アンダーグラウンド
四年の月日が流れる。ゆりと『瞬』は家族のように平和な日々を送っていた。
しかし、とある出会いがきっかけでその時間が崩れる危機に陥る。
二人に襲い掛かる事象とは?
3
四年の月日が流れた。
ゆりは高校を卒業し、進学する事無く就職した。
博多駅の近くにある、『あかい堂』という大きな書店に勤めている。
大手家電量販店の中の一角にあり、敷居は低く入りやすい環境にあった。
ゆりにとって、図書委員長の延長線みたいな職場である。
実家から出て、本格的に祖母のときの家に暮らすようになった。
二つの理由がある。
一つは、ときの元で『易者』になる為の勉強をしたかった事。
二つは、とある少年の為だった。
時刻は午後5時前。
『あかい堂』には、雑誌を立ち読みする人や、書籍を買い求める人が増えていた。
ゆりはレジカウンターにいて、
承っていた書籍の予約を確認する為にデスクトップを操作していた。
髪を肩の所まで伸ばし、色は明るい茶髪からダークブラウンに染めていた。
赤縁の眼鏡は変わらない。
年を重ね、顎のラインは細くなり、少女から女性に変わっていた。
『あかい堂』の従業員は制服を着用する。
白いカッターシャツに紺色の首かけ型エプロン、そしてタイトスカート。
シャツの胸ポケットには、『あかい堂』のロゴが刺繍されている。
「ゆり。」
レジカウンター越しから発せられた低い声。
ゆりは、その声がこの場所で聞こえた事に驚く。
素晴らしい早さでレジカウンターから出ると、
声の主の腕を取って、本棚の所へ歩いていく。
「・・・どうしたの?」
声の主は制服のブレザーを着ていた。
身長はゆりの頭一つ分高く、黒髪は無造作で前髪が目にかかっている。
「もうすぐ仕事終わるんだろ?一緒に帰ろうかなと思って。」
ゆりは少し迷ったが、すぐに返事を出す。
「・・・うん。ちょっと待ってて。」
「参考書を見たかったのもあるから。そこら辺にいるよ。」
制服の少年は微笑んで去っていく。
ゆりはその姿を見送ると、レジカウンターに戻った。
少年の名前は『高城 俊太郎』。
四年前、『瞬』と名乗り、ゆりの前に現れた。
出会った時は十二歳くらいの容姿で、あどけなさがあった。
あれから身長も伸び、ゆりの方が見上げるようになった。
― 身内の欲目無しに、周りの男達より段違いで格好良い。
ゆりは立派に成長した少年を誇らしく思う。
『力』を使うことなく、過ごせている事に喜びを感じていた。
*
― 俊太郎はあれから中学校に通いだし、無事高校進学を果たした。
彼は『護り屋』として働いていたお金を、『経歴』に換えた。
『情報屋』の鍋島さんが『経歴』を作ったのだ。
・・・ずっと前におばあちゃんから、
『経歴』を買うのは莫大なお金が必要だと聞いた。
命を懸ける『護り屋』は、破格のお金を稼げるとも。
・・・しかし、どうだろう。
彼は『力』という魂を売って生きてきた。
もうそんな、悪魔の取引をさせたくない。
・・・私の切望だけど。
「買い物していくのか?」
帰路を並んで歩いている中、俊太郎がゆりに尋ねる。
「うん。今晩のご飯は私が作るから。」
「楽しみだな~。」
― 今日は俊太郎が『力』を使わず、
無事に時を重ねる事になった、記念すべき日だ。
「・・・ケーキ買おうと思うんやけど、何がいい?」
「ケーキ?なんで?」
「毎年やってるじゃない。今日はあんたの誕生日。」
「そうだっけ。いつもすんません。」
「・・・どうせチーズケーキがいいんでしょ?」
「ご名答。」
「ワンパターンなのよ、俊は。」
「好きなんだから仕方ないだろ~?」
ゆりはくす、と笑う。
俊太郎はそのゆりにつられて微笑んだ。
「それじゃあカレー作って。」
「分かってる。それこそよく知ってる。」
二人は笑い合う。
洋菓子店に入ると、ワンホールのチーズケーキを購入した。
店を出ると、再び他愛ない話をしながら道を歩いていく。
端から見れば、仲の良い姉弟のようだった。
「・・・高校生活はどう?」
「面白いよ。毎日新しい事ばかりで刺激的だな。勉強も楽しいし・・・」
ゆりはその発言に、大きくため息をつく。
「言ってみたい・・・勉強が楽しいとか・・・
頭の良さは私と比べ物にならんけんね・・・」
― 俊は文句無しに頭が良い。
この間の全国学力試験の結果を見て、相当びっくりした。
・・・9位ってすごくない?
一桁ってどういう事?
