第12話 悪食野風
「うぅううぅ……ぁぁあああぁ……ぅぁあぁ……!」
人気の無い路地裏、その奥の更に奥。
常人など誰も寄り付かないだろう場所で、“怪人黒マント”と悪女野風は密かに対峙していた。
今、2人は鎖で繋がれた状態にある。
黒マントの袖から放たれたミスリルの鎖が、無数の触手に変化している悪女野風の右腕を纏めて縛り上げているからだ。
聖なる銀を鍛え上げて作られた青白磁色の鎖は、魔性を祓う退魔の力を十全に発揮し、悪女野風の右腕を焼き焦がしている。
加えて、黒マントが鎖を介して放った魔力放出。
それらによって、悪女野風の肉体は小さくないダメージを負っている事だろう。悪女野風が苦悶の声を上げ続けているのがその証左だ。
「うぁあぁ、ああぁぅぅうあぁ…………!」
「俺は、貴様を止めなければならない。今、ここで……?」
そこで、黒マントは違和感に気付いた。
二重の攻撃によって悶え苦しんでいる筈の悪女野風。しかしよく見れば、それは苦しんでいるというよりも、身体をくねらせて善がっているようにも取れる。
それはまるで……
「あぁああぁぁあ……うぅぁああ────イイ…………!」
快感を覚えているかのよう。
「……ッ! 貴様……!」
「イイわぁ、凄くイイのぉ。あなた、中々やるじゃなぁい♪」
フリーになっている左手で己の胸を抱き締め、快楽に喘ぐ悪女野風。
その事に気付けてしまった黒マントの背筋を、ゾワリと言い様の無い悪寒が走る。
「私ねぇ、とってもお腹がペコペコなのぉ。この間ぁ、あなたとあの子豚ちゃんにディナーを邪魔されちゃったじゃなぁい? その怪我を直す為にぃ、暫く何も食べてないのよぉ?」
まるで世間話をするかのように語り掛ける悪女野風。
こうしている今も、まことの銀は彼女の右腕を焼き続けているというのに。それを苦痛に思わないどころか、まるで気持ちいいマッサージでも受けているかのような快楽の笑顔を浮かべながら。
「私は女の子しか食べないのぉ。男の子は硬くて不味そうだものぉ。あなただってホラ、痩せっぽちてお肉なんて無さそぅ。まるでネズミさんだわぁ」
スンスン。
妖艶に鼻を上下させながらそう語る。悪女野風の言葉を受けて、黒マントはより警戒心を強めた。
嗅覚や直感か、悪女野風は黒マントの正体が男性である事を看破する。
「でもぉ、私はお腹がペコペコ。それにあなた、とっても面白い手品を使うんだものぉ。私、あなたの事が気に入っちゃった♪」
「そうか。俺は貴様の息の根を止めたくて仕方ないのだがな」
いたって冷静に努める黒マント。動揺や嫌悪の感情を押し殺し、無機質で素っ気の無い抑揚で言葉を紡ぐ。
そんな黒マントの心理を知ってか知らいでか、悪女野風はニタリ、と妖艶で恐怖すら覚える笑みを浮かべた。
「だ、か、らぁ──」
動く。
それを察知し、いつでも対処の為の行動に移れるよう黒マントがより一層の警戒をする。
その直後だ。ブチブチブチ、という不快極まる異音が路地裏に響き渡ったのは。
それはまるで、肉を無理やり引き裂いているかのようで……
「真っ黒いネズミさぁん。まずはあなたをランチにしてあげるわぁ!」
悪女野風の右腕が大きく不気味な音を立てながら千切られる。悪女野風が、自らの意思で右腕を分離させたのだ。
「なっ──!?」
引き千切られた右腕は、自らを縛り付けていたミスリルの鎖に包まれながら焼き切れて、ボロボロと灰塵に消えていく。
対して、右肩から先を失った悪女野風。切断面からドボドボと零れ落ちる血を気にした様子もなく、むしろ痛みを喜んでさえいる。
「あぁぁあぁ! 痛い、痛いわぁ! それがイイのぉ!」
「……狂人め!」
大きく舌打ちを1つ。
ミスリルの鎖という拘束具を失った今、悪女野風がどんな行動を取るかなど想像がつかない。
それを分かっているからこそ、黒マントは袖の奥へと鎖を回収しながら、同時進行でルーンカードを取り出していく。
