護りたいもの、護られるもの、護りきれないもの
色の交差。幾多にも広がる彩りは、やがて一つの道に導かれる。
ゆりと『瞬』が目に焼き付けたその色とは?
4
俊太郎と茜は屋敷の中に入る。
エントランスはとても広い。
白い大理石の床には赤い絨毯が敷かれ、
その絨毯の先には優雅な階段がある。
壁には絵画が掛けられ、
大きな陶器の花瓶には散りばめられた宝石のような花達が生けられていた。
豪華なシャンデリアが、二人を迎える。
「おかえりなさいませ、お嬢様。」
10人のメイド達と4人の執事達が道を開けるように並び、頭を垂れる。
「・・・ただいま帰りました。」
茜はそう告げて、上品に歩いていく。
俊太郎はその後に続いた。
メイド服に身をまとった若い女性達と、黒い執事服をまとった男性達。
その最後尾には別格と思われるメイドと執事がいた。
「・・・お嬢様、その殿方はどちら様でしょうか?」
あるメイドが茜に問う。
背筋が綺麗に伸び、表情はとても厳かだった。
白髪交じりの髪は、頭の後ろで乱れなくまとめられている。
茜は微笑んで、そのメイドに答えた。
「『萩野』さん。覚えてるでしょ?『瞬』よ。」
『萩野』と呼ばれたメイドは、俊太郎を凝視する。
そのメイドと同じく、初老の執事も俊太郎をじっと見つめる。
その執事の白髪頭はオールバックで、
顔に刻まれた皺は紳士の貫禄を感じる。
「お嬢様。まさかあの『瞬』だというのですか?」
「ええ。『葛西』さんは思い出した?」
『萩野』と『葛西』は、顔を見合わせている。
俊太郎はその様子を察して、言葉を発した。
「どーも。厄介者の訪問、ご迷惑おかけします。」
萩野と葛西は面食らっている。
それをよそに、茜があるメイドに話しかけていた。
「早苗さん。あなたが教えてくれた占い師さんの所に行ってみたら、
とても良かったのよ!」
『早苗』と呼ばれたメイドは、控えめに微笑み頭を垂れる。
「それは何よりです。お役にたてて嬉しゅうございます。」
「お嬢様。」
萩野が、茜と早苗に割って入るように言葉を投げる。
「行き過ぎたメイドとの交流はお控え願います。
メイド達の仕事に差し支えますから。」
「・・・・・・」
茜は肩を落とす。
早苗は弁解するように、萩野に申し立てる。
「メイド長。お嬢様は悪くありません。私が勝手にした事です。」
早苗に向けた萩野の眼差しは、とても冷たい。
「勿論です。あなたはお嬢様の身の回りの世話から外します。
いいですね?」
「萩野さん!」
「お嬢様。これはお嬢様の為です。
外部の情報をお耳に入れる事は、必要のない事です。
胸に留めて置いてください。」
「・・・・・・」
茜は何も言い返さず、俯く。
言いたい事を、ぐっと耐えているようだった。
早苗は頭を深々と下げる。
― ・・・なるほど。これじゃあ息が詰まるよな。
俊太郎は横槍を入れず、見守っていた。
葛西は視線をその俊太郎に向け、落ち着いた口調で言う。
「・・・『瞬』。ご無沙汰でしたな。」
葛西の言葉に、俊太郎は調子を狂わせる。
「・・・なんだよ。勝手にいなくなった奴に、ご無沙汰はないだろ。」
萩野が憮然と、にこりともせず葛西に続くように告げる。
「あなたはこの本城家をお護りしてくださっていた方。
よくお戻り下さいました。」
「・・・戻ったわけじゃないけどな。」
茜は気を取り直し、萩野に尋ねる。
「お父様にお会いしたいの。どこにいらっしゃるかしら?」
葛西がやんわりと答える。
「旦那様は書斎にいらっしゃいますよ。」
「ありがとう、葛西さん。」
茜は、目の前にある大きい階段を登っていく。
萩野と葛西を一瞥した後、俊太郎もそれに続いた。
― ・・・『道頓堀』は誰に依頼されたのか。
本城グループを敵視する者・・・本城個人に恨みのある者・・・
考えたらきりがない。
・・・とにかく、鍋島の情報待ちだな。
二人は長い廊下を歩いていく。
しばらくして茜が、ある扉の前で止まった。
その扉の部屋に、俊太郎は見覚えがあった。
茜は息を整え、軽く拳を作ってノックをする。
「お父さま。私です、茜です。
お仕事中だと思いますが急なお話がありまして・・・
どうか話を聞いてください。」
一時、間が生じる。
静寂な時間が流れた後、その扉ががちゃん、と開いた。
中から姿を見せたのは、二人の体格の良い男。
顔は瓜二つで、違うところといえば髪の分け目ぐらいだった。
部屋の中から声が上がる。
「入りなさい、茜。」
その声の主に、俊太郎は心当たりがあった。
茜は部屋の中に入る。
その後を追うように部屋に入ろうとした瞬間、
二人の男達が俊太郎の腕を取り、制した。
「その手を放しなさい!」
二人の男達は、茜の命令に反応しなかった。
その二人を見据え、再度言おうとした時だった。
「・・・『柔』、『剛』。その少年の拘束を解け。」
部屋の中から発せられた貫禄のある声。
その一声で、2人の男達― 『柔』と『剛』は俊太郎を解放した。
拘束を解かれた少年は、ふっ、と息を漏らす。
「・・・よぉ。久しぶりだな、本城。俺の事覚えているか?」
部屋の奥にある重厚な机。
牛皮の椅子に座る、和装に身を包んだ男。
「・・・まさか、お前は・・・」
その男は、俊太郎の存在が信じられない様子だった。
ひどく狼狽し、立ち上がる。
「『瞬』か!?」
「・・・ああ。そうだよ。」
「おお!よく戻ってきてくれた!」
初老の男―本城大和は嬉しそうに歩み寄る。
俊太郎は近づく本城に、鋭い眼差しを送る。
「勘違いすんなよ。俺は戻ってきたわけじゃない。」
本城は足を止め、俊太郎を見据える。
俊太郎は言葉を続けた。
「茜が命を狙われた。俺は茜を護る為にここに来たんだ。
『殺し屋』は今夜7時にここにくる。
・・・もしかしたらお前も標的にされているかもな。
本番だとか何とかほざいてたし。」
本城は茜に目を向ける。
茜はその、眼差しを避けるように俯いた。
「・・・茜が命を狙われただと?」
「心当たりはないのか?」
「・・・・・・」
本城は口を堅く結び、表情を険しくさせた。
部屋中に緊迫した空気が支配する。
「私を陥れる為か?・・・いずれにせよ、『瞬』が
戻ってきたのだ。その『殺し屋』を捕まえて吐かせるしかないだろう。」
本城は俊太郎に向けて頭を下げた。
その行為に、茜は驚く。
「・・・頼む、このとおりだ、『瞬』。力を貸してくれ。」
俊太郎はふっ、と息を吐く。
「戻ったわけじゃないって言っただろ?