まだ信じられない。
俊太郎は何事もないように言う。
「社会に出たら関係ないだろ。テストの結果なんて役に立たないし。
勉強は通過点の為にするもんだろ?」
― 俊太郎が言うと説得力があるな。
ゆりはそう思いながら少年を見つめる。
「まぁ・・・学校が楽しいなら言う事無しね。」
「学校が楽しいというか・・・」
何か含んだ感じで答える俊太郎。
ゆりは首をかしげる。
「・・・何か不満でもあるん?」
「・・・いや。別にないよ。ただ・・・」
声変わりした俊太郎の声は、少し低めで心地いい響きを持っていた。
「周りの同級生となじめないな・・・。」
話しながら歩いていると、すぐに家から近所のスーパーに着いた。
二人はその店の中に入っていく。
ゆりは心の中で思った。
― ・・・馴染めないのは無理もない。
今まで費やしてきた時間は、彼を刻んでいる。
「あ、ゆり。今日のカレーは良い肉使うんだろ?」
俊太郎の目が輝いている。
ゆりはふぅ、と息をついて笑う。
「うーん・・・どうしようかな。」
「頼むよ~。」
「・・・しょうがない。ご要望にお答えするとしますか!」
「やった!テンション上がった!」
わいわいはしゃぐ少年を見て、ゆりは微笑んだ。
*
食卓は和やかに囲まれた。
他愛ない話や、テレビの内容を見て批判したり・・・
四年の月日は、三人の絆を深くし、家族のように親しくなっていた。
この平和な食卓が、ゆりにとって大切な日課になっていた。
カレーを食べ終え、買ってきたチーズケーキを切り分けて皿に移す。
食後のデザートの時間が訪れ、話題はそれぞれの『日常』の内容になった。
「おばあちゃん。最近どう?」
「そうだねぇ。ここ最近相談にくる人が増えた気がするよ。
このご時世、心にかかえるものが積もるようだね。」
俊太郎が、チーズケーキを頬張りながら言う。
「ふーん。『易者』が忙しいなんて、変な世の中だよな。」
「ああ。・・・そこでゆりに相談なんだが・・・」
ときが改まって言う。
「仕事は土日がお休みだね?ここのところ私は休めなくてねぇ。
流石に私も歳が歳だから、しんどくなってきたんだ。
そこで、ゆりに土曜日だけ私の代わりをしてくれんかと思って。」
その申し出に、ゆりは目を見開く。
「お前の『先読み』の力はもう充分通用する。
あとはその機会だけだと、私は思っているんだが・・・」
俊太郎は黙って聞いている。
ゆりはしばらく悩んだ後、口を開いた。
「・・・おばあちゃん。私やってみる。」
ときはその答えに、満足そうに頷いた。
「そうか。それじゃあ頼むよ。」
ゆりは力強く頷いた。
チーズケーキを食べ終わり、三人はそれぞれ行動を別にする。
ときは一階にある自分の部屋に戻り、俊太郎は浴室に向かう。
ゆりは食器の片付けを終えて、二階にある自分の部屋に戻った。
部屋は四年前に比べて物が増え、生活観が生まれていた。
実家に置いていた本棚を持ってきたため、まるで書斎のようである。
勉強机に向かって座り、頬杖をつく。
― ・・・おばあちゃんの代わりなんて務まるのか。
『易者』として最初の一歩。
・・・とにかく、経験する事よね。
私は私の出来る事をしよう。
*
土曜日の早朝。
ゆりはときと、ある部屋にいた。
目を閉じ、向かい合って立っている。
静寂の空間。
二人の耳には、相手の息遣いだけが届いている。
ゆりには秘密にしている事があった。
それは両親にも、兄にも、俊太郎にも誰も教えていない。
三歳の頃から、日々修練している護身術。
ときはその護身術の師範代であり、正統な継承者である。
そして、ときが中国人だという事も。
それは口外できない事実だった。
ゆりは週に一度、ときとこの部屋で手合わせをする。
この部屋は、ときの家の地下にある。
地下がある事は、勿論二人だけしか知らない。
しかし、ゆりは最近思う。
祖父は祖母の事を知った上で一緒に暮らしていたと。
息を合わせるかのように、二人はまぶたを上げた。
す、と右足が横に踏み出される。
次に左足を後ろに交差させ、歩く。
二人は一糸乱れぬ動きだった。
それはまるで踊っているかのように、綺麗な演舞。
空気でさえも、一緒に揺らいでいる錯覚が生まれる。
演舞は10分程続いた。
二人は合掌し、軽く頭を垂れる。
「・・・もう教える事はなさそうだ。」
ときは満足そうに笑顔を浮かべる。
それに対してゆりは首を横に振る。
「まだまだやね。何とか合わせる事が出来てはいるけど・・・」
「上出来だよ。修練を怠らず、頑張ってきた証拠だ。」
祖母の労いに、ゆりは小さく顔を綻ばせた。
―『易者』は、命を狙われる立場になる事があるという。
この護身術は最終手段。
これが使われる時は、命の危機だと思う。
だから・・・妥協はしたくない。
その日の昼下がり。
場所は中央区天神。
ときが、『易者』の仕事場として構えているビルの一角がある。
看板には『八卦』と書かれており、その下には『占い相談』という文字がある。
大通りから外れているが、周りはアパレル関係の店が立ち並ぶので、
今は人が沢山行き交っていた。
