第11話 夕暮れのエンゲージ
夕方。
黄昏の濃く暗い光が、B市のビル街を豊かなオレンジ色に染め上げていく。
世間一般的には、学業や就労を終えた学生、サラリーマンたちが家に帰っていく。そんな時間帯。
翔もまた、学校に通い授業を受けて勉学に励む高校生。今日の授業が全て終わった後、放課後の学校を後にして帰路を急いでいた。
そう、急いでいた。
「今の……感覚、はっ……!」
翔は焦っていた。
いつも歩いている通学路ではなく、たまに利用している電車でもなく、ちょっと遠回りする時に歩く歩道橋でもなく。
今の翔は、ビルの屋上から屋上へを飛び跳ねるようにして移動していた。
左手の袖から糸を射出し、靴底の馬のルーンで脚力強化を施し、糸を巻き取りながら跳ねて飛ぶ。誰にも見られないようにして、しかし急ぐように。
切っ掛けは、占いである。
魔女術は、何も魔法の道具の製作や水薬の調合などが全てではない。占星術やタロットといった、魔術的要素を含む占いもまた、魔女の行いとして伝わっている。
先日、プテラブレードと共闘して撃退したヴィラン。プテラブレードが所属するヒーローチームでは“悪女野風”というコードネームで呼ばれている彼女は、未だ発見されたという情報を聞かない。
あの時、悪女野風を逃がしてしまった原因の一端として、翔──黒マントは密かに責任を感じていた。
そこで翔は、昼休みなどの空いた時間にタロットを用いた占いによって、悪女野風の動向を把握しようと試みた。
占星術は魔術的な要素が絡む為に自宅でしか行えないが、タロットであればクラスメートたちにも不審に思われない。
事実、翔がヒーローオタクであると同時にオカルト好きである事を知っているクラスメートたちは、彼がタロット占いをしていても然程違和感を抱いてなかった。
それどころか「自分の事も占ってみてくれ」というクラスメートが数人現れた為に、そちらにも時間を割く事になってしまい、翔としては良し悪しといったところ。
閑話休題。
その甲斐あってか、今日の昼休みに翔がタロット占いを行ったところ「探し物は近い」という暗示を受ける。
即座に翔は、隠し持っていた使い魔の鳩を数羽ほど街へ放ち、動向を監視するよう指示を出した。
そして放課後。翔が学校を出て帰宅していた最中に事態は動き出す。
「タロットの暗示、使い魔からの報告、そして──」
ビルの屋上を飛び交う翔のシルエット。彼は射出した糸を左手で上手く御しながら、右手で胸を強く掴む。
「確かに感じた、あの悪寒」
帰宅中、突如として翔は心臓を鷲掴みにされたかのような、どうしようもない威圧感と怖気を感じ取った。街に放っていた使い魔から、悪女野風を発見したという報告を受けたのはその直後の事である。
三重に絡み合った要素。これら全てを「偶然」として切り捨ててしまうのはただの愚者だろう。
「急がないと……!」
ビルの屋上へダイブするように飛び込み、要領よく着地する翔。彼はビルの柵に巻き付けた糸を左手で回収しながら、同時進行でリュックサックからマントと仮面を取り出した。
スパっとマントを羽織り、袖に腕を通す。全身をマントが覆い隠した事を確認し、真っ白い無地の仮面を顔面に装着。
そこに立っているのはヒーロー好きの高校生、黒井 翔ではなく。街で噂の都市伝説“怪人黒マント”の姿だった。
「使い魔の反応は──あそこ!」
こうしている今も、使い魔は上空から悪女野風を捕捉し、随時情報を翔──黒マントへと送り続けている。
黒マントは糸の射出とルーンの起動をほぼ同時に行い、射出した糸が目標の柵に絡まるのを待たずにビルの谷間をかっ飛ぶ。
糸が柵に命中する時間すら惜しいと言わんばかりのその行動は、ともすればコントロールを誤ってビルの壁に追突しかねない危険なもの。
それでも黒マントは、一刻も早く現場へ着く事を目指していた。
(今度こそ……今度こそ……!)