・・・まぁ、あんたが頭を下げるのは少し驚きだがな。」
頭を上げ、本城は懇願する。
「1億だ。1億でどうだ?報酬は望み通りの金額を渡すぞ!」
「やだね。過去あんたがくれた報酬が結構まだ残ってるから、
金には困ってないし。・・・あんたの悪行には愛想尽きてんだよ。」
「何を言っている!私はこの国の未来を思って動いているんだ。」
「臓器売買が、か?」
その言葉に、茜は青ざめる。
本城は厳しい目をして俊太郎を見据える。
「あんたは何の罪もない人をさらい、需要あれば提供する。
四年前、『シラサキ』と組んでその臓器売買を行っていた。
『シラサキ』の息子が捕まり、
そのパイプが断たれてあんたは困っただろうよ。」
本城の額には大量の汗が浮かんでいる。
それは娘の前だからなのか、真実を知られての事か、定かではない。
俊太郎は軽蔑するように目を細め、本城を見る。
「その悪行に嫌気が差して俺はここから去ったんだ。
・・・拉致されて、臓器売買の道具にされた人間はどれだけいる?
国の未来だか何だか、御託を並べたところで、
それは大虐殺の何ものでもない。それをお前は正当化するのか?」
その言い分に、本城は開き直ったように告げた。
「役に立たない人間から臓器を奪ったところで、何が悪い?
その臓器は、病気で苦しむこの世に必要な人間に移植され、
役に立つんだ。
合理的だとは思わんか?私はその斡旋をしているに過ぎん。」
「・・・ひどい・・・」
ぽつりと、震えた声が響く。
俊太郎は、その声の主の方向を見る。
茜は睨むように自分の父親を見据えた。
「・・・そこまでひどい事をしているなんて、知らなかった。」
「茜。これは至高のプランなのだ。お前なら分かるはずだ。」
「至高のプラン!?冗談が過ぎます、お父様!」
茜は涙を浮かべ、部屋から勢いよく出て行く。
俊太郎は本城を見据えて言った。
「とにかく、死にたくなかったら今夜部屋を出ない事だな。
あんたの心強~い用心棒達が護ってくれるさ。そいじゃあな。」
「ま、待て、『瞬』!お前は私の傍にいろ!」
俊太郎が部屋を出ようとしたら、『柔』『と『剛』が扉の前に立ちはだかった。
その2人を一瞥し、ふっ、と笑った。
「・・・悪いが、あんた達が俺を拘束する事はもう出来ない。」
そう告げた後、俊太郎の姿が消える。
『柔』と『剛』は驚愕し、一生懸命部屋を見回す。
本城は舌打ちをして、消えた少年のいた場所を睨んだ。
*
俊太郎はある部屋に向かった。
先程の重厚な扉とは違った、木の温かさを感じるシンプルな造りの扉。
― 四年前と変わらないなら、この部屋は茜の部屋だ。
俊太郎は軽くノックをする。
「・・・一人にして・・・」
茜の声がして、部屋が正しかった事を確認した。
俊太郎はふう、と息をついた。
― 『道頓堀』が宣言した通りにやって来るとは限らない。
一人にしたら、それこそ危険だ。
茜の所望を無視し、『力』を使って部屋に入る。
部屋模様は、緑を基調にした彩りになっていた。
淡い緑のカーテン、壁の色は浅葱色、ベッドに敷かれているシーツは深緑。
茜はベッドの上に膝を抱えて座り込み、顔を伏せていた。
小さな嗚咽が、繰り返し響いている。
泣きじゃくる茜に、俊太郎は声かけることなく壁に寄りかかる。
そんな時間がしばらく流れた。
嗚咽は次第に消え、茜はゆっくり顔を上げた。
「・・・お父様が非合法な事をしているっていうのは、薄々気づいていたの。
幹部の人が会話してるのを聞いたことがあって・・・
それを確かめるのが、ずっと出来なかった。怖かったの・・・」
俊太郎は黙って聞いていた。
「お父様は間違ってる。お母様が喜ぶはすがないわ。
・・・存在の価値だとか言うなんて、おぞましい。」
語尾の方は震えていた。
複雑に入り混じった感情が、茜を襲っていた。
そんな時、扉をノックする音が響く。
【お嬢様。昼食の準備が整いました。旦那様もお呼びです。】
萩野の声だった。
茜は一呼吸置いて答える。
「・・・昼食はいりません。それにお父様と顔を合わせたくない。
そう伝えて頂戴。」
【ですが、旦那様の命令です。】
その萩野の言葉に、茜は苛立った。
「私の意志なんて誰も尊重してくれないのね。この家には私の味方はいない。
・・・唯一話を聞いてくれたのは早苗さんだけだったわ!」
先程言いたくても言えなかった事を、茜は言葉に出した。
抑えていた感情も、溢れた様子だった。
そんな茜を見て、俊太郎は笑う。
【・・・失礼します。】
そう萩野の声が聞こえた後、足音が遠ざかってく。
茜は、笑っている俊太郎を見て怪訝そうな表情を浮かべる。
「・・・何がおかしいの?」
「いや、悪い。やっとお前が正直に感情を出したなって思ってさ。
そのくらい言った方がいい。」
「・・・」
茜は恥ずかしかったのか、顔を俯かせる。
「逆らうのも大事だ。」
俊太郎は笑いを止めて言った。
「言いなりになるのは簡単だ。従っていれば楽だしな。
けど、何も考えられない人間になる。自分の道も決めつけられるなんて、
つまらないだろ。」
「・・・うん・・・」
茜は小さく微笑む。
「ごめんなさい・・・私につき合わせちゃって。
構わずご飯食べてきていいのよ。」
俊太郎は首を横に振る。
「いらない。『力』を使っている間は腹減らないし。」
「・・・え?」
「ここに二年しかいなかったから知らなかっただろうけど、
俺は『力』の影響で成長する事が出来なかった。
ずっと、12歳のまま彷徨っていた。信じられないかもしれないが。」
俊太郎の言葉に、茜は驚きを隠せなかった。
そんな様子を悟って、俊太郎は和らげに言葉を続ける。
「俺自身、どうすればいいか分からなかった。でも、救われたんだ。
この『力』から離れる事で、俺は人生を取り戻せた。」
「・・・そうだったの。」
茜は表情を暗くする。
「知らなかった。・・・ごめんなさい。
私のせいで、またあなたの時間を止めてしまったのね。」
そう言って顔を俯かせた茜の元に、俊太郎は歩み寄る。
ぽん、と手を茜の頭の上に置いた。
「・・・気にするな。」
茜は顔を上げ、俊太郎を見つめる。
その瞳に灯る光。
その光が灯るのは二度目だった。
今度は、俊太郎は黙っていなかった。
「・・・茜。お前、何か俺に隠している事があるだろ?」
思わぬ追求に、茜は逃れるようにベッドから離れる。
「・・・ううん。何もないわ。」
「・・・・・・」
小柄で華奢な少女の後姿。
その背中が語る、哀愁の色。
少年はその後ろ姿を見つめる。
重苦しい空気を両断する甲高い音。
俊太郎のスマホの着信音だった。
茜はその音に振り返る。
俊太郎は制服のポケットからスマホを取り出し、スワイプする。
「・・・はい、どうも御苦労様。」
短く応答した後、スマホの通話相手からの言葉に耳を傾ける。
茜はその様子を窺う。
そんな時間がしばらく続いた後、俊太郎は何も言わず通話を切った。
「・・・どうしたの?」
俊太郎の表情が厳しかったのに対して、茜は心配そうに尋ねた。
「・・・何でもない。」
短く答え、スマホを制服のポケットに直す。
俊太郎はその場に腰を下ろし、胡坐をかく。
それから考え込むように視線を一点に集中させた。
ただならぬ俊太郎の様子に、茜は押し黙って再びベッドに腰を下ろす。
静寂と沈黙の空間が支配した。
― ・・・『道頓堀』。
最近、頭角を現している『殺し屋』。
狡猾で、金の為ならどんな『殺し』も請け負う
・・・自称してた通り、三流の『殺し屋』。
大金を出せる依頼主は限られてくる。
・・・恨みの線か?