その仕事場の中はシンプルだった。
簡易な机に白いテーブルクロスを引き、
その上には筮竹と呼ばれる細い棒が筒に納まっていた。
壁には『八卦』を示す図像の布が貼られている。
椅子は向かい合わせるように二つ。
窓はカーテンで遮られており、明るい昼でも証明は灯されていた。
ゆりがここに来て一時間経つが、客はまだ誰一人として訪れていなかった。
ゆりは静かに椅子に座り、本を読んでいる。
ゆりが座る方の横には、スマホやバッグが置ける小さな机がある。
客側に見えないように配置されていた。
服装は、この日の為に用意した淡い紫色のワンピース。
そして眼鏡はいつもの赤縁じゃなく、銀縁である。
『易者』としての制服をゆりの中で決めていた。
こんこんこん、と入り口の方からノックの音がした。
ゆりはぴん、と背筋を伸ばし、読んでいた本を置いて立ち上がる。
「どうぞ。」
ゆりは畏まって声を発する。
その後しばらく間を置いて、がちゃん、とドアが開いた。
現れたのは男と女の二人。
「・・・やっぱり、声が若いと思ったら、ときさんじゃなかったわね。」
綺麗な顔立ちの女性が、男性に話しかける。
スーツを着た男性は、相槌を打つ。
― おばあちゃんの名前を知っているって事は・・・
常連さんかもしれない。
ゆりは、物腰柔らかく答える。
「今日から土曜日だけ、私がときの代わりをします。
役不足で申し訳ありません。帰ったら祖母に伝えておきます。
お名前を伺ってもよろしいですか?」
男女は顔を見合わせた。
そして男がゆりに尋ねる。
「君、ときさんのお孫さん?」
ゆりは頷いた。
「はい。ときは私の祖母です。私も祖母のように、易者を目指しています。
ここに座っても良いと、機会をもらいましたので・・・」
「それはすごいなぁ!」
男女は感心している。
ゆりは軽く会釈をして相槌を打つ。
「僕達、ときさんのお陰で付き合えるようになったものだから・・・
ときさんには、とても感謝しているんだよ。」
「私達それ以来相談というより、
いつも話ししに来ているようなものなのよ。」
「ときさんには、『サラリーマンの斉藤』が来たと言えば分かるよ。
今回も世間話をしにきたようなものだったから・・・それじゃあまた。」
「今度改めてあなたとお話したいわ。」
男女はお辞儀をして部屋を出て行った。
ゆりはその去っていく二人を見送る。
ふと、『先読み』の力が発動する。
― あの二人は、別の人と道を歩んでいたのか。
周囲の、渦巻いた誹謗中傷を受けながらも、
二人は一緒に歩む道を手にした。
・・・とても苦労していると思うが、幸せそうだ。
その男女が去ってしばらく経った後、二回目の来訪者が現れる。
今度はキャップ帽子をかぶった、サングラスの男。
鼻の下には髭が蓄えられている。
「ときさん、いないの?」
「はい。今度から土曜日は私が請け負う事になりました。」
「そう・・・また来るよ。」
男はそれ以上何も言わず去っていく。
ゆりは名前を聞く間もなく、その後姿を見送った。
それからというもの、何人か訪れたが
話をゆりにする事なく、去っていくばかりだった。
― 最初の、『サラリーマンの斉藤』さん以来
自分が何者か知らせてないからかも。
私を訪ねてくる人がいるか。
ときおばあちゃんの客ではなく、自分の客として。
こんこん。
ノックをする音が響く。
ゆりは少し慣れたので、余裕をもって返事をした。
「どうぞ。」
控えめにドアが開く。
ゆっくり顔を出したのは少女だった。
ゆりは学生服の紋章に目が止まる。
― 俊が通っている高校と同じ紋章。
ふと、ゆりに『先読み』が生じる。
少女は少し物怖じしながら尋ねた。
「いつものおばあさんはいないのですか?」
ゆりは、何度となく説明した台詞を口にする。
「土曜日だけ私が請け負う事になりました。
何かときに伝言があれば聞きますが・・・」
「あ・・・いいえ。別にいいんです。
この前来ましたが、何も話をせずに帰ってしまって・・・
謝れればと思いまして。」
「そうでしたか。分かりました。そう伝えておきます。」
「・・・それで・・・その・・・もし良ければ、相談してもいいですか?」
ゆりは息を整え、静かに促す。
「勿論。どうぞこちらにお座り下さい。」
少女はゆっくり椅子に腰を下ろした。
ゆりは改めてその少女を見つめた。
髪の長さはセミロングで、綺麗なストレート。
目は大きく二重で、唇が少し厚いがそれがチャームポイントだった。
― ・・・育ちが良さそう。
可愛いし、華やかさがある。
・・・このくらい、しおらしさがあったら私も少しは・・・って、
何思ってんだか。
「相談とはどのような?」
「私・・・今、とても気になっている男の子がいるんです。」
― やっぱりそうか。
「でもなかなか・・・話かけられなくて。その上に、
その男の子の雰囲気というか、何か近寄り難くて・・・」
ゆりは静かに少女を見守る。
少女は、そんなゆりの様子を窺う。
しばらくして、ゆりは口を開いた。
「あなたがなぜ、その男の子が気になるのか。
その理由を自分の胸に聞いてみてはどうでしょうか?
