室内に響かせた。
「翔君。我々『樫の杖の七番目』というチームの名前。その由来を知っているかネ?」
「……?」
フルフル、と首を振って否定する。
まるでこれを語りたかったと言うかのように、ヒューズは何度も何度も頷きながら人差し指を立てた。
「オークとは樫の木の事。樫の木の花言葉は『勇気』! そして君は、小アルカナの事は知っているかイ?」
「あ、はい。タロットカードの一部で、トランプ同様、4つの組に分けられているのですよね」
「そうともそうとモ。そしてその内の1枚、杖の7番。そのカードが意味するのハ──」
もったいぶるようにコーヒーに口をつける。
3分の1ほどまで嵩の減ったコーヒーカップを高く掲げ、ヒューズはニヤリと笑みを1つ。
「『勇気』!」
「……!」
「故にこそ、我々は『樫の杖の七番目』! 樫の杖こそ勇気の証。ヒーローにとって最も重要なものは勇気なのサ。そしてそれは」
クイ、とカップの中身を飲み干す。
「君の中にもあるのだヨ、黒井 翔君?」
ダンディな笑みを浮かべるヒューズ。
彼の言葉を受けた翔の全身に、まるで雷鳴が轟いたかのような衝撃が走った。
勇気。それは、英雄にとって最も重要なもの。
それが、自分の中にもある? “怪人”の中に、本当に勇気が存在するのか?
翔の脳裏に思い出されるのは、先ほど志郎が言及した3つの出来事。
プテラブレードと悪女野風の戦闘に介入した事。廃工場から巣立とうとするモスマンの群れに立ち向かった事。女性を助ける為に悪女野風と死闘を繰り広げた事。
それが『勇気』? ヒーローをヒーローたらしめる要素が、あの時の自分にもあったのか?
電流めいた衝撃は未だ全身を駆け巡り、凝り固まっていた翔の思考に大きな一石を投じていく。
「でも、僕は……スーパーパワーなんて持ってない、ただの一般人で……」
「言っただろウ? ヒーローに大切なものは勇気。スーパーパワーは二の次だヨ」
不敵に顎髭を撫でる。
そんなヒューズの姿と、考え込む翔の様子を見て、志郎は大きく溜め息をついた。
「まぁ、1度にたくさんの事を言われてまだ混乱している部分も多いでしょう。一旦、僕たちは席を外しますね」
踵を返して扉へと向かう志郎。その過程で、彼の手がヒューズの肩へと置かれた。
「傷はもう治ってるでしょうから、家へ帰りたいのならいつでも言って頂ければ。……さ、行きますよ教授」
「分かった分かっタ。ではね翔君、荷物はクローゼットの中だからネ」
「あ……ああ、はい」
そう言い残して部屋を去っていく志郎とヒューズ。
後に残っているのは、ベッドの上で扉を見つめたままの翔と、隣で椅子に座っている翼のみ。
扉が閉まってからも、ずっとその1点を見続けていた翔は、やがて翼が自分の事をじっと見てきている事に気付く。
じーっと、その透き通った眼差しで翔を見つめる翼。
彼女の様子を訝しむように、翔はおずおずと口を開いた。
「あの……どうかしました、か……?」
「へっ? ああ、いや! 何でもないよ、何でも!」
「……?」
首をコテンと傾げる翔。
そんな彼を見て、翼は「あっ、そうだ!」と手を叩く。バッと翔に向き直った彼女の表情は、年頃の少女めいた可愛らしいもの。
「同い年でしょ? 敬語なんていらないよ」
「ええっ!? でも、あなたはヒーローで、僕は一般人で……」
「いいからいいから! あ、あたしの事は翼でいいよ!」
ニッコニッコと笑う翼。
彼女の振る舞いに毒気が抜かれて、翔は人差し指で頬を掻いた。
すぅ、はぁ、と深呼吸。コップに注がれたままの水に口をつけ、グイっと一気に飲み干す。
ふぅ、と一呼吸を置いて。
「じゃあ……その、翼ちゃん。で、いいかな?」
「うん! オッケーオッケー! 翼ちゃんかぁ、うん、新鮮でいいね!」
グッとサムズアップを1つ。
この大鳳 翼という少女の振る舞いは、一挙手一投足が元気に満ちていた。
「それに、翔君だって凄いじゃない。スーパーパワーを持ってないのに、まるでヒーローみたいに格好よくヴィランと戦ってたんだもん」
「……翼ちゃんは、生まれつきの超人だっけ」