それかグループ勢力争いか?
・・・いずれにしても。
なぜ茜を狙う?
なぜダイレクトに本城を狙わない?
・・・奴は『茶番』と言った。
奴の言う『本番』は何を指す?
・・・それに・・・これが問題だ。
情報によれば、これまで請け負った仕事は100%完遂しているらしい。
・・・俺の『力』があったとしても、隙をつかれて・・・って事もある。
油断はできない。
「・・・ねぇ、『瞬』。」
茜が言いづらそうに尋ねる。
思考を止めて、俊太郎は視線を茜に向けた。
「・・・どうした?」
「・・・お願いが、あるの。」
視線も定まらず、明らかに落ち着かない様子だった。
俊太郎はその様子に、首を傾げる。
「・・・お願いって?」
「・・・・・・えっと、あの・・・突然なのは分かってる。
そんな状況でもないってことも。
・・・でもね・・・もし、叶えてもらえるなら・・・」
茜は耳まで赤く染めながら、小さな声で告げた。
「・・・・・・キス、してほしい・・・」
一瞬、何を言っているのか、俊太郎は理解できなかった。
茜の様子と、言葉を照らし合わせてようやく把握した。
俊太郎は突然の所望に動揺した。
「・・・お前何言ってんだ?」
「わ、分かってる!変な事言っているのは!
・・・だけど、本気で言ってるの。」
さらに俊太郎は動揺した。
「・・・あのさぁ。いくら顔見知りだったとしても、
お願いする事じゃないよな?」
「・・・うん・・・それも分かってる・・・」
「じゃあ何でそんな事を・・・」
「・・・好き、だから。」
「・・・・・・」
「『瞬』の事、好きだから・・・私、ずっとあなたを忘れた事なかった。
・・・あなたに大事な人がいるのは分かっている。
でも・・・私はあなたが好き。」
少年を真っ直ぐに見つめる瞳。
そして表情。
少女が固く決意しているのが、伝わる。
少年はそんな少女から目を逸らせなかった。
そして、少女の瞳に灯る光。
少年がその光を目の当たりにするのは、三回目だった。
俊太郎はふう、と息をついた。
その表情に、少年の色は浮かばない。
俊太郎は立ち上がる。
茜はそれと同時に視線を上げる。
俊太郎の手が伸びる。
その手は茜の頬に置かれた。
その手から伝わるひんやりとした感触。
俊太郎の顔が自分に近づいた事に、茜は動悸を起こす。
逸らす事も、まぶたを閉じる事も許されない眼光。
胸を突き破りそうな動悸が、茜を襲う。
俊太郎は低い声で囁く。
「・・・お前は何を隠してる?」
その問いかけに、茜は我に返った。
動悸は、動揺に変わる。
茜は俊太郎の追求から逃れようと抵抗する。
しかし、今度は決して許さなかった。
「・・・・・・」
ぶつかり合う視線。
茜は気づく。
俊太郎の手から、体温が伝わってこない事を。
手の温かさが感じられない事を。
茜は思った。
― ・・・この人は今、私の為に今死んでいる。
・・・・・・私なんかの為に。
大粒の涙が伝う。
茜は俊太郎の胸の中で泣き崩れた。
「ごめんなさい!・・・ごめんなさい・・・!
本当に・・・ごめんなさい・・・!!」
嗚咽が胸元から響いて伝わるのを、俊太郎は感じた。
「・・・私なの。あの『殺し屋』に依頼したのは・・・」
俊太郎は目を見開く。
茜は俊太郎の胸に顔を埋めて言い続ける。
「・・・もう何もかも嫌だった。お父さまの所業も気づいていたし、
自分の居場所もなかった。・・・あなたに見てもらいたかったの。
賭けだった。高校であなたに会った時、
『瞬』じゃないかって気づいて・・・
そして思ったの。自分の最期を見届けてもらおうって。
あの時喋りかけて、間違ってたらその場で殺されよう・・・
もし『瞬』だったら自分を護ってくれるだろうって・・・
そしてそうなったら、今度はあなたの目の前で殺されようって・・・」
俊太郎は茜の両肩を掴み、引き離す。
そして真っ直ぐに見据えた。
「矛盾してるだろ!?お前を護る奴が、目の前でお前が殺されるのを黙って
見てろというのか!?」
茜は訴える。
「私に居場所は無いの!!
あなたが見届けてくれるなら、私は死んでもいい!!」
右手が振り上がる。
茜は叩かれると思い、目を瞑った。
その手は茜の二の腕を掴む。
痛いくらいに掴まれ、茜は顔を引きつらせる。
俊太郎は茜の拘束を解かず、そのまま深緑のベッドに押し倒す。
刺すような視線が注がれ、茜はその眼差しに捕らわれた。
「・・・・・・愛されてるだろ、お前は。」
ぽつりと言葉が降り注ぐ。
「死ぬなんて、簡単に言うな。
お前がここまで生きてこれたのは、支えてくれた人がいるからだろ。」
想いの籠った言葉が、茜の胸に突き刺さる。
言葉を紡ぐ俊太郎の表情には、暗い影の色に染まっていた。
俊太郎は茜から離れ、壁際に歩いていく。
壁を背にして、俊太郎は座り込んだ。
茜は、呼吸する事を許されたかのように大きく息を吐く。
静寂な空間の中、茜の乱れた呼吸が響く。
ベッドに押し倒されたままの姿で、高い天井を仰いだ。
それから二人は沈黙した。
会話のないまま、互いに空間を保ったまま時間が過ぎていく。
*
一方、カフェ『SHALLYA』。
コーヒーを静かに含み、飲んだ後鍋島はゆっくり語りだした。
「『護り屋』。その名の通り善人だろうが悪人だろうが、
依頼を受ければ死守する。
『瞬』はその『護り屋』だった。
『力』を持つ彼は、最高峰と言われる程評判だったよ。
ある大物がそれに目をつけ、専属の『護り師』として雇った。
その報酬は破格だったようだ。
その大物の名は『本城大和』。
医療、食品関係を手がける大手企業グループ、『本城グループ』の会長だ。」
ゆりは鍋島の情報を静聴する。
「そんな中・・・彼はとんでもない場面に遭遇する。
・・・『臓器売買』。その意味は分かるね?」
「・・・!」
ゆりは表情を険しくさせた。
震える拳を必死で抑え、相槌を打つ。
「臓器売買の市場を、リアルタイムで見たんだ。
四年前の、『白崎 直』がやっていた事は、その斡旋だ。
その非合法な事実に、『瞬』は雇われの身である事に嫌悪して
『本城』の元から去った。」
「おまたせ~!」
重苦しい空気を裂くように、明るい声が店内に響き渡る。
ゆりはその声の方を向いた。
黒いサングラスと髭の男、『オウル』。
その人物は確認できたが、声を発した人物を把握できなかった。
「うふふ、こんな格好でごめんなさ~い。似合ってるかしら?」
『オウル』の後ろから顔を出す女。
しかし普通の格好ではない。
ゆりは一瞬、ここは“メイド喫茶”なのかと勘違いした。
そのメイド服姿の女を凝視する。
「ま、まさか・・・」
「そう。『アヤメ』よ~。」
メイド姿の女― 『アヤメ』はにっこり笑う。
「か、顔が違いますけど・・・」
ゆりが会った『アヤメ』は、水商売の女。
顔の作りも声も、全く違っていた。
『アヤメ』は、ゆりの疑問を解消するかのように答えた。
「私の職業は『潜入屋』。
仕事の度に、その職業に合わせて姿形を変えるの。
今はメイドって訳よ。」
『アヤメ』の後に続くように、『オウル』が言う。
「俺はその『潜入屋』の姿形を変える『メイク屋』。
手を組んで一つのヤマを片付ける。」
ゆりは呆然とその二人を見つめた。
鍋島はその様子に笑う。
「『オウル』の“メイク”はお墨付きだ。
そして『アヤメ』の“潜入”も。・・・まぁ座れよ、二人とも。」
『オウル』は鍋島の隣に、『アヤメ』はゆりの隣の席に座った。
それを見計らうかのようにウェイターが現れる。
「あ、私アイスコーヒーね。」