その理由が分かった時、
その男の子と話す事が叶う。そして親しくなる機会が生まれる。」
「・・・私が、気になる理由・・・」
少女は俯いて考える。
しばらく沈黙の時が過ぎた。
そんな少女に、ゆりは優しい眼差しを向ける。
少女は顔を上げ、表情を明るくさせた。
「・・・ありがとうございます!相談して良かった・・・
気持ちが軽くなりました!」
そう言って深くお辞儀をする。
律儀なその姿にゆりは微笑んだ。
― この子が気になる男の子とは・・・俊の事だ。世間は狭すぎる。
「あの・・・おいくらですか?」
財布を取り出した少女に驚き、
ゆりは慌てて止める。
「お金は取りません。これは相談ですから。」
「・・・ありがとうございます。」
少女は再度深く頭を垂れた。
「・・・また相談しにきてもいいですか?」
ゆりは微笑んで答える。
「はい。勿論です。私にとってあなたが最初のお客様です。
見習いなので、占いも半額で承ります。」
「・・・占い師さんのお名前聞いてもいいですか?」
ゆりはしまった、と思った。
「最初に名乗らなかった事を、深くお詫び申します。
私は佐川ゆりです。」
少女はにっこり笑って言った。
「私は本城 茜です。
今日は時間がないので、占いはまた今度お願いします。
本当にありがとうございました!」
丁寧な言葉を残し、少女―茜は立ち上がると、綺麗なお辞儀をする。
ゆりはつられるように立ち上がって、お辞儀をした。
茜は足取り軽く部屋から去っていく。
風が吹いたような感覚に見舞われ、ゆりは清清しさを感じた。
― 何だろう。不思議。
あの子だったら、俊と仲良くなってもいいと思える。
ゆりは椅子に腰を下ろした。
それからというもの、訪れる客は途絶えた。
夜になると、この通りは行き交う人が少なくなる。
ゆりはそろそろ店を閉めようと思った時だった。。
こんこん、がちゃん。
「・・・あらぁ?ときさんじゃないわねぇ。」
こちらの返答も無しに、入り口のドアが開いて女性が顔を出した。
ゆりは少し驚いたが、平静を保つ。
女性の髪は綺麗に結い上げられ、ふんわり花の様に盛られている。
服装は赤色のドレス。
高級ブランドのショルダーバッグを、綺麗にネイルした白い手で持っている。
「はい。土曜日は私が請け負う事になりました。」
女性はゆりをじっと見て、真っ赤に塗られた唇を動かす。
「そう。別にいいのよ、あなたでも。
くだらない話を聞いてほしくてここに来てるんだしぃ。
ちょっといーい?」
甘ったるく告げ、ゆりの有無を聞かず女性は椅子に座ってゆりと向かい合った。
「はい。どうぞ。」
ゆりは快諾する。
女性は、仕事で変な男に絡まれて嫌な思いをした事、
最近客が羽振り悪い事など、さまざまな話を喋っていった。
ゆりはその度相槌を打ち、聞く側に徹底した。
そうして数十分が経った後、女性は長いまつげを動かして言う。
「・・・あらやだ、こんな時間!これから出勤なのよ。
悪いわねぇ、聞いてくれて。あなたが聞き上手なんで、
思わず時間忘れちゃったわ。・・・名前何て言うの?」
名前を言う間もなく話を聞いていたゆりは、我に返ったように答える。
「失礼しました。佐川ゆりです。」
「へぇ・・・まさか、ときさんとは親戚?」
「はい。ときは私の祖母です。」
「どおりで!あなたの雰囲気、ときさんに似てるもの。
私は『アヤメ』。よろしくね。」
女性―アヤメはにっこり笑って、足早に去っていく。
ゆりは嵐が去ったかのような感覚に見舞われた。
時刻は21時を回っている。
ゆりは店じまいを始めた。
『易者』としての、初日の出来事を思い浮かべながら。
*
「ただいま~。」
ゆりは居間に直行する。
ときが温かくゆりを迎えた。
「おかえり、ゆり。今日はご苦労様だったね。
・・・どうだったかい?」
ゆりはときと向かい合うように座り、満面の笑みを浮かべた。
「勉強になった!いろんな人と話せたし・・・って言っても、
おばあちゃんのお客様がほとんどだったけど。」
「そうかそうか。それは良かった。私も一安心だよ。
実際ゆりのお客様はいたのかい?」
「・・・実は一人。女子高生なんだけどね。」
「ほうほう。良かったじゃないか。」
「うん。」
ゆりはときを訪ねてきた客の話をしていく。
『サラリーマンの斉藤』、サングラスとキャップ帽の男・・・
そして最後に現れた水商売の女性、『アヤメ』の事。
一通りゆりが話し終えると、ときは口を開いた。
「『サラリーマンの斉藤』さんは、よく訪ねてきてくれるお客様だよ。
・・・キャップ帽をかぶった男の人が来たとも言ったね。
名前は『オウル』さん。
ほら、キャップ帽に野球球団のマークが入ってたろう?
それと、『アヤメ』さん。二人とも覚えておいてくれ。
『オウル』さんと『アヤメ』さんは、『鍋島さん』と同じ世界の人間だ。」
ゆりは驚いた。
しかし、ときの言った事に納得する。
― 確かにあの二人は異質だった。
こちらを窺っている感じがして、内に秘めているものがあった。
「その世界を垣間見て、橋渡しが出来るのは・・・
私達『易者』なんだよ。その心構えを得て欲しい。」
「・・・はい。」
「心配せんでもいい。私はいつだってお前さんの味方だ。いいね?」
「・・・うん。ありがとう、おばあちゃん。」
ゆりは心から安心して微笑んだ。
― 目の前の祖母が、自分にとって信頼できる唯一の人。
それだけで自分は地に足を付けられる。
ときはうなずき、笑みを浮かべた。
「ああ、そうそう。俊太郎も心配していたよ。」
「俊太郎は部屋にいるの?」
「おかえり。」
待っていたかのように飛び込んできた低い声。
ときはにこやかにその人物を迎える。
「ゆり。俊太郎は夕飯を一緒に食べるからって待っていたんだよ。
夕飯は台所のテーブルにあるから二人で食べなさい。
さてと・・・私はもう寝るかねぇ。」
「お、おばあちゃん。もう寝るの?」
「年寄りは寝る時間が早いんだよ。ほほっ。」
ときは、微笑みながら居間を去っていった。
ゆりは居間に取り残され、動揺する。
「どうだった、今日は?」
俊太郎はゆりの元に歩いていく。
ゆりは慌てて立ち上がり、言葉を投げる。
「勉強になったよ。まだまだこれからやね。
・・・食事まだなんでしょ、待ってて。」
台所に向かおうとするゆりの腕を、俊太郎は掴んで制した。
「ゆりは座ってろよ。俺がやるから。」
俊太郎が台所に去っていき、ゆりはほう、と息をついた。
静かにちゃぶ台の所に座ると、台所の方に目を向けた。
― ・・・なに意識しているんだか。
本当に、劇的に成長した。
背は私よりずっと高いし、声ももう四年前とは違って低い。
大人の・・・男になりつつある。
ゆりは深いため息をついた。
― ・・・日増しに格好良くなっていくなぁ・・・俊のやつ。
・・・そういえばあの子。
俊にはあの子のような、可愛い子が似合うやろうなぁ。
台所から食事を盆に乗せて、俊太郎が現れる。
ゆりは身を整え、ちゃぶ台に向かって座り直した。
台の上に盆が置かれる。
―ハンバーグと野菜炒め。
そして味噌汁とご飯が白い湯気をたてていた。
それを見るなり、
ゆりはお腹が空いていた事を思い出し、釘付けになった。
「・・・美味しそう・・・お腹すごく空いてたのよ。」
「そうだろ。俺もだよ。さ、食おうぜ。」
屈託のない笑みを浮かべる俊太郎を見て、ゆりは思わず笑った。
「いただきます。」
食事の一時。
ゆりはその時間の和やかな空気に、心を落ち着かせていった。
話をしながら食事して、笑う。
これだけでゆりは充分幸せだった。
「明日さ、学校に行ってくるよ。」
「え?どうして?」
「うちは海星大学の付属高校だろ?