悪女野風が何かアクションを起こす前に仕留める。
そう決断した黒マントは、懐から取り出した5枚のルーンカードの内1枚を地面に叩き付けた。
「“雹のルーン”!」
トラブルや破壊を暗示する雹のルーン文字は、起動と同時に氷の礫を生み出した。
破壊力を帯びた氷の砲弾は、悪女野風を凍り砕かんと撃ち放たれ──
「あぁあ、んっ」
悪女野風が大きく口を開ける。
次の瞬間、悪女野風の顔面が大きく、歪に肥大化した。そこに妖艶な美女の面影は欠片もなく、カバや鮫に似た巨大な顎が牙を剥く。
黒マントの放った氷の砲弾は、大きく開かれた異形の顎へと吸い込まれていき、顎が閉じられると同時に噛み砕かれた。
「ゴリッ……ボリッ……アラァ、冷たくて美味しいじゃなぁい」
「まさしく化け物、か……!」
口に含んだ氷を噛み砕き咀嚼しながら、肥大化していた悪女野風の顔が徐々に元の素顔へと戻っていく。
自分は何と恐ろしい存在を相手取っているのか。黒マントは、仮面の裏側で激しく戦慄した。
しかし、ここで逃げ出す道理は無い。袖の奥から取り出した毒のダーツを、悪女野風の胴体を狙って投げ放つ。
一見すれば慣性の法則さえ無視しているかのように、各々が別々の軌道を描いて飛翔する3本のダーツ。
それらは空中を滑るように弧を描き、悪女野風の首元、左肩、左脇に命中した。
いや、命中した、という表現は不正確だろう。
3本の内、首元と左脇に命中したと思われたダーツは、突如としてその部位に形成された口によって食い止められる。
黒マントが調合した致死量の猛毒を気にする事もなく、バリボリとダーツを咀嚼する2つの口。
しかし左肩へと放たれたダーツのみは、確かに命中し、深々と刺さり込んでいた。しかし……
「嘘だろ、毒蛇の呪詛毒だぞ……!? 魔界の悪魔だって即死モノだってのに!」
「アラァ、これ毒だったのぉ? パチパチと痺れていいアクセントじゃないのぉ」
口から垂れる涎を拭いながら、恍惚とした表情を浮かべる悪女野風。
左肩に刺さったダーツもまた、その場に形成された口が噛み砕き飲み込んでいく。
ペロリ。妖しげな笑みを浮かべながら、悪女野風が舌舐めずりを1つ。
するとどうだろうか、腕を失った筈の悪女野風の右肩がブクブクと沸騰を繰り返し、瞬く間に右腕が再生した。
「美味しかったわぁ、ありがとうねぇ」
「それは皮肉か? くそったれめ」
「でもぉ、前菜はもうおしまぁい。ここからはぁ……」
ゾワリ。今日、何度目になるかも分からない悪寒。
致命的な何かが来る。それを感じ取った黒マントが大きく後ろへ退き──
「私の番よぉ!」
直後、先ほどまで黒マントが立っていた場所が大きく抉り取られる。
悪女野風が伸ばした右腕。それが野獣めいた巨大な牙へと変貌し、黒マントを捕食せんと襲い掛かったのだ。
幸いにして直前で回避した為、黒マントは無事だが、代わりにアスファルトの地面が悪女野風の口の中へと飲み込まれる。
右手に再度取り出したダーツ、左手にルーンカードを持ったいつもの戦闘態勢を取る黒マント。
しかし、悪女野風の攻撃はそれだけに終わらなかった。
放たれた右腕が戻っていくのとほぼ同タイミングで、今度は左腕がゴムのように伸びて黒マントへと向かう。
左腕は軌道上で変形を繰り返し、幾本もの槍を混ぜたかのような針山めいた形状へと変わっていく。
正面からこの攻撃を受ければ、黒マントを待つ末路は哀れなハリネズミだろう。
「“氷のルーン”!」
無論、黙って攻撃を受けるような黒マントではない。
左手に持つ4枚のルーンカード、その内の1枚は防御に秀でた氷のルーン文字だ。
魔力によって光を宿しながら起動するルーン文字は、黒マントの前に氷の壁を出現させる。
氷のルーンが暗示するのは停滞と安定、そして計画の凍結。
刃の団子めいた形状で迫り来る悪女野風の左腕は、氷の壁に激突すると同時に、ルーン文字の解釈によってその衝撃・威力を軽減され……
バリィン!
