第14話 目覚めて
ブラウン管テレビの画面が、とあるニュース番組を映し出す。
『先日の──文部科学大臣の失言問題に関して──総理は──』
テレビではやれ政治のあれこれだ、やれ企業の汚職事件だ、やれ芸能人のスキャンダルと、様々なニュースをセンセーショナルに報道している。
しかし、それらを幼い子供が見て十全に理解できるものか。
「ほー……?」
テレビの前でチョコンと座る小さな少年もまた、それらのニュースをボーっと見ていた。興味すら抱いていないだろう。
短く切った黒髪の頭は、彼が身体を揺らす度に右へ左へ。澄み切った黒色の瞳もまた、幼い思考では理解できない難解なニュース番組をじっと見つめている。
少年くらいの年齢の子供であれば、普通は教育番組などを見ている事だろう。
それでも少年は、退屈なニュース番組を見続けていた。何も今に始まった事ではない。ずっと前から、それが少年のライフスタイルだった。
その理由が分かるのは、政治にまつわるニュースが終わった直後である。
画面の向こう側では、新人アナウンサーが原稿をペラリと捲っている。
『それでは次のニュースです。ヒーローがまたお手柄です』
“ヒーロー”。
その言葉を聞いた途端、ボーっとしていた少年の表情が一瞬で喜色に塗り替わった。
スックと立ち上がり、テレビ画面へと齧り付く。
ニュースキャスターもまた、楽しげな話題を提供するかのように明るく振る舞っている。
『今日午前11時頃、馬宮銀行を襲撃したヴィラン「スパイダー大王」に対して警察の機動部隊が出動し一時騒ぎとなりましたが、駆け付けたヒーロー「ハイパーサイクロン」によってスパイダー大王は制圧。警察に逮捕されました』
「ハイパーサイクロン!」
読み上げられたヒーローネームを聞き、少年は思わず叫び出す。
テレビの前から離れると、近くの棚の上に置いてあったフィギュアを迷う事無く手に取った。
緑色を基調としたヒーロースーツに身を包む、サーベルを手にした戦士。仮面舞踏会を思わせるマスクで素顔を隠したそのフィギュアを両手にギュッと握り締め、少年は急いでテレビの前へと戻ってくる。
テレビ画面では、丁度フィギュアと同じ格好をしたヒーローが、蜘蛛を思わせる怪人と戦闘を繰り広げていた。
『グッ、クソッ! ヒーロー風情が調子に乗りやがって!』
『そういう貴様こそ、市民の迷惑となる行為はやめる事だ』
蜘蛛めいた相貌のヴィラン──スパイダー大王が、口から弾丸を吐き出す。蜘蛛糸を丸めたものであり、高速で射出されたそれは弾丸並の破壊力を持っていた。
相対するは深緑のスーツを身に纏う剣士。マスクの下で不敵な笑みを見せ、手に持ったサーベルを空中で躍らせる。
サーベルは主の望む通りに蜘蛛糸の弾丸を切り裂き、その勢いのままに剣士はスパイダー大王へと肉薄した。
「行けー! ハイパーサイクロン! やっちゃえー!」
食い入るようにテレビ画面を見つめ、手に持ったフィギュアをブンブンと振り回す。
少年の声援には確かな熱が宿り、剣士──ハイパーサイクロンの勝利を微塵も疑っていない。
それを遠くから見て笑みを漏らすのは妙齢の婦人だ。少年の母親である彼女は、キッチンで洗い物をしながら少年の様子を見守っている。
ヒーローの活躍に興奮しながらテレビを見る息子の姿に、微笑ましいと笑みを浮かべる。
「本当、翔はヒーローが好きねぇ」
そんな母親の独り言を、果たして少年は聞いていただろうか。いや、聞いている筈も無い。
少年の意識は、目の前のテレビ画面へとリソースの全てを割いているからだ。
「凄い! 凄い! カッコいいな、ヒーロー!」
やがて決着がつき、戦闘不能となったスパイダー大王を拘束するハイパーサイクロン。
その一部始終を見届けて、少年は「はー!」と息を漏らす。
「凄いなぁ、いいなぁ」
手に持つフィギュアをじっと見つめる。母親にねだって買ってもらったハイパーサイクロンの人形。