翔の問いかけに対して「そうだよ」と肯定する。
「物心ついた時から、人より早く走れたりしてさ。近所の子供グループの中でも人気者だったんだよ? あたし」
「はは、容易に想像できるね。プテラブレード、ヴィラン相手に大活躍してるし」
「でしょー? あたしがヒーロー目指した理由って、『格好いいから』だもの」
パチクリ、と意外そうな目で翼を見る翔。
対して翼は、やや恥ずかしそうに頭を掻きつつ。
「小中のクラスメートたちに持て囃されてさー、じゃあやってみようか! って決めたの。……まぁ、戦闘訓練でたっくさん痛い目にあったんだけどね」
苦い記憶を思い返すかのように遠い目をする翼。
やがて首を横に振り振り、「でも」と続けた。
「最初は格好いいから、って理由で始めたとしても。色んな人の為の仕事なんだって、段々分かってきてさ。次第に、街の皆の為に頑張ろう! っていう気持ちになっていったわ」
「……翼ちゃんは凄いね。本当に、ヒーローそのものだ」
「君だってそうじゃない?」
予想外の言葉を受けて、思わず硬直してしまう。
「こう言うと君は嫌がるかもしれないけどさ、君のやってる事は立派なヒーローだよ。どんな理由で始めたとしても、皆の為にヴィランや怪物と戦ってる」
「……でも、僕は……」
「でもも何も無いの!」
翼の両手が、翔の両頬を軽くつねる。
ビヨンと頬を引っ張られて、翔の顔がおかしく歪んだ。しかし、そこに痛みは無い。
やがて手を離すと、翼はゆっくりと口を開く。
「……時々思うんだ。もしも、あたしにスーパーパワーが無かったら……って」
「えっ……?」
「もし、あたしがスーパーパワーを持たずに生まれてきたら、どんな人生を過ごしてたんだろう。そう考える時があるの」
虚空を見つめる翼。
その瞳には、どこか悲しさが混じっているようにも翔には見えた。
「人より早く走れないからグループの人気者にはなれなかったろうし、小中でクラスメートに持て囃される事もなかった。そして……」
「ヒーローにも、ならなかった?」
無言。しかし、頷く事でそれを肯定する。
翔とて、同じような事を考えなかった訳ではない。
翼がスーパーパワーを持たなかった未来。翔がスーパーパワーを持った未来。そのいずれも、起きる事なく現在へ至る可能性の話だ。
しかし、もしもその可能性を辿った歴史があるとして。2人はどのような人生を歩んだだろうか?
翔がそう考えていた折、「でもね」と翼が呟いた。
「君は、翔君は凄いよ。スーパーパワーが無くたって、誰かを守った」
「……!」
「スーパーパワーが無くたって、魔法を勉強して、魔女さんになって、ヴィランや怪物と戦って。例え、翔君自身が自分をヒーローとは認められなくても」
真っ直ぐ、透き通った瞳。
確かな意思と感情の宿る翼の目線が、翔の瞳の奥まで見透かすようで。
「君は強いよ。あたしが保証してあげる」
かけられた言葉。それを、十数秒かけてゆっくり理解して、ゆっくり認識して。
翔はどう返答したものかと迷い考えて。
「……ありがとう」
結果、礼の一言しか言えない自分を、翔は強く恥じた。
そんな彼の心情を知らず、礼の言葉を受け取った翼は「うん!」と元気よく頷く。
普段ニュースでよく見るプテラブレードの凛々しさともまた違う、可愛らしい側面がそこにはあった。
「ね、翔君」
「どうかした? 翼ちゃん」
「良かったら、でいいんだけどさ……」
そう言い、翼はやや照れ臭そうな表情を浮かべる。
「あたしと、友達になってくれないかな?」
「────ッ!」
瞬間、翔の顔が強張った事を、翼は見逃さなかった。
何か酷い事を言ってしまったのだろうか、と。不安と心配の入り混じる表情を浮かべながら、翼がもう1度口を開く。
「え……と、もしかして……嫌、だった?」
「いや……いいや。嬉しいよ、嬉しい、んだ……」
顔に手を当て、自分の感情を御そうと試みる翔。
何度も何度も何度も深呼吸をひらすらに繰り返し、冷静さを取り戻そうと試みる。
「嬉しい、筈なんだ……っ!」
友達。
それが翔の──“怪人黒マント”の根幹を成す言葉である事を、翼は知らない。