話によれば、毎月始めの日曜日に海星大学の教授が来て講義をするらしい。
自由参加でさ。今回気になる題目だったんで行こうと思って。」
「どんな題目なの?」
「んー?内緒。」
「・・・何それ。教えなさいよ。」
「聞いても面白くないと思うが・・・
『現代の自然科学のあり方』、っていうやつ。」
「・・・へぇ・・・すごいのね、俊は。」
「すごかないけど。」
「頑張ってね。」
「ああ。」
俊太郎は小さく笑った。
「明日早いからもう寝るよ。」
「うん。片付けはするから置いといて。」
「悪いな。・・・おやすみ、ゆり。」
俊太郎は立ち上がり、居間から静かに去っていった。
ゆりはその、成長した少年の後姿を黙って見送る。
― ・・・彼が行く道を照らせるような・・・
光になれるように、私も頑張ろう。
*
日曜日の朝。天気は快晴だった。
俊太郎は制服に身を包み、自分が通う高校に登校する。
『海星大学附属海星高等学校』。
県の一、二を争う進学高校である。
後々、海星大学の理学部に入る為にこの高校を選んだ。
白い壁に囲まれ、正門はとても立派な鉄格子が備わっている。
校舎は三年前に改築されたばかりで、綺麗だった。
俊太郎は楓の木が立ち並ぶ広い校庭を横切って、講堂を目指す。
講堂は大学側の提供の場として設けられていて、普段は開放されていない。
大きいホワイトボードがある教壇から、席が末廣上に10列ある。
席には、所々生徒が座り始めていた。
俊太郎は腕時計を見る。
時計の針は、9時45分を指していた。
講習は10時から始まり、1コマ(90分)ある。
俊太郎は窓際の、前から五番目の席に座った。
鞄を自分の隣の席に置き、ノートと筆記用具を出す。
ふと、俊太郎は視線に気づいた。
その方向に振り向くと、慌てて目をそらす女子生徒がいた。
― ・・・あいつ、確か同じクラスの奴だ。
名前は全然知らない。
俊太郎はその女子生徒を気に留めず、頬杖をつく。
しばらくすると、また視線を感じた。
ちら、と目を女子生徒に向ける。
再び女子生徒は、はっとして目を逸らした。
俊太郎は小さく息をつく。
― ・・・話しかけてみるか。
そう思っていたら、女子生徒の方が鞄を持って俊太郎の所に来た。
予想外の行動に、俊太郎は驚いた。
女子生徒の瞳は、まるで意を決したかのように強く光っている。
隣の席には鞄を置いていた為、一つ席を挟んで女子生徒は座った。
「・・・おはよう、高城君。」
声が少し震えている。
というより、上擦っている様子だった。
「・・・悪い、あんたの名前知らないんだ。」
その答えに、女子生徒は少し落胆する。
「えっと・・・本城茜です・・・」
― ・・・『ホンジョウアカネ』?
その名前に、間を置いて尋ねる。
「・・・あんたの親って、もしかしてすげぇ金持ちだったりする?」
「・・・はい。」
女子生徒はそう聞かれて、表情を輝かせた。
俊太郎はますます、いぶかしげに女子生徒を見た。
「・・・本城グループの会長、
『本城 大和』ってあんたの父親?」
女子生徒― 茜は嬉しそうに、満面の笑みを浮かべる。
「あなただったのね、やっぱり!」
「・・・嘘だろ・・・」
俊太郎は動揺を隠せなかった。
― よりによって『本城』の娘と会うなんて・・・
茜は緊張の欠片を残らず消し去って、にこにこしながら言う。
「久しぶり!見違えちゃった!」
「・・・ちょっと、あまり声を大きくするな。」
俊太郎は頭を抱える。
「・・・どうしていなくなったの?お父様がすごく探していたのよ。」
「・・・」
俊太郎は机に出した物を素早く鞄の中に入れ、席を立つ。
「あ、ちょっと、『瞬』!」
茜は慌ててその後を追う。
俊太郎は早足に講堂を出て、校庭に出る。
しばらくして、追うように茜が出てくる。
「待って!『瞬』!」
その呼び止めに、俊太郎は立ち止まる。
「・・・一体何があったの?