「俺はグアテマラ。」
「かしこまりました。」
注文を聞いて、ウェイターは静かに去っていく。
ホワイトブリムをほどき、テーブルに置くアヤメ。
ウェイターが、二人の注文したものを置いて去っていくのを見届け、
アヤメは口を開いた。
「見ての通り私は一仕事してきたばかりなんだけどね。
『本城大和』の屋敷のメイドよ。」
それを聞いて、ゆりは驚く。
「ときさんの依頼でね。1ヶ月前から潜入していたの。
いざという時の『保険』だそうよ。
『易者』の指示を理解するのは、難しくて私にはさっぱりだけどね。
あなたならもう、ときさんの意図を理解したでしょ?」
「・・・『保険』・・・」
ゆりは再び、祖母の偉大さを噛み締める。
― ・・・おばあちゃんは、事態を見越していたんだ。
「今さっき、『瞬』から情報収集を頼まれたんだ。」
鍋島が告げる。
「ある『殺し屋』の情報収集だ。
狡猾で、金の為なら何でもする『殺し屋』のね。」
「どうやら依頼主は、その本城家のご令嬢みたいなの。
・・・自分の命を絶ってほしいという依頼よ。」
「・・・いや、どうも一筋縄じゃ終わらない。」
『アヤメ』の情報に、鍋島は納得する様子なく告げる。
「僕の情報は、グループの幹部が絡んでいる。
その名は『河凪 正巳』。『本城大和』の秘書だ。
僕の推測では、そちらの依頼の方が上をいっていると思う。」
「そっか。」
鍋島の意見に、『アヤメ』は賛同する。
「その『殺し屋』、二重に依頼を請け負っているってわけね。
本城家のご令嬢からと、河凪からも。何て奴かしら。」
鍋島はうなずいた。
「河凪の依頼と、ご令嬢の依頼。
どちらが優位に立つのか。勿論、河凪の依頼が強いだろう。
将来的に仕事に繋がる方を選ぶ。
河凪の依頼は、『本城家断絶』らしい。」
恐ろしい計画に、ゆりは身震いした。
静かに話を聞いていた『オウル』が、口を開く。
「その『殺し屋』は、妙な『力』を使うらしい。」
「・・・『力』?」
「俺はこの業界で長いが、
そんな『力』を持つ奴がいるなんて聞いた事がない。
どんな『力』なのか詳しく分からないが・・・
その『力』のお陰で、仕事は完遂していると聞く。」
鍋島はその事実に驚愕していた。
「それは知らなかった。すぐに『瞬』に報告をしよう。
その『殺し屋』を依頼した人物もプラスしてね。」
― 俊太郎ともう会えない気がしたのは、これが原因だったんだ。
「・・・待ってください、鍋島さん。」
電話する事を制したゆりを、鍋島は訝しげに見る。
「ゆりちゃん?」
「鍋島さん。『瞬』には、『殺し屋』の『力』の事は知らせないでさい。
それと、ご令嬢の依頼の事も。
・・・ご令嬢が自分自身で立ち上がる為に。」
ゆりの決意めいた言葉に、鍋島は納得したように頷いた。
「・・・『易者』は、もう先を見据えている。そういう事だね。」
『オウル』も続くように言う。
「ときさんのお孫さんだからな。」
『アヤメ』も小さく笑って告げる。
「そうそう。『易者』を理解するのは難しいのよ。
私達は従うだけ。」
ゆりは三人の顔を見渡し、深々と頭を下げた。
「お願いします。力を貸してください。」
*
午後6時を過ぎた頃。
こんこんこん、と軽いノック音が響いた。
木の椅子に座り、窓から景色を眺めていた茜は扉に視線を移す。
壁を背にして座り込んでいた俊太郎も、扉の方に目を向ける。
《お嬢様。早苗です。お食事をお持ち致しました。》
鈴が鳴るような声だった。
茜は驚いて思わず言葉をかける。
「早苗さん?」
《メイド長からの命令です。お嬢様の御世話に戻るようにと・・・》
茜は信じられない様子で、椅子から立ち上がる。
俊太郎も後に続くように立ち上がる。
「入って!早苗さん!」
『失礼します。』
がちゃん、と扉を開ける音が響く。
その瞬間、茜は重い空気が抜けて楽になった気がした。
食事の乗ったワゴンを押し、早苗は部屋に入る。
「お嬢様のお好きなものを用意致しました。
・・・これもメイド長の命令ですよ。」
「・・・ありがとう。でも、せっかくだけど食事はいらないわ。」
「ですが・・・」
「ここに座って、早苗さん。あなたが来てくれただけで嬉しい。」
茜は赤く腫れた目を細めて微笑んだ。
早苗は戸惑った様子で、茜に促されるままテーブルの椅子に座った。
茜は早苗と向かい合うように座る。
「・・・お嬢様。泣いていらしたのですか?」
「・・・ふふ。駄目ね・・・泣き虫で。」
茜は顔を俯かせる。
静かに見据えて、早苗は言葉を紡いだ。
「お嬢様は、お嬢様の道を歩まれてください。
私を含め、皆お嬢様の支えになりたいのです。」
「・・・早苗さん・・・」
茜はその言葉に、涙を伝わせる。
早苗は、佇むように立っていた俊太郎に目を向ける。
「『瞬』さまもそのお一人だと思います。
お嬢様がしっかり地に足をつけて歩かれるのを望んでいらっしゃると。」
俊太郎は目を見開き、早苗に目を向けた。
その視線を合わせる事なく、早苗は茜に優しく声をかけた。
「私は一旦失礼致します。お食事は置いておきますね。」
立ち上がると丁寧に頭を垂れ、部屋の扉に向かって歩き出す。
その早苗を、俊太郎が扉の前に立って、制した。
その目は早苗を直視する。
その、強い眼差しに早苗は動じる事はなかった。
「・・・どうかお嬢様を支えて下さい。」
揺るがない早苗の態度に、俊太郎は何も言う事ができなかった。
ゆっくり道をあける。
早苗は丁寧にお辞儀をして、部屋から去っていった。
しん、と静まり返った後、言葉を切り出したのは茜の方だった。
「・・・『瞬』。
本当に私が馬鹿だった。独りよがりもいいとこよね・・・」
茜は涙を拭って、俊太郎の元に歩いていく。
俊太郎の目の前に立つと、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。私、間違っていた。
もう死のうなんて思わないわ。生きてみせる。」
茜をじっと見据える俊太郎。
その眼差しに、茜はもう揺らぐ事は無かった。
しばらく様子を窺った後、俊太郎は表情を和らげた。
「・・・軽々しく死ぬとか言うなよ。」
「・・・それは本当にごめんなさい・・・」
「まだ間に合う。『道頓堀』に依頼キャンセルの連絡をしろ。」
茜は同意するように頷いた。
部屋のデスクに置いていたスマホを手に取る。
操作し、耳元に宛てがう。
二、三回コールした後、相手は応答した。
《もしも~し。どなた様ですやろ?今取り込み中なんやけど~》
気の抜けた声が響く。
茜は大きく深呼吸して、言った。
「本城茜です。依頼をキャンセルします。」
『道頓堀』は、間を置いて答えた。
《・・・そうですか~。分かりましたわ。
ただし、前金として頂戴してたお金は返しまへん。
違約金として受け取りますわ。それでええやろか~?》
「・・・構いません。」
《ああ、そうそう。実は今あんさんの屋敷にお邪魔しとりますねん。
あんさんとは別の依頼が入っておりましてなぁ。》
「・・・え?」
《そいじゃあほな、さいなら~》
「え?ちょっと・・・」
通話はすでに切られていた。
呆然とする茜に、俊太郎は尋ねる。
「・・・どうした?」
茜は動揺した様子で呟く。
「・・・今、この屋敷に来てるって・・・
別の依頼が入ってるって・・・」
俊太郎は表情を険しくさせた。
「・・・本城の方か?」
その予測に、茜は顔を青くする。
「・・・お父様を・・・?」
そう呟いた時だった。
ガターン!!!