「ぐっ……!」
「その程度でぇ、私は止められないわぁ!」
氷の壁を砕きながら、針山めいた左腕が黒マントを打ち据える。
氷のルーンによって威力が軽減されたとはいえ、鋭い刃の塊は黒マントを守る筈のローブマントを貫いて、彼の腹部に負傷を与えた。
それでも、黒マントは諦めない。
「“雹のっ……ルーン”!」
手に持っていたルーンカードの1枚を、自らに食い込む悪女野風の左腕へと叩き付ける。破壊を司る雹のルーン魔術は、黒マントの望んだ通りに、彼女の左腕を凍結させた。
同時に、靴底に刻み込まれた馬のルーンを起動。普段は三次元軌道の為に用いているルーンだが、その名の通り馬を司る文字でもある。
「せ──いっ!」
脚力を強化された右足による、下段からの蹴り上げ。
凍てついた左腕は、黒マントの一撃に敵う事なく蹴り砕かれた。
「くぅうぅ……! やるわねぇ……!」
「貴様に褒められても嬉しくなどない!」
左腕の肘から先を失った悪女野風。彼女が腕を自分の方へと戻している間に、黒マントは手に持ってい松明のルーンを自らの腹部に押し当てる。
爆発による攻撃は、この路地裏という空間で行使するには危険が過ぎる。では、火の属性を持ったそのルーン文字をどう使うかと言えば。
「ぐっ……うぅぅうう……!」
傷口を焼く事による、強引な止血。
今の黒マントは、腹部の傷跡に松明を押し付けたような強烈な痛みを味わっている筈だ。それでも、やらないよりはマシというもの。
無理やり傷口を焼いて止血した黒マントは、歯を食い縛りながら悪女野風と対峙する。
「負けて、たまるかよ……っ!」
「冷たいわぁ、冷たいわぁ。腕の先が凍って冷えて冷たいのぉ」
ゾワゾワと異常な音を立てながら、悪女野風の髪が逆立ち膨張を繰り返す。
「だから、ネズミさぁん。あなたの血で暖めてくださいなぁ!」
やがてそれらは爆発したかのように弾け、無数の触手へと転じて黒マントへと襲い掛かった。プテラブレードに対して振るった能力だ。
あの時はアラクネーの糸を絡み付かせたが、真正面から1対1で対峙している状況では、動きが膠着してしまう事は避けたい。
そこで黒マントは別の手段を取る事にした。
黒マントは腹部の、文字通りの肉が焼ける痛みに耐えながら、植物の種をいくつか取り出す。
左手に握られたルーンカードは1枚。新たなルーンカードを取り出す時間は無いが、右手で植物の種を取り出す程度なら可能だった。
悪女野風の放つ触手を前にして、黒マントは右手に持った植物の種を地面へとばら撒き、同時に左手のルーンカードを行使する。
「“収穫のルーン”!」
カードに記されたルーン文字は収穫。
光るルーン文字の魔力によって、地面にばら撒かれた植物の種は、ビデオの早送り再生であるかのようにみるみる成長。太陽の光さえ届かない路地裏であるにも関わらず、アスファルトの地面を砕いて根を張り、上へ上へと蔦が伸びていく。
黒マントを捕食しようとする肉の触手は、真下から奇襲してきた蔦と絡まり縛られ、黒マントに届く寸前でその動きを止めた。
同時に、蔦と絡まり合った触手に異変が起きる。悪女野風の髪が膨張し変化した無数の触手は、ミスリルの鎖で縛られた時のように焼け焦げ、次第に溶け落ちていく。
「これはぁ……?」