私、ずっとあなたの行方が気になっていたの・・・
突然いなくなるんだもん・・・」
茜は泣きそうな顔で、言葉を投げる。
「どれだけ悲しかったか分かる?」
「・・・知るかよ。お前の父親に聞け。
お前の父親が、どれだけ悪どい事してるか。
俺はそんな雇い主の元にいたくなかっただけだ。」
茜は目を開き、潤んだ瞳で俊太郎を見つめる。
「本城大和がどれだけ人の命を弄んでいるか・・・四年前だって
女子高生を無差別に・・・」
「やめて!!」
茜は悲痛な顔をする。
白い頬に、涙の筋が伝った。
「・・・とにかく、もう俺には関わらないでくれ。」
「・・・『瞬』・・・」
茜は止め処なく涙を流す。
俊太郎は怯むことはなかった。
「・・・それじゃあな。」
俊太郎は歩き出す。
茜は何か言いたそうに口を開けるが、出たのは嗚咽だった。
俊太郎がそのまま歩いて行こうとした、その時だった。
「!」
俊太郎は殺気を感じた。
しかも、それは自分に向けられていない。
急いで振り返る。
すると、茜の目の前にはすでに人影が現れていて、
その手に持つ鋭利な刃が茜の喉元に突きつけられようとしていた。
「・・・くっ!」
人影の予定は、俊太郎の行動によって覆された。
ナイフが空を切り、地面に突き刺さる。
人影は驚愕した。
俊太郎はその人影の両腕を掴み、拘束した。
「・・・おい。お前『殺し屋』だろ。なぜこの娘を狙った?」
「・・・ふ、ははは!何やねん、こいつ!お手上げやなぁ。」
人影は、わざとらしい関西弁の妙な男だった。
頬に走る一本の古傷。
俊太郎より背が低く、小柄だった。
右耳にある大黒天のピアスが印象的である。
俊太郎に腕を拘束されているにも関わらず、その男はのんびりと言った。
「今回は見逃してくれへんか?頼むわ~。茶番やったんやしぃ。」
「・・・茶番?」
「あいたたた、おおっ、そんな怖い顔せんといてや。
俺は三流の『殺し屋』なんやさかい・・・な?見逃してくれや~。」
何とも拍子抜けた言い方だった。
俊太郎はしばらく考えた後、男の腕を振り切るように離す。
男は“おお”、と感心したように唸って、俊太郎を見る。
「あんちゃん、話し分かるやないか。ええ男やし。俺とは大違いや。」
「・・・お前の名前は?」
「俺の名前か~?知りたいんか?『道頓堀』。よろしゅうな。
恩に着るわぁ。」
そう言って男は、地面に刺さったナイフを取り、懐に納める。
道頓堀はへこへこ頭を下げながらきびすを返す。
「・・・あ、そうや。」
しかし何か思い出したかのように、振り返って言葉を投げた。
「今夜改めて窺うわ~。そうやなぁ、夜の7時頃がええやろ。
今度は本番やから、心しといてや~。ほなな~」
まるで友人のように去っていく。
その足の運びと、隙のない気構えに、俊太郎はその姿が消えるまで目を離さなかった。
茜は腰を抜かして座り込んでいた。
俊太郎は茜に目を向ける。
「・・・怪我はないか?」
「・・・うん・・・ありがとう。」
俊太郎は手を差し伸べる。
茜はその手を理解し、頬を赤く染めながらその手を取った。
茜はふらつきながらも立ち上がった。
「・・・あいつ、今夜また来ると言いやがった。
本番って事は・・・お前の親父が目的か?」
茜は俯き、悲哀に満ちた表情を浮かべる。
「・・・『瞬』、ごめんなさい・・・巻き込んじゃって。
助けてくれてありがとう・・・」
茜は重い足取りで歩いていく。
俊太郎はその後姿を見て、迷った。
茜の境遇を知っていた。
どんな父親でも、彼女に頼れるものはその父親しかいない事を。
「・・・茜。」
呼び掛けられ、茜は立ち止まる。
俊太郎は低い声で告げた。
「・・・久しぶりにお前ん家にお邪魔するよ。」
その一言は、少女を振り返させた。
そしてその瞳の奥に輝く光。
俊太郎はその光を見逃さなかった。
*
ゆりが目を覚ました頃には、もう俊太郎の姿はなかった。
時計を見ると、10時を回っている。
眠気を吹き飛ばすように頭を振り、一階へ降りる。
居間を通り抜け、台所にある冷蔵庫からオレンジジュースを取った。
― 一人で迎える日曜日は久しぶりやなぁ・・・
いつも誰かが居間にいるけど・・・
今日は、妙に静か。
ゆりは、グラスに注いだオレンジジュースを飲み干すと、
再び自分の部屋に向かう。
階段を上がると、微かに音が聞こえた。
― スマホの着信音だ。
ゆりは部屋の障子を開け、机の上に置いてあったスマホの元に歩いていく。
ふと、言い様のない不安に駆られた。
スマホを取り、画面表示を見る。
― ・・・俊太郎?
今講習の時間では?
そう思った瞬間に、『先読み』が発動してしまう。
指が震えるのを必死で抑えながら、画面をスワイプさせた。
「・・・どうしたの?」
ゆりはそう応えるしかできなかった。
しばらく応答が返ってこなかった。
その無言の時間が、異様に長く感じた。
《・・・ゆり。ごめん。》
俊太郎の声は、とても真面目だった。
「・・・何謝ってんのよ。」
《・・・・・・》
会話が続かないのが、ゆりにとってとても苦しかった。
《・・・ちょっと出掛けてくる。過去の清算をしないといけないんだ。
必ず、帰るから。待っててくれ。》
「・・・・・・」
平常心では、とてもいられなくて眩暈がした。
身体中の力をかき集めて言葉を紡ぐ。
「・・・必ず、戻ってくるんやね?」
こんな事を言いたいわけじゃなかった。
もっと、別の言葉を言いたかった。
― ・・・行かないで!