何かが倒れ込む様な音が響いた。
二人はその音に驚愕する。
茜は、はっとして言った。
「・・・お父さまの部屋からよ!」
俊太郎は部屋を飛び出す。
茜もその後を追おうとする。
「茜!お前は部屋にいろ!」
「いいえ!私も行きます!」
強い意志を返す茜に、俊太郎はそれ以上何も言わなかった。
音がした方向に駆け出す。
本城大和の部屋に立ちはだかった。
一息置き、扉のドアノブに手をかけた。
俊太郎は慎重に、かつ勢いをつけて扉を開けた。
「・・・!!」
部屋内の光景を目の当たりにし、茜は絶句して両手で顔を覆った。
赤の乱舞。
白い壁には、その彩りが殴り書きのように飛び散っている。
床には、すでに絶命した二人の遺体。
一人は、くの字に折れ曲がるように、
そして一人はひれ伏すように前のめりになって倒れていた。
俊太郎は、その惨劇の中に立つ者達を見据える。
部屋の窓際に立つ男。
返り血が、フェイスペイントのように頬に走っている。
そして、その狂気の男と対峙するように立ち尽くすメイド。
そのメイドの後ろには、本城大和が腰を抜かして座り込んでいた。
惨劇を避けるように、茜はその父親の元に駆け寄る。
「あんちゃん!待ってたで~!」
俊太郎と茜の登場に、
狂気の男はまるで友人に会ったかのように明るい笑顔で声をかけた。
「これで役者は揃ったわけやなぁ。
・・・このメイドさんは想定外やったけどなぁ。
でも、何やら久しぶりに手ごたえのある一時になりそうや。」
ようやく茜はそのメイドを認識する。
「早苗さん!?」
俊太郎はメイド― 早苗の後方に素早く駆け寄る。
「・・・怪我はないのか?」
「・・・はい。」
早苗は、狂気の男に顔を向けたまま答えた。
「ほな、始めよか~。」
気の抜けた声が部屋に響く。
すると、部屋の扉が独りでに閉まる。
茜は、びくっとして扉を見た。
「・・・後ろに下がっていてください。」
早苗が俊太郎に言葉をかける。
しかし俊太郎は従わなかった。
「あんたの方が下がってろ。あいつは俺が何とかする。」
「いいえ。あなたの『力』は通用しません。」
「・・・何だと?」
二人のやり取りを見守り、狂気の男は血がついたナイフをぶらぶらと弄ぶ。
「なに内緒話しとるんや~?俺もまぜて~な。」
早苗は狂気の男を見据えながら告げる。
「・・・あの男の『力』。あなたの『力』とは逆です。」
「・・・俺の『力』の逆・・・?」
腰を抜かしていた本城は、ようやく立ち上がり、
茜の手を引いて扉のドアノブに手をかける。
しかし、扉は開くどころか、ドアノブがびくともしなかった。
「な・・・どういう事だこれは!!」
本城の様子に、狂気の男は可笑しそうに笑う。
「この部屋はもう孤立してますのや。
俺の、えげつな~い『力』のせいでなぁ。」
俊太郎はこの上なく目を見開く。
「・・・孤立・・・?」
早苗は頷く。
「あの男が『力』を発動したら、あなたの『力』は無いに等しい。」
狂気の男はのんびり言った。
「俺を倒さへん限り、このステージから出られへんわけ。
さぁ、どうする~?生きる為には戦わなあかんなぁ。」
本城は大きく動揺して言う。
「頼む!!助けてくれ!!金ならいくらでも払うぞ!!」
狂気の男は、本城を眺めるように見る。
「悪い話やないけどなぁ。俺は忠実に仕事をするだけや。
それが信用に繋がるさかいなぁ。文句なら依頼主に言うてや~」
「誰だ、その依頼主は!!」
「そんなん、明かしたら話にならへんやないか~。
厳守するのが、この業界の最低限ルールやさかい。」
狂気の男― 『道頓堀』は、舞台に立つ役者のように皆を見渡す。
「この部屋にいる全員の命を絶つのが俺の務めや。恨まんといてや~」
部屋の空気は、その言葉で一気に重くなった。
茜はがたがたと身を震わせている。
本城も顔を青くし、茜と身を寄り添うように立ち尽くす。
その二人の盾になるように、俊太郎と早苗は『道頓堀』と対峙した。
『道頓堀』は早苗に目を向ける。
「そこで寝とる男共より、メイドさんの方が楽しめそうな気がするなぁ。
ほら、戦士の勘やな。」
「・・・・・・」
俊太郎は早苗の横顔を見守る。
その表情は、凛としていた。
『道頓堀』は、ふっ、と息を吐く。
「御託は並べんと、早う戦えってなぁ。敬意を払いますわ。」
言葉の後、『道頓堀』の目が鋭くなった。
早苗は釘を刺すように俊太郎に言った。
「下がってください。あなたがいると、私は思うように動けません。
見守っていただければそれで活力になります。」
俊太郎は唇を噛む。
早苗から離れるのを惜しむように、ゆっくりと後ろに下がった。
それを確認して、早苗は小さく呟く。
「・・・ありがとう。」
『道頓堀』は満面の笑みを浮かべる。
「メイドさん、あんたかっこええわ。惚れてまいそうや。」
ナイフを前に出し、早苗に向ける。
「・・・ほな行くで!」
その一声が、戦場の火蓋を下ろす。
『道頓堀』が一足踏み込む。
俊敏に動いて、ナイフを突き出す。
早苗はそれを紙一重でかわす。
その後にふわりと身をひねり、それを反動にして掌を伸ばす。
『道頓堀』はぎりぎりのところで避け、体勢を崩す。
「わわっ!速いなぁ!!」
早苗はその声に耳を貸さず、発けいを繰り出そうとする。
「ちょ、・・・ちょっとタンマ!!」
その投げられた言葉で、早苗は動きを止めた。
『道頓堀』は慌てる素振りをする。
「なんやあんさん、ごっつう強いわ!」
早苗は鋭い目つきで見据えながら言葉を紡ぐ。
「・・・下手な芝居はやめなさい。」
『道頓堀』は可笑しそうに、嬉しそうに笑っている。
「あんさん、中国武術の使い手なんやな。それが嬉しくってなぁ。」
早苗は聞く耳持たず、次の動作に入っていた。
足を開いて右足に体重を乗せ、柔らかく両腕を旋回する。
「!」
その動きを見て、『道頓堀』は表情を変える。
「はっ!!」
掛け声と共に、
早苗は両腕を鞭のようにしならせて『道頓堀』の肩に落とした。
反応が遅れたのか、避けきれず直撃した。
『道頓堀』は苦痛に顔を歪ませながらよろける。
その光景を目の当たりにして、俊太郎は息を飲んだ。
― ・・・何だ、あの動きは?