少年の宝物であるそれを見て、彼は心の底から湧き上がる感情を抑え切れずにいた。
そうして少年──幼い頃の黒井 翔は、自らの夢を口にする。
「いつか僕も、ヒーローと──」
■
目を覚ます。
パチリ、と黒色に揺れる瞳が天井の模様を認識していく。
「……ぁ…………?」
10秒ほどが経っただろうか。翔はそこでようやく、天井がいつも見慣れた自宅のそれではない事に気付いた。
ゆっくりと顔を上げ、起き上がる。よく見れば、今の今まで翔が寝ていた布団やベッドもまた、翔のものではないらしい。
「ここ、は……?」
キョロキョロと周囲を見回す。
窓から差し込む日の光は、風で揺れ動くカーテンによって不可思議な影の模様を描いている。
窓から見える景色も、調度品も、何もかもが翔の自宅のとは違うものだった。
横へ目線を向けると、自らの衣服が丁寧に折り畳まれて机の上に置かれている事に翔は気付く。
そこで疑問を覚えて自分の身体を見てみれば、翔の身体には幾重にも包帯が巻かれていた。
血が滲んでいたのだろう。ところどころに赤いシミができており、それらを認識した翔はようやく「痛み」を自覚するに至る。
「痛っ……!? 一体、何が……?」
「──あっ、起きたんだ」
ガチャリ。
軽快な音を立てて部屋の扉が開き、廊下から1人の少女が入室してくる。
ピョッコピョッコと翔が座るベッドへと近付いてくる彼女のポニーテールは、窓から差す日光を受けて栗色に踊っているよう。
彼女のトレードマークである迷彩柄のダウンベストこそ着ていないものの、翔は彼女の正体を知っていた。
「流石、魔法使いさん。あんな怪我でも治せちゃうなんて凄いねぇ」
「あなたは、プテラブレード……?」
「はい正解。本名は大鳳 翼。君と同年代の高2で16歳だよ、黒井 翔君?」
手をヒラヒラと振りながら、フレンドリーにそう語り掛ける翼と名乗った少女──プテラブレード。
その言葉を聞いて、翔の顔が大きく強張った。
「どうして僕の名前を……それに、あの時の……まさか──痛ッ……!?」
「わっ、わっ! 無理しちゃダメだよ! ほとんど傷が治ってるって言っても、あれだけダメージを受けてたんだから!」
包帯の裏側からズキンと痛む傷を押さえ、翔が苦悶の表情を浮かべる。
翼もまた、半ば慌てながら翔の負傷を心配している様子。
やがて翔が落ち着いた頃を見計らって、翼は近くにあった椅子へと腰を下ろす。
彼女は真剣な目つきで、翔と目線をしっかり合わせた。
「まぁ……うん。もう分かってるとは思うけど……君の正体、知っちゃった。ごめんね」
「……そう、です、か」
「うん……言い訳みたいになるけど、昨日の君、すっごくボロボロで危なかったから。それで、その……」
「いえ、気にしていませんよ」
首を横に振る翔。その表情に、翼に対する恨みつらみは無いように見える。
悪女野風に襲われていた女性を逃がした時から、翔もこういったリスクは承知の上だった。
それに、保護しなければならないほど重傷を負っていた自覚はある。命を助けてもらったのに、どうして文句だの罵倒だのを言えようか。
「僕を、助けてくれたんですよね。ありがとうございます」
「たはは……文句どころか、逆にお礼を言われちゃったか」
「それで……ここは、病室ですか?」
周りを見回す翔。
彼の質問に対して、翼は「あー……」と言いながら頭を掻く。
「いやね? 実は、その……」
「そこから先は私が説明しようカ」
再び、部屋の扉が開かれた。
カッコと音を鳴らしながら入ってきたのは、モノクルをつけた初老の男性と、ジャージを着た若い男性。
当然、翔はその2人の事も知っていた。プロフェッサー・キャンディと切り捨てジャックだ。
「素顔では初めましてかナ? “怪人黒マント”君。私はヒューズ・シュガーフィールド。プロフェッサー・キャンディというヒーローネームで活動しているヨ」