黒マントの脳裏に想起されるのは、悪女野風と邂逅した時の事。
彼女の足元に、まるで路傍の石のように転がっていたのは、悪女野風によって食い殺されたと思しき女性の遺体。
あの時は間に合わなかった。プテラブレードでさえ間に合わなかった。にも関わらず、自分たちはあの凶悪なヴィランを取り逃がしてしまった。
故にこそ。
「──間に合わせるッ!」
何度目になるか分からない糸の射出。小型ウィンチから撃ち放たれたアラクネーの糸は、現場の真上に位置するビルの避雷針へと巻き付いた。
自然と、黒マントが足を踏み締める強さが増していく。魔力を目一杯に込め、靴底に刻み込まれた馬のルーンを最大出力で稼働させる。
その瞬間、黒マントは馬……否、砲弾めいた速度で吹っ飛んだ。
同時に、糸の巻き取りも行っていく。が、今度は巻き取る速度をやや緩めにして。
黒マントが空中をかっ飛ぶと共に、緩めの速度で糸を巻き取っている為、アラクネーの糸が空中で僅かにたわむ。
ビルとビルの合間に出た黒マント。彼の目は、仮面の裏側からでも現場の状況をよく把握できていた。
路地裏の奥の奥。人など誰も寄り付かないであろう場所。そこで、壁を背にして怯える女性と、彼女を前に舌舐めずりを絶やさない悪女野風の姿。
「見つ──」
たわむ糸が、まるでブランコのように黒マントの身体に弧を描かせる。彼の目前には、ビルの硬く冷たいコンクリートの壁が迫っていた。
しかし、それこそが黒マントの狙い。最後の追い上げと言わんばかりに勢いよく糸を巻き取りながら、黒マントは壁へ向けて足を前に出す。
接触の瞬間、黒マントは靴底のルーンを起動。ビルの壁を足場として、斜め下へと吹っ飛んでいく。
「けたァッ!!」
今の黒マントは、まるで撃ち出された銃弾のよう。彼は悪女野風目掛けて吹っ飛びながらも、懐から1枚のルーンカードを取り出した。
見れば、悪女野風は自らの右腕を獰猛な鮫めいた牙へと変形させて、今まさに女性を食い殺さんとしている様子。
──やらせるものかよ!
そんな強い決意と共に、空中を落下するように吹き飛んでいる黒マントは、手に持ったルーンカードを投げ飛ばした。
カードは悪女野風と女性の間に見事に割り込み、刻まれたルーン文字の効果を発揮する。
ガッ──キィイン!
「な、に……っ!?」
「え…………?」
肉体と物体が接触したとは思えない金属音が路地裏に反響する。
突然の出来事に驚く悪女野風と、呆然とした様子の女性。そんな2通りのリアクションを齎したのは──
「こお、り……?」
路地裏の奥まで僅かに届く光を受けて、キラリと輝く氷の壁。
かつてプロフェッサー・キャンディが魔法によって生み出した氷の檻に比べれば劣るものの、悪女野風の攻撃を確かに防いだ凍てつく盾がそこにはあった。
役目を終えたかのように砕け散るそれは、ルーン魔術が生み出した神秘の力。
「“氷のルーン”」
ドッカン! という、砲弾でも直撃したのかと思ってしまうほどの音が響き渡る。その轟音に悪女野風が振り向いてみれば、そこに立っていたのはあの夜に戦った人物。
全身を漆黒のローブマントで覆い隠し、素顔もまた純白の仮面で隠されている。奇怪で不可思議な道具の数々を駆使する謎の怪人。
「停滞、安定、計画の凍結を暗示する。攻撃には転用し辛いが、防御に用いればこの通り」
「あなたはぁ……あの時のぉ……!」
そう、“怪人黒マント”である。
彼の無機質な仮面は、この状況をしかと見据えている。
「あ、ひっ……え、と……」
「…………」
状況が飲み込めず、混乱状態にあるらしい女性。
無理も無いだろう。突然謎の女に殺されそうになったかと思いきや、そこへ正体不明の怪しげな“怪人”が乱入してきたのだから。
仮面越しに女性を見つめ、数秒押し黙る黒マント。
彼はやがて何かを決心したかのように顔を上げ、女性に向けて言葉を投げかける。
「逃げろ」
「……へ……?」
「お前を守りながらコイツと戦う事はできない。逃げて応援を呼べ」
黒マントが考え抜いた末の結論。それは、女性を逃がす事だった。
そうすれば、確かに女性は助かるだろう。しかしそれは同時に、黒マントに関する記憶の処理ができなくなる事も意味する。
その上、逃げた女性が助けを呼べば、黒マントの姿はより多くの人間に知覚されてしまうだろう。そうなれば、彼が今まで行ってきた、正体を隠す立ち回りも無駄となってしまう。
それでも、黒マントが女性を逃がす選択をした理由は幾つかある。
まず第1に、先ほど黒マントが口にした通り、女性を守りながら悪女野風と戦う事が難しいからだ。これがスーパーパワーを持つ超人か、或いはそのチームであれば、女性を守りつつの交戦も可能だろう。