早苗は身体をひらりと反転させ、構える。
「・・・ふふふぅ。」
『道頓堀』はこの状況に、嬉しくて堪らない様子だった。
「震えるわぁ~、楽しいわぁ~。
『八卦掌』の奥義を拝めるなんて・・・俺は幸せやわ~。」
恍惚に浸っている『道頓堀』を、早苗は睨んだ。
― ・・・只者じゃない。
この男は瞬時に急所を外した。
『道頓堀』は何を思ったか、ナイフを床に突き刺した。
そしてすっ、と両手を前に出して構える。
「八卦掌の奥義を見せてくれたお礼に、俺もあんたに見せたるわ。」
早苗はその構えを見て、顔を険しくする。
その様子を感じ取り、『道頓堀』はにや、と笑う。
「あんさんのやつと兄弟みたいなもんや。
これを使う時は、戦士と認めた時だけや。
しかも強いと認めた相手だけやで。」
そう言って『道頓堀』が動く。
そこから交戦が始まった。
『道頓堀』と早苗の激しい組手。
どちらの技も隙がなく、互角だった。
その攻防を、茜は瞬きするのを忘れて見入った。
「早苗さん・・・すごい・・・」
俊太郎も同じだった。
固唾を呑んで見守る。
しばらく組手が続いた後、『道頓堀』と早苗は一旦離れる。
息を整えるように、互いに深呼吸をした。
「楽しいなぁ。」
ぽつりと『道頓堀』は呟く。
早苗は表情を変えず、感覚を研ぎ澄ます。
『道頓堀』は笑みを湛え、動いた。
だん!と足を踏みしめ、一気に踏み込んでくる。
『道頓堀』の肘が鋭く迫る。
早苗は紙一重で身を反転する。
「ははぁ!流石に避けるなぁ!」
『道頓堀』はすでに次の動作に移っていた。
「これならどうや!?」
床に両手を付き、足を突き上げる。
弓から放たれた矢のようだった。
その攻撃を、早苗は完全に避けきれなかった。
「・・・くっ!」
矢尻と化した『道頓堀』の足が、早苗の左肩を直撃する。
その衝撃に早苗はよろけた。
「早苗さん!!」
茜が叫ぶ。
俊太郎も思わず身を乗り出す。
早苗は左肩を抑え、痛みを堪えた。
『道頓堀』はにっこり笑って言う。
「これでおあいこやな。」
まるで何かを暗示させる響きだった。
そのニュアンスに、早苗は引っ掛かりを覚える。
『道頓堀』は床に突き刺したナイフを取って、それをある方向に投げる。
早苗は、はっとする。
阻止しようと駆け出すが、一足遅かった。
そのナイフは一直線に飛んだ。
茜も、俊太郎も、それを見送る事しか出来なかった。
それが自然の流れだと思うくらいに。
『道頓堀』の意表をついた行為だった。
「・・・・・・ぐっ・・・」
声が漏れる。
早苗は唇を噛んだ。
ナイフは、本城大和の喉元に刺さっている。
大量の血が、口から噴水のように溢れ出す。
「・・・お・・・お父様!!!」
父親の姿に、茜は悲痛の声を上げる。
俊太郎は驚愕した後、ナイフを投げた張本人の方向を向く。
しかしその人物の姿はもう部屋から消えていた。
それと同時に扉から激しくノックする音が響く。
《・・・旦那様!!どうなさいました!?旦那様!!》
慌てた声も聞こえてくる。
「・・・離脱したようです。あの男の『力』が発動していません。」
俊太郎が行動する前に、早苗はその腕を掴む。
俊太郎はその手を振り切ろうとする。
「・・・放せ!」
早苗は強い眼差しを向ける。
「あの男を追っても、殺されるだけ。私は奴の依頼主を知っています。
行くならその者の所です。私も一緒に行きます。」
「・・・・・・」
見つめ合う二人。
俊太郎は憤りを抑えるように、大きく息を吐く。
「・・・誰なの?」
すでに絶命した父親に寄り添い、小さく言葉を吐く少女。
涙は流れていないが、目は充血している。
早苗と俊太郎はその少女に目を向ける。
「・・・依頼したのは誰?私がその者と話をします。」
早苗は茜の元に歩いていくと、目の高さを合わせるようにしゃがむ。
「お嬢様。依頼主は『河凪 正巳』です。
お嬢様は、私と『瞬』さまがお護りします。」
茜は頷く。
俊太郎は静かに二人を見守った。
《旦那様!!旦那様!!》
茜は立ち上がり、部屋の扉に向かう。
扉を開けると、葛西と萩野を筆頭に屋敷に仕える者達が駆けつけていた。
「・・・お嬢様!!どうなさったのですか?!その血は?!」
茜にべっとり付いた血を見て、萩野は青ざめる。
部屋の有様を目の当たりにした一同は、悲痛の声を上げた。
「旦那様!!!」
「おい!!誰か救急車を呼べ!!」
騒然とする一同に、茜は声を張った。
「みんな!!よく聞いて!!」
一同はその声に、しん、と静まり返った。
「・・・お父様はすでに亡くなられています。
ある者が『殺し屋』を雇い、本城家を断絶させようとした。
私は今からその者に会ってきます。
みんなは私が帰るまで何も騒がす、待っていてください。」
「・・・お嬢様・・・」
葛西が、悲哀に満ちた表情で茜を見つめる。
茜は静かに告げる。
「悲しむのは、すべてが終わってからよ。このような事態になったのは、
お父さまの自業自得のせい。その尻拭いは、娘である私がしなければならない。
・・・みんな、力を貸して頂戴。」
茜の決意と、強い意思。
それは一同に痛いほど伝わっていた。
「・・・勿論です。お嬢様。」
萩野が言葉を紡ぐ。
「私達はお嬢様に従います。ここにいる一同は皆、そう心に決めています。」
一同は頷いた。
それを見つめ、茜は微笑んだ。
「・・・ありがとう、みんな。」
その光景を見守る早苗と俊太郎。
少女に生まれた威風堂々。
それは、道を切り開く光のようだった。
*
とある高層マンションの一室。
最上階にあるその部屋は広く、大きな窓から街のネオンが一望できた。
窓の近くに佇むスーツ姿の男。
長身で顔立ちも良く、清潔感があった。
スマホを耳に宛がうその手首には、高級ブランドの時計が光っている。
「・・・本城大和を殺ったんだな?」
《とりあえず、本命は殺っとかなあかんと思うたさかい・・・
娘の方まで殺るにはごっつぅ割りに合わへんやったで。
今の報酬の倍は乗せてもらわんと~。
あんな強い用心棒がいるとは聞いてへんかったしなぁ。》
「何だと?用心棒というのは『瞬』の事か?