「私は蛇蔵 志郎。切り捨てジャック、と名乗った方が善いでしょうか?」
「いいえ、大丈夫です。ヒーローの事なら、僕は大体知ってますから」
クスリ、と柔らかい笑みを浮かべる翔。
その様子からは、“怪人黒マント”の正体が彼である事など、にわかには信じ難いものがあった。
特に切り捨てジャック──志郎は、黒マントと言葉を交わした際の不愛想な印象とかけ離れた翔の態度に、やや困惑さえしている様子。
プロフェッサー・キャンディ──ヒューズが顎髭を撫でながら「フム」と呟く。
そこで翔は「そうだ」と顔を上げる。
「ここは病院じゃない、って言いましたよね。じゃあここは……?」
「ここはあたしたちのアジトだよ、翔君」
答えたのは翼だった。
彼女の言う「自分たちのアジト」という言葉を完全に認識し切れず、翔は暫し首を傾げる。十数秒後、ようやく言葉の意味を理解した翔が、跳び上がるようにして驚いた。
「えっ!? じゃあ、ここって、『樫の杖の…………痛たたた!?」
「ホラホラ、急に跳び上がるからそうなるんだヨ。私が使った痛み止めの魔法の巻物も完璧には効かないんだかラ」
ヒューズは机の上にあった水差しからコップに水を汲み、翔へと手渡す。
包帯の下から響いてくる痛みを堪えながら、何とか翔はコクコクと水を飲む事ができた。コップから口を離した際の「ぷはっ」という小さな呼吸音が、部屋の中に響き渡る。
「あ、ありがとうございます」
「いいのだヨ。……サテ、君の疑問の答え合わせと行こうカ」
モノクルの向こう側から見えるヒューズの眼差しは、知性溢れる光を宿して翔を見ていた。
「ここは我々、ヒーローチーム『樫の杖の七番目』が拠点としている事務所の一室だヨ。昨日の一戦で重傷を負った君を、警察にバレないようにここへ保護したのサ」
「えっ……? 待ってください。警察にバレないようにって、それはどういう……」
「そこを話すには、一から説明する必要がありますね」
コップを両手で抱え込む翔。
彼の疑問を受けて口を開いたのは志郎だった。
「まず、あなたが逃がした女性。彼女が警察に通報した事で事態が発覚、私たちヒーローが出動する事になりました」
「そしてあたしたちが現場に駆け付けると、ボロボロになっていた“怪人黒マント”……つまり君と、同じくボロボロの悪女野風を見つけたの」
そう話しながら、翼は「ああ、そうそう」と手を叩きながら補足をつける。
「悪女野風は警察に確保されたわ。あたしがキッチリ倒した後でね。近い内にヴィラン専用の刑務所へ送られるそうよ」
「ああ……それは良かったです。これでもう、彼女の脅威に怯える人が出なくて済むんですね」
ホッ、と一息。
それを見て、志郎もまた小さく溜め息を1つ。ヴィランの逮捕で安堵する彼の姿を見ていると、彼と“怪人黒マント”がイコールで結びついたとして、黒マントが悪であるなどとはとても思えない。
そんな思いを心中に隠しながら、「続けます」と話を再開した。
「翼さんの言う通り、悪女野風は警察に逮捕されました。しかし……」
「私たちは警察が現場に来る前に、君をコッソリ保護したのだヨ」
声の方を見れば、ヒューズがどこから持ってきたのかコーヒーを淹れている。
ふわり、とコーヒー豆の香り際立つそれの中へと、角砂糖を幾つもドボドボと。「ああ、またか」と翼と志郎は呆れるように首を振った。
「志郎君にお願いしてネ、警察が来る前に君を匿うよう頼んだのだヨ。警察には『我々が来る前から悪女野風は重傷を負っていたが、原因は分からない』と言っておいタ」
「どうして、ですか……?」
「どうして、っテ。そりゃあ君」
ズイ、とヒューズの持つコーヒーカップが翔の鼻先へと突き付けられる。
コーヒーの熱、芳醇な香り、これでもかと混ぜられた角砂糖とミルクの甘ったるい匂い。それらが渾然一体となり、湯気となって翔の鼻孔を蹂躙する。
ヒューズはカップを翔の鼻先から離すと、その中身をズッと音を立てて啜った。