心はそう叫んでいた。
しかし、出てきた言葉は違っていた。
「・・・分かった。待ってる。」
― 違う!
何言ってんのよ私は!
ゆりの耳に、小さく息を漏らす音が届く。
《・・・ありがとう、ゆり。帰ってきてから全部話すから。
それじゃあ、行ってくる。》
― 待って、待って俊!
「・・・うん。じゃあね。」
ぷつん。
通話が切れる。
ゆりはその場に、崩れるように座り込む。
しばらく放心状態だった。
言葉に表せない喪失感が、ゆりを襲った。
「・・・俊太郎・・・」
ゆりは泣き崩れる。
― 止められたはずなのに!
・・・できなかったのは・・・
俊太郎が、その道を強く望んだという事。
この事象を、受け入れたいという意思の表れ。
ゆりは無理矢理涙を拭って、力を振り絞るように立ち上がった。
― こうしてはいられない。
ひとまずおばあちゃんの所に行かなくちゃ・・・
ゆりは身支度を始めた。
― このまま何もしなかったら、俊太郎は戻ってこない気がする。
・・・待つなんてできない。
ゆりはすぐに部屋を出る。
逸る気持ちを抑え、家を後にした。
*
― ゆり、やせ我慢してたな・・・
俊太郎は通話を切った後、そう思った。
― ゆりの『力』を考えると、この事象は把握していたと思う。
・・・それをあえて、止めなかった。
俺の意思を尊重してくれている証拠。
・・・すまない、ゆり。
「・・・『瞬』の、彼女?」
茜が問いかける。
今俊太郎と茜は、車の中にいた。
車は、いつも茜の登校と下校に使われているものである。
初老の運転手が、二人を乗せて本城家に向けて走らせていた。
茜の問いに、俊太郎は首を横に振る。
「『彼女』なんて恐れ多い。俺の命の恩人だ。」
「・・・そう。」
答えを聞いて、茜は押し黙った。
複雑な表情を浮かべ、車窓に目を向ける。
俊太郎も車窓に目を向け、思いふける。
― ・・・あの『殺し屋』。
『道頓堀』とかいう、ふざけた奴。
俺は『あちら側』にいて長かったが、初めて聞く名前だ。
・・・調べてみるか。
俊太郎は再びスマホを取を取り出し、電話をかける。
茜はそれに気づき、目線は車窓に向けたままその様子を窺う。
「・・・もしもし。ご無沙汰してたな。今学生やってるもんで。
あんたに調べてもらいたい奴がいる。
・・・ああ。『あちら側』の人間の奴だ。」
しばらく話した後、通話を切ってスマホを制服のポケットに直す。
それから車内は静寂に包まれた。
数十分経った後、車はある壮大な屋敷の敷地内に入る。
俊太郎はその、立派な屋敷を見て懐かしく思った。
― ・・・またここに来るとはな。
車はガレージに入り、上品な音を立てて停車した。
初老の運転手が車を降り、茜が座る後部のドアを開ける。
茜は車を降りた。
俊太郎はそれと同時に、反対側から車を降りた。
二人は迷いなくガレージを抜けて、歩いていく。
すると、手入れの行き届いた庭園が現れる。
紫陽花や菖蒲が咲き誇る、その庭園の先には白く大きな洋館が聳え立つ。
その屋敷全体の外観を見渡す俊太郎。
そんな俊太郎に、茜は微笑んで告げる。
「ねぇ、あの時の木の苗覚えてる?とても大きくなったのよ。
・・・見てくれない?」
俊太郎は返答しなかった。
しかし、歩き出したその足が追憶の場所に向いている事に、茜は気づいた。
俊太郎の後を追うように、茜も歩き出す。
俊太郎はある場所にたどり着くと、その根付いている木を見上げる。
たっぷりと若葉を付けて、生気に満ちていた。
風に揺れる度、強くしなやかに踊る。
俊太郎は表情を和らげ、その姿を見つめた。
茜はそっと俊太郎の横に立つ。
「・・・すごいでしょ?」
「・・・ああ。ほんと、大きくなったな・・・」
しばらく無言の時間が過ぎる。
茜は幸せだった。
先程の凍てつくような俊太郎の様子が和らいでいる事に、安心した。
茜はこの時間の中にいたかった。
会いたいと、願った人が今ここにいる。
「・・・茜。」
俊太郎が茜の方を見ていた。
茜は疑問に思って首をかしげる。
なぜ彼が自分の方を見ているのか。
少女は自分の頬に伝うものに気づいた。
それに触れると、指先が濡れる。
無意識に、茜は泣いていた。
ようやく叶ったこの空間を手にして、茜は心底から感動していた。
「あ・・・ごめんなさい。とても嬉しいの。
あなたがここに、こうしているのがとても・・・」
「・・・・・・」
少年の表情に、陰りの色が浮かぶ。
茜は慌てて涙を拭う。
「ごめんね。本当はあなたがここに来たくないって事は分かっているの。」
「・・・俺も今気づいた事がある。」
俊太郎は、ふっ、と優しい笑みを浮かべた。
「俺も嬉しいみたいだ。茜に再会出来たことが。
・・・ごめんな。急にいなくなって。」
茜は目を見開く。
その驚愕の光はまっすぐに、俊太郎に伝わる。
「俺こそ謝らなければならない。お前を一人にして。
・・・本当に悪かった。ごめんな、茜。」
「・・・う・・・うぅ」
茜の目から沢山溢れる涙。
その場にしゃがみ、泣き崩れた。
両手で顔を覆い、泣きじゃくる。
俊太郎は黙って、その泣き崩れる茜と同じくしゃがむ。
大きな手が、茜の頭に乗る。
「・・・あの時もさ、お前こうやって泣いてた事あったよなぁ。
ほんと泣き虫でさ。・・・あの時から全然成長してねぇなぁ。」