あいつが戻ってきた時の事を想定してお前を雇ったんだぞ?
・・・茜は殺ってないのか?」
《だからなぁ、メイドさんや。ごっつぅ強いメイドさん。
そのメイドさんが想定外に強かったんや。
どうしても娘の方も殺れって言うんやったら、
報酬は倍にしてもらうで~。》
男は考えた後、応答する。
「・・・もういい。よくやった。娘の方はどうにでもなる。
仕事は終わりだ。」
《ほんまか?はぁ~、おおきに!
あのメイドさんと闘うのは避けたいわぁ。仕事にならへん。
まぁ楽しかったけどなぁ~。
・・・あーあ。お陰で仕事完遂できひんかったわ。
ほな、またご贔屓によろしゅう頼んます~。】
ぷつ、ツー、ツー・・・
通話は切れる。
スーツの男―皮凪は舌打ちをした。
― ・・・メイドだと?
意味がさっぱり分からん。
くそっ!
苛立ちながら、再び窓から見えるネオンに目を向ける。
― ・・・まぁいい。
茜は見たところ押しに弱そうだ。
手玉に取るのは容易い。
逆に、生かして利用した方が都合いいのかもな。
「・・・今、何を考えているのかしら?」
突如響いた、鈴音のような声。
河凪は狼狽して、その声の方を向く。
血が付いた制服を着た少女。
そしてその後ろに控える少年とメイド。
河凪は少女を見るなり、笑顔を振り撒く。
「これは茜お嬢様。何かの遊びですか?大変驚きました・・・。」
「とぼけても無駄よ。もう私は知っているの。」
河凪は小さく息を漏らして笑う。
「何の事だか分かりませんが・・・」
「本城大和の臓器売買斡旋ルートを略奪したかったんだろ?予想はつく。」
少年の低い声が切り込む。
「俺が誰だか知ってるよな?
あんたが電話してるところから話を聞いてるんだよ。」
河凪の表情が一変する。
「河凪さん・・・父があなたの事をいつも褒めていたのよ。
若いのによく気のつく青年だって。なのに・・・残念だわ。
・・・父の所業を悔い改める為にも、あなたには自首してもらうわ。」
「・・・自首・・・だと?」
先程見せていた紳士的な雰囲気は、欠片も見当たらなかった。
「馬鹿な事を言うな!これは立派なビジネスなんだよ。」
河凪はデスクに歩み寄る。
「本城大和では、このビジネスは荷が重い。
私が引き継ごうと思っていただけだ。」
デスクの引き出しを開け、何かを取り出すとおもむろに腕を上げる。
その右手に握られている物。
サイレンサーが装備された拳銃だった。
茜はそれを目の当たりにして身構える。
「父親の後を追うんだな!」
河凪はそう言い放つと、拳銃のトリガーを引く。
茜は目を強く瞑った。
ばしゅん、と音が鳴る。
その茜の身体を引き寄せる者。
そして、河凪の元に駆け出す者。
それぞれの行動が、同時に起こる。
「ぐわあっ!!!」
河凪の悲鳴が響く。
茜は目をゆっくり開けた。
俊太郎の胸の中にいる事に気づく。
河凪の方に目を向けると、早苗が河凪の両腕を取って机に押さえつけていた。
虚しくもサイレンサー付きの拳銃は床に転がっていた。
「・・・幕は下りています。おとなしく投降した方が身のためですが。」
「うぅっ・・・お前かっ・・・!
お前のせいで・・・計画が台無しに・・・」
早苗は冷ややかな視線を河凪に向ける。
「このまま腕をへし折られたいですか?」
「ひ・・・ひぃ・・・や、やめろ!」
「それでは自首しますね?」
「・・・わ、分かった・・・!
分かったから・・・手を・・・放してくれ・・・」
早苗は、苦しむ河凪を見透かすように言う。
「あなたの目はどうも信用なりません。このまま開放したらきっとまた
あの殺し屋に依頼し兼ねませんし・・・それなら」
言葉が終わる前に、河凪は失神した。
鮮やかな早苗の手際に、茜は感服する。
「・・・早苗さん、ありがとう。」
そして、俊太郎に目を向ける。
「『瞬』もよ。あなた達がいなければ、解決できなかった・・・
本当にありがとう。」
早苗は小さく微笑み、茜に告げる。
「お嬢様。河凪は私にお任せを。先にお屋敷へ戻られてください。」
「え・・・?早苗さん・・・」
「『瞬』さま。お嬢様をよろしくお願いします。」
「早苗さん!・・・戻ってくるわよね?」
茜がすかさず言葉を投げた。
早苗は笑みを浮かべて答える。
「残念ながら、それはできません。
縁があればまた、会えると思います。」
茜は悲しそうに早苗を見つめる。
「・・・茜。行こう。」
俊太郎が促す。
茜は名残惜しそうに早苗を見つめる。
早苗は深々と頭を垂れた。
頭を上げると、二人の姿は消えていた。
二人が去ったのを確認し、早苗はメイド服のポケットからスマホを取り出した。
電話をかける。
コール音が三回鳴った後、応答した。
【・・・準備オッケーかしら?】
「はい。お待たせしました。よろしくお願いします。」
短く答えて、通話を切る。
ピーンポーン。
インターホンが鳴る。
早苗は部屋を出ると、広いリビングを通り抜けて玄関へ歩いていった。
玄関を開けると、黒いパーカーとジーパン姿の女が立っていた。
黒髪のベリーショートが印象強い。
「この姿がノーマルだと思ってちょうだいな。『アヤメ』よ。」
変幻自在な女性に、早苗―ゆりは感心する。
「『アヤメ』さんってすごいですね。」
「ふふ、私じゃなくて『オウル』のメイクが凄いのよ。
・・・中身まで別人になれるみたいでしょ?