そのコーヒーは甘過ぎやしないだろうか。それを見ていた翼と志郎は心の中でそう思う。
「君、正体を悟られたくないのだろウ? 理由までは聞かないけどネ」
「それは……そう、ですが……」
「勿論、怪我の心配もあっタ。ケド、君のマントの術式を見たんダ」
ヒューズが指差した先。そこには、ハンガーにかけられた翔のローブマントがあった。
砂埃や翔の血で汚れ切っており、ところどころに解れや破れた跡が残っている。ハッキリ言って、ボロボロだった。
「いやはや、日本でルーン魔術、それも魔女術のそれを見たのは初めてだヨ。マントに仕込まれていた治癒術式を見た時、これなら手持ちのスクロールと併用すれば何とかなると判断したのサ」
「魔女? でも教授、翔君は男の子だよ?」
「翼さん、ウィッチとは女性だけではありませんよ」
首を傾げる翼に対して、口を挟んだのは志郎である。
「魔女という言葉は、ウィッチが日本に伝来した際にそう翻訳されたからです。原義のウィッチは男性も含みます」
「へー、そうなんだ。志郎さん物知りだねー」
「……あの」
3人の視線が翔へと注ぎ込まれる。
どうにも腑に落ちないという様子の翔は、自らが抱いた疑問を口にした。
「魔女術って、そんなに珍しいものなんですか? 大学で魔法史学の教授をしているというプロフェッサーがそう言うくらいに」
「気軽に教授と呼び給エ。そして質問の答えだが、君は“魔女狩り”を知っているかネ?」
ヒューズの問いかけに対して、翔は頷く事で肯定する。
無言の返答を受けて、ヒューズもまた「ウムウム」と頷いた。
「中世ヨーロッパで起きた大規模な宗教裁判……それによって魔女はその数を大きく減らしたそうでネ。ヨーロッパに行けば多少はいるだろうが、極東のここ日本では見かけた事が無いヨ」
「そうなんですか……」
「まだまだ荒削りのようだが、君の魔法の道具やルーン魔術の質には光るものがあるヨ。さぞかし名のある魔女が師匠のようだが、誰から教えを受けたのだネ?」
「え、っと……師匠はいません」
場が静寂に包まれる。
翼と志郎は「どういう事だろう?」という表情を浮かべているが、ヒューズはと言えば、翔の言葉を聞いて思わず真顔になっている。
眉間を指で揉み、「フー……」と溜め息。数秒ほど思考を巡らせた後、ヒューズは翔に聞き返した。
「えー……ト。もう1度言ってもらえるかネ?」
「えっ、はい。僕に魔法を教えてくれた師匠はいません。魔導書を読んで独学で勉強しました」
「…………」
クラァ、と眩暈を起こすヒューズ。思わずコーヒーカップを落としそうになるが、寸でのところで事なきを得る。
魔法に関して詳しくない志郎でさえ、その意味を理解して驚いているようだ。
翼は「翔君、凄いんだねぇ」とほんわか笑みを浮かべている。あまり分かっていないらしい。
「独学であの腕前かネ……いやはや参った参っタ。まさか“怪人黒マント”の正体がこんなに若く、こんなに才能溢れる少年だったとハ……」
「全くですよ。彼がヒーローであれば、私たちと協調してくれるのであれば、どんなに頼もしい事か」
ウンウンと頷き合うヒューズと志郎。
翼もまた、嬉しそうな表情で翔へ笑いかけていた。
「君もスッゴク頑張ってるんだね。あたしもヒーローとして負けていられないや」
「……ありがとうございます」
コクリ、と翔は首を縦に振る。
彼らに自分の実力を認められて嬉しいのは紛れもない事実だ。憧れのヒーローたちに「君と一緒に戦いたい」と言われて、嬉しくない方がどうかしているというもの。
しかし、それでも。それでも、だ。
「ですが」
翔には譲れないものがあった。
自分が公認ヒーローとしてではなく、自警ヒーローとしてでもなく。正体不明の怪人、“怪人黒マント”として振る舞う為の一線。
越えられないのではなく、越えたくない一線。
「僕は、ヒーローではありません」