しかし、黒マントはスーパーパワーを持たない一般人だ。それを魔法の道具で誤魔化しているに過ぎない。加えて、この場で戦える存在もまた黒マント1人だけ。これでどうして、女性を悪女野風の脅威から守り抜く事ができようか。
次いでの理由として、黒マントは何がなんでも悪女野風をここで倒したいと考えている。
人間を甚振って喰らう異形のヴィラン。野放しにすれば、モスマンの群れともまた別ベクトルで凄惨な事態へ発展するだろう事は想像に難くない。
故に、黒マントは悪女野風を倒す為に“大技”の行使も視野に入れていた。そこで女性がこの場にいれば、巻き込んでしまうかもしれない。
そうした危惧も、理由の1つとして数えられている。応援を呼ぶよう求めたのも、悪女野風を確実に倒したいからだ。
そして、何よりも。
──自分の我儘で他人の命を危険に晒すなど、阿呆のする事だ。
自分の正体を隠したい。その思いに嘘偽りは無い。自分が“怪人黒マント”として活動している理由を知られたくない。その思いに嘘偽りは無い。
しかし、その目的だけに固執して、女性の記憶を消す事に固執して。結果として女性を死なせてしまう事は、他ならぬ黒マント──翔自身が許さないのだ。
もしそんな事態が起きてしまえば、“怪人黒マント”は偽善者未満の畜生にまで堕ちてしまう。そうなれば、翔は自分の事を生涯許さないだろう。
故に。
「逃げろ! 死にたいのか!?」
「えっ、は、はいっ!」
黒マントが声を荒げ、それに叱咤された女性が思わず走り出す。目指すは路地裏の出口へ。
「逃がすと思うのかしらぁ?」
しかして、それを見過ごす悪女野風ではない。
彼女の右腕が弾けると、無数の触手と化して女性へと襲い掛かる。触手は1つ1つの先端が鋭利な棘を形成しており、まともに喰らえばひとたまりもないだろう。
だが。
「逃がすさ」
黒マントが右腕を挙げ、マントの袖の深淵を悪女野風へと向ける。袖の奥の暗闇からは、まるで蛇か何かのように蠢きながら、幾多もの鎖が飛び出してきた。
まことの銀を鍛え上げて作られた青白磁色の鎖は、悪女野風が放った触手に組み付き、幾重にも絡み付いて動きを縛る。
加えて、鎖の帯びる聖なる魔力は、触手と化した悪女野風の右腕を浄化するように焼いていく。
「ぐぅっ……あぁああぁ……!?」
肉が焼ける痛みに喘ぎ、苦悶する悪女野風。
同時に、黒マントは彼女が正真正銘、魔性の存在である事を知る。でなければ、ミスリルの鎖はただの拘束具としてしか機能しないからだ。
そうしている間にも、女性は悪女野風と黒マントをすり抜けて、路地裏の出口へ向かって一目散に走り去っていく。
ただ、一瞬。
「ありがとうございます……っ!」
「礼を言われるような事じゃない」
黒マントの横をすり抜けていく際、女性が彼に呟いた一言。それを、黒マントは確かに聞き届けた。
出口の向こうへと消えていく女性を背に立ち、黒マントは鎖を通して繋がっている悪女野風と対峙する。
「俺はただの“怪人”だ。礼など、ヒーローに対して言えばいい」
仮面の向こう、ミスリルの聖なる力で悶え苦しむ悪女野風の姿をしかと見つめる黒色の瞳。
そこには、凶悪なヴィランに対する明確な敵意と正義感が宿っていた。
「ぐぅううぅぅ……あなたぁ……私にぃ、何、をぉ……っ!」
「1つ、教えてやろう」
そう言って、黒マントは己の袖から伸びている鎖を掴む。痛みに悶え暴れる悪女野風の力強さが、鎖を通して黒マントの手の平へと伝わっていくよう。
「ミスリルの鎖が持つ清浄の魔力はおまけに過ぎない。特筆すべきは……」
悪女野風の抵抗によって激しく上下左右へ揺れる鎖。それをしかと握り締めて離さない黒マントの手に、淡い光が宿った。黒マントが魔力を込めているのである。
次の瞬間、黒マントの手が激しくスパークする。
これは、魔女術やルーン魔術はあまり関係の無い技術。魔法の心得がある者なら誰でも行使できる、ただの魔力放出だ。
しかし、それが鎖を握る手から放たれればどうだろうか。電撃を帯びた魔力は瞬く間に鎖を伝い、その勢いを強くしながら悪女野風の肉体へと到達する。
瞬間。薄暗い路地裏が明るくなるほどに、悪女野風の身体は激しくスパークした。
「きゃぁあああぁああぁぁぁああああぁ!?!?」
「魔力をよく通し、その出力を増幅させる魔力伝導体。それが、ミスリルの本来の用途だ」
ビクビクと悪女野風の肩が痙攣する。右腕の触手はミスリルの鎖によって焼け焦げ、魔力放出の電撃は彼女の肉体に強いダメージを与えていた。
黒マントは彼女を睨みつける。例え無機質な仮面越しとは言えど、そこには確かな意志の光が瞬いている。
「貴様はここで倒す。これ以上被害者を増やしてたまるか」
黒マントと悪女野風。
路地裏での死闘が静かに始まりを告げた。