演技が演技じゃなくなるのよね。」
ゆりは照れるように微笑む。
「・・・はい。それは確かに思いました。」
二人は、気を失っている河凪がいる部屋に行く。
失神している河凪を見て、『アヤメ』は笑う。
「こうしてみると・・・ときさんが『保険』って言ってた意味が分かるわね。
気絶させちゃうくらい強いあなたもすごいわよ。」
ゆりはその言葉に、急に恥ずかしくなって俯いた。
『アヤメ』は、河凪の横にあるデスクトップを立ち上げる。
「『潜入屋』は、何に対しても潜入できないとその名を語れないの。
これもその一つね。」
『アヤメ』はUSBを差し込む。
「俗に言えばハッキングなんだけど。」
鮮やかな指さばきで、キーボードを操作する。
『潜入屋』の技術に圧倒され、ゆりは黙って見守っていた。
ディスプレイを見ながら『アヤメ』は告げる。
「・・・すごいわね、これは。
臓器の経由ルート、斡旋、そして顧客リスト・・・
臓器が買われた先は、名のある政治家に実業家・・・
ほぼ国を動かす人物ばかりね。『合法』の裁きでは闇に埋もれる。
残念だけど、そいつを普通に警察に突き出したところで何にもならない。」
「・・・そうですか・・・」
『アヤメ』はゆりに目を向ける。
「ここからは『片付け屋』の仕事ね。」
「『片付け屋』?」
「その名の通り。『こちら側』のやり方で片付ける。
この顧客達はみんな犯罪者よね。
臓器を売るのも悪いけど、買うのも同罪。
『非合法』を『合法』に処理して、裁くわけ。
『殺し屋』が仕事をした後の、遺体の処理とかも『片付け屋』が処理するの。」
『アヤメ』はにっこり笑って言う。
「ここからはご令嬢との交渉になるわね。御苦労様。」
“御苦労様”という言葉で、ゆりは一気に緊張の糸が切れた気がした。
それと同時に、左肩に感じていなかった痛みが走る。
「・・・それでは私は失礼します。『アヤメ』さんも御苦労様でした。」
「ふふ。また会いに行くわね。今度はあなたのお客として行こうかしら。
あなたの『易者』としての力は、とても興味深いわ。」
じわじわと痛み出す左肩。
それを我慢しながらゆりは微笑んだ。
一方。
茜と俊太郎が本城家の屋敷に戻ってきた時、
広間にある大きな柱時計の針は11時を指していた。
「・・・静かね。みんなどこにいるのかしら?」
茜の、鈴のような声が広間に響き渡る。
「・・・とにかく本城の部屋に行ってみよう。・・・大丈夫か?」
茜は先程の惨劇を思い出してためらいも見せたが、
覚悟を決めたかのように頷いた。
二人は広間にある豪華な階段を上っていく。
すると、階段の上の方から萩野が姿を現す
「・・・お嬢様!」
「ただいま・・・萩野さん。」
「お帰りなさいませ。一同、お嬢様のお帰りを御待ち致しておりました。
・・・実は先程、『田中』様という男性がいらっしゃいまして・・・
その方は『片付け屋』と名乗っております。」
「『片付け屋』・・・?」
茜はその言葉に首をかしげる。
俊太郎はその名前で、敏感に悟った。
「茜。どうやら手回しされてるみたいだ。」
「え?」
「そいつに全てをまかせればいい。俺の出番はここまでだな。」
俊太郎は確かめるように問う。
「・・・もう大丈夫か?」
少年が紡いだその言葉の意味。
それを感じて、茜は俊太郎にしっかりと告げた。
「ええ。もう大丈夫。」
「じゃあ、俺は帰るよ。」
「うん。本当に・・・心から感謝するわ、『瞬』。ありがとう。」
茜は柔らかく微笑む。
その笑顔はとても優しく、そしてとても凛としていた。
俊太郎はその笑顔を見届け、呟いた
「・・・学校で会おうな。」
茜は目を見開く。
俊太郎はきびすを返し、歩き出す。
屋敷の出口に向かって歩くその、長身の少年の後姿はとても大きく見えた。
茜はたまらず声をかけた。
「・・・ありがとう・・・!」
少年は手を高く上げる。
茜は、少年の姿が見えなくなるまでずっと見送り続けた。
*
俊太郎がときの家に帰り着いた時は、夜中の1時を過ぎていた。
靴を脱ぎ、土間から廊下へ上がる。
廊下を歩いていくと、居間の障子から光が差し込んでいるのに気づいた。
俊太郎は居間の障子をゆっくり開ける。
「・・・あ、おかえり。俊。ちょっと眠れなくてさぁ。」
ゆりは寝間着姿でテレビを見ていた。
テレビの電源を消すと、立ち上がって申し訳なさそうに言う。
「ごめんね。ご飯作ってないんよ。何か食べる?
カップ麺くらいしかないけど・・・」
俊太郎はじっ、とゆりを見つめたまま何も返答しなかった。
ゆりは首をかしげる。
「・・・どうしたん?」
沈黙したまま見つめ返す俊太郎に、ゆりは心の内を見透かされる気がして
冷や汗をかく。
しばらくして、ようやく俊太郎は言葉を紡ぐ。
「・・・ただいま。」
「え?あ、ああ、うん。おかえりなさい。」
「・・・・・・」
「ほら、早く制服着替えてきーよ!その間にお湯を沸か・・・」
言葉が途切れたのには理由があった。
歩み寄る俊太郎の目が真剣だったのと、距離が近い事。
ゆりは大きく動悸する。
「・・・ゆり。」
名前を囁く声は、とても低く響いた。
俊太郎の右手が、ゆりの左肩に伸びる。
ゆりは反射的にそれを避けようとした。
しかしその手は、左肩に置かれる事はなかった。
ふわりとゆりの頭を引き寄せる。
そして両腕で包み込んだ。
優しい抱擁。
ゆりは動悸の波が激しすぎて、目が眩みそうだった。
抱き締められたまま時間が過ぎる。
ついに耐え切れなくなり、ゆりは言葉を振り絞って言う。
「・・・ね・・・ねぇ・・・ほんとにどうしたん・・・?」
俊太郎は、抱きしめた腕をゆるめるどころかぎゅっ、と力を込める。
ゆりの耳元で、低い声が紡がれる。
「・・・ごめんな。俺の為に危険な目に遭わせて・・・
また、俺はゆりに助けられた。」
「・・・な、何の事よ・・・?」
「・・・ありがとうな、ゆり。
でもな、もう二度と俺の為に命を賭けるな。
俺はゆりを失いたくない。」
俊太郎の左腕から伝わる震え。
それは恐怖からくるものだった。
それが痛いほどゆりの心を、締め付ける。
ゆりはそれを隠す為に、諭すような言葉をかける。
「・・・何言ってるのかさっぱり分からないんやけど。
私がいつ命を賭けたんよ?」
「・・・・・・」
ゆりの意図を理解したのか、俊太郎はゆりの身体を離した。
真っ直ぐな瞳をゆりに向ける。
ゆりはその瞳に動揺する。
「・・・本気で隠し通せるとでも思ったのか?」
「な、何の事?」
「まさか本当に隠すつもりでいるとでも?」
「だ、だから一体何なんよ!?」
「ふーん。」
悪魔の微笑みが、ゆりの目に飛び込んでくる。
俊太郎の手が、ゆりの左肩を目指して伸びてくる。
ゆりは青ざめて抵抗した。
「ちょっと!!」
「痛いんだろ?触るだけで。」
「・・・痛く、ない。」
「じゃあ触るけどいいか?」
「・・・え・・・?」
「なぁ、『早苗』。」
「・・・・・・」
ゆりは堪らず俯いた。
俊太郎の表情はとても優しい。
そんなゆりを見て微笑み、再び抱擁する。
「ははっ。もういいよ。ゆりがそのつもりならそれで。」
その言葉に、ゆりは顔を赤く染める。
二人はしばらく、そのまま抱き合っていた。
互いの鼓動を確かめるように、安堵の呼吸を感じ合うように。
再び戻ってきた平穏の時間を、噛み締める。
しかし、今まで過ごしてきた時間とは違う何かが・・・
二人の間に生まれていた。
To be continued・・・