茜はうんうんと、頷いている。
言葉が出ないくらいに、嗚咽を繰り返していた。
俊太郎はぽんぽんと、茜の頭を軽く叩く。
「いつも、俺がこうしてなだめてたよなぁ。ったく世話の焼けるって。
・・・もうお前もいい歳になったんだし、
自分の足で立ち上がらないとな。自分の意思で、歩くんだ。」
「・・じ・・じぶんの・・意思?」
「そう。俺の恩人は滅法意思が強い。
初めて会った時はまだ7歳だったのに、俺は諭されたんだ。
四年前再会した時、またさらに磨きがかかったように成長してた。
俺は本当にすごいと思った。・・・俺はその人よりも長く生きているのに、
何の成長もしていない事に気づかされた。」
茜はいつの間にか顔を上げ、俊太郎を見ている。
まだ、ぐすっと、鼻をすすっていたが、泣くのを止めていた。
「・・・この木が大きくなれたのは太陽の光や、土の養分、水、
そして・・・俺とお前の思いがあってここまで成長した。」
二人はその木を見上げる。
その木はそんな二人を優しく見守っているように見えた。
「この木の苗はお前のお母さんの思いも籠ってるだろ?」
「・・・うん。」
嗚咽の止まった茜は、言葉を静かに紡ぐ。
「お母様が大切にしていた木の苗・・・無駄にしたくなくて。
お母様が亡くなられてからよ。お父様が変わられたのは。」
俊太郎は深く頷いた。
「俺達がここに植えなければ、この木は生きられなかった。
この場所、この環境、
お前の見守る気持ちがなければこの姿にはならなかった。
生きる為に、必要なもの。それに気づいた時、人は大きく成長する。
・・・生きる為には前を見て歩かないといけない。
現実を見据える。・・・俺はその為にここにいる。」
俊太郎は茜をまっすぐに見つめた。
「茜。お前も現実を見据えろ。今何が起こっているのか・・・
よく考えろ。」
その真摯な眼差しを、茜は受け止める。
茜の瞳に灯る光。
その光は、とても力強く輝いていた。
その瞳を見て、俊太郎は小さく笑った。
二人は立ち上がり、屋敷の方を見る。
「・・・まずはお前の親父さんに挨拶しないとな。」
二人は歩き出す。
その表情に、迷いの色はなかった。
*
ゆりがときのいる仕事場に行った時には、昼1時を過ぎていた。
「おばあちゃん・・・」
「・・・おお、ゆり。来たね。」
ときは、まるでゆりが来るのを待っていたかのような口調だった。
明らかに動揺している孫を、ときは静かに迎える。
「あのね・・・俊が・・・」
「・・・ああ。」
祖母を見つめ、ゆりは涙を浮かべる。
「おばあちゃん・・・私、このまま黙って待てない。」
「そう。この件は、お前次第で俊の行く末が決まるようなもの。
全力で支えになろう。」
「・・・ありがとう・・・おばあちゃん・・・」
ゆりは零れた涙を拭う。
ときは優しく微笑んだ後、告げる。
「もうすでに、私の方で手を打っている。
このビルの二階に喫茶店があるのを知っているね?
・・・今はカフェというのかね。
『SHALLYA』というお店だ。そこに鍋島さんがいる。」
その名前を聞いて、ゆりは目を見開く。
「もうじきしたら『オウル』さんと『アヤメ』さんもその店に来る。
揃ったところで話し合いなさい。いいね?」
― 本当に、おばあちゃんがとてつもなく大きく感じる。
偉大な祖母を改めて尊敬し、ゆりは頷いた。
仕事場を出て二階に向かうと、
『SHALLYA』という看板が目に飛び込んでくる。
店構えはレトロな雰囲気で、落ち着いた印象を受ける。
ゆりはためらいなく店のドアを開けた。
席に座る客は少なく、控えめにピアノ曲が流れている。
「いらっしゃいませ。」
ウェイターが上品に頭を垂れ、落ち着いた声で言う。
「どうぞお好きな席にお座りください。」
ゆりは小さく会釈し、店の中を見渡す。
よく知っている顔を見つけ、その人がいる席に向かった。
「鍋島さん。」
呼び掛けに反応し、その中年の男は視線をゆりに向けた。
「ああ、ゆりちゃん。」
鍋島は、ゆりを自分の向かいの席に促した。
ウェイターが冷水の入ったグラスをゆりの前に置く。
「あ、あの。アイスコーヒーください。」
「かしこまりました。」
ウェイターが静かに去っていくのを見届けて、ゆりは鍋島を見据える。
「ときさんから依頼を受けているよ。
聞きたい事があったら何でも言ってくれ。」
「・・・はい。」
ウェイターがアイスコーヒーの入ったグラスをトレーに乗せて持ってくる。
「お待たせ致しました。」
早々と席にアイスコーヒーを置いて、ウェイターは去っていく。
二人の雰囲気を悟った様子だった。
「・・・で、聞きたい事は?」
「『瞬』が『護り屋』をしていた時の事を聞きたいのですが・・・」
ゆりの尋ねに、鍋島は間を置いて答えた。
「今から話す事は、一度しか言わないからね。
聞き返すことも、質問も受けない。それが条件だ。いいね?」
「はい。有難うございます。」
ゆりの目には、強い光が灯っていた。
それは、命そのものが彼女の目に表れていたのかもしれない。
一人の、かけがえのない人間の為に。
To be continued・・・
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