「収穫のルーン文字が司るのは、文字通り収穫。植物を瞬時に成長させる事も可能だ。加えて……」
絡み合う髪と蔦とで黒マントと悪女野風の視界が分断された隙に、黒マントは懐から液体の入った小瓶を取り出す。自作した癒しの水薬だ。
指でコルクを弾き飛ばし、間髪入れずに口に含んで嚥下。魔女術の技術を用いて調合された薬は、気休め程度とはいえ黒マントの傷と痛みを緩和していく。
「成長させた種は聖別されてある。裏ルートで仕入れたとっておきだ」
「そぅ……ならぁ」
聖なる植物によってボロボロと焼け溶けていく髪。悪女野風は首を振る事で、蔦に絡まっている髪の触手を強引に引き千切る。
そして躊躇う事なく右腕を突き出した。突き出された指の1本1本が槍のように尖り膨張し、聖別された植物に触れて焼け焦げながらも、それらを無理やり引き裂いていく。
収穫のルーン魔術によって強引に成長させられた事もあり、グズグズと腐り崩れていく植物のカーテン。
悪女野風の視界が開け、そこに立っている筈の黒マントへと攻撃を仕掛けようとし──
「……アラァ?」
そこに、黒マントの姿は無かった。
キョロキョロと周囲を見回す悪女野風。そうして、気付いた。
「ここだ」
彼女の背後。姿勢を限界まで低くして、彼女の目線に入らないよう屈みこんでいる黒マントの姿がそこにはあった。
触手に絡み付く植物で悪女野風の視界が奪われている隙をつき、馬のルーンを使用して回り込んでいたのだ。
その事を理解した悪女野風は、黒マントを攻撃せんと背中に力を籠める。
肩甲骨を起点としてブクブクと沸騰・膨張する悪女野風の背中は、一瞬で幾本もの肉の槍を生み出すのだろう。
──その前に仕留める。
果たして、黒マントの方が早かった。
彼が左手に持つルーンカードは3枚。そこに記されたルーン文字は、3枚とも全て同じもの。
魔力を込めた事によって淡く光る3枚のカードを、黒マントは地面に押し付ける。
「“棘のルーン”!」
棘。巨人。計画的な足止め。
それらを暗示し、アスファルトを砕き壊して現れる数十本もの鉄の槍は、攻撃に移らんとしていた悪女野風の背中へと突き立てられた。
「あぁあああぁあぁぁぁぁぁああぁぁあああああぁぁぁぁああぁ!?!?」
悪女野風の真っ赤なドレスを破り、肉を引き裂き、骨を砕き。背中に突き立てられた槍は、彼女の肉体をズタズタに壊して貫通する。
噴き出る血飛沫が、路地裏の壁や地面を赤く染め上げていく。
「あぁ、あがっ、あがぁ、ああぁぁあああぁ……!!」
ガタガタ、と出来の悪い絡繰り人形のように首を動かす悪女野風。その目には痛みへの苦悶と共に、快感を受けて恍惚とした感情も混じっていた。
一般的には致命傷とされるダメージを受けてなお、悪女野風は痛みを快楽として捉えている。
黒マントは彼女に対して確実にトドメを刺すべく、懐から切り札を取り出そうとして──気付いた。
「貴様……それ、は……!?」
「AAAAAAAAAAAAAAAA…………!」
ブクリ。
異音と共に、悪女野風の額に浮き出るモノ。それを、黒マントは決して見逃さなかった。
鶏卵ほどの大きさを持ち、青く透き通る、水晶のようにも見えるナニカ。
その存在を、黒マントは知っていた。
「賢者の石……!?」