悲痛の雨
第二話目です。
ゆりの祖母・ときの家で暮らすことになった、ゆりと『瞬』。
生活を共にしていく内に、二人の間に生まれる彩りとは?
2
土砂降りの雨が降っていた。
今はホームルームで、担任が話をしている。
教室の窓際の席に座る少女は、雨模様の外を見つめながら思いふけっている。
赤い縁の眼鏡をかけ、茶髪は肩くらいの長さ。
彼女から、『文学少女』の欠片は見当たらない。
― ・・・こんな雨の日だったっけ。
まだ小さい頃、買ってもらった赤い傘を差したくて外に出たような。
あてもなく散歩をしたような。
それからどうしたのか、憶えてない。
・・・私その後どうしたんだっけ・・・?
キーンコーン、カーンコーン・・・
ホームルーム終了のチャイムが響く。
少女―ゆりは鞄に、机の中にあった教科書や筆記用具を入れると、
早々に教室から出て行った。
今日から一週間図書委員は非番である。
下駄箱に向かい、上履きを履きかえると、傘立てにあった自分の傘を取る。
校舎の出入り口に歩いていくと、外の様子を窺う。
雨は止みそうにない。
空は灰色で、夕方5時だというのに暗かった。
ゆりは傘を差すと、校門に向かって歩いていく。
傘は半透明で、雨粒と灰色の空が透けて見える。
― ・・・何か気になるな・・・
どうしたんだっけ・・・
ゆりはふと傘を見つめる。
― ・・・あれ?
ゆりは立ち止まる。
― ・・・そうだ。
赤い傘。
・・・私赤い傘どうしたんだっけ?
ゆりは歩き出す。
― ・・・無くしたままだったの忘れてた。
何で今まで忘れていたんやろう。
雨が落ちた波動が傘に伝わる。
それを感じながら、帰路についた。
*
「ただいま~。」
そう言って、ゆりは玄関に靴を脱いで家に上がる。
廊下を歩いていき、居間へ向かう。
「おかえり~。」
とある少年の声。
ゆりはその声で現実に戻された。
ためらいながら居間に行くと、その声の主はテレビを見ている。
ちゃぶ台に肘を付き、頬杖してくつろいでいた。
「・・・おばあちゃんは?」
家の主が見当たらないのに気づき、ゆりは少年―『瞬』に尋ねた。
テレビに釘付けのまま、『瞬』は答える。
「どっか出かけてるよ。」
「・・・そう。」
― ・・・もしかしたら急用かな。
おばあちゃんの『易者』としての力は、『その社会』では有名と聞いた。
テレビで放映されている番組は料理番組で、ちょうどフライパンで
野菜を炒めているところだった。じゅーっ、と良い音が響く。
『瞬』が顔をようやくゆりに向けた。
「なぁ、お腹空いたんだけど・・・何か作ってくれないか?」
少年の素直な要望に、ゆりは心の何かをくすぐられた。
それを抑えつつ、言葉をかける。
「・・・あんたさ・・・ここに来てからずっとそんな感じよね。」
『瞬』は同意するように頷く。
「そうなんだよ。力使ってないからかな・・・
このまま食べ続けたら成長できるのかな・・・なぁ、頼む。」
二度の要求に、抑えていたものが抑えきれず、ゆりはふぅ、と息をつく。
「・・・何が食べたいんよ?」
「カレー!・・・と言いたいところだが・・・
なにか簡単なものを頼む。今すぐ食べたい。」
「しょうがないわね・・・チャーハンならすぐできるよ。」
それを聞いて、『瞬』は瞳を輝かせていく。
ゆりはそんな少年をまともに見ず、慌てて台所へ逃げていった。
― ・・・お母さんの気持ちってこんな感じ?
動揺を振り払うように、ゆりは台所の食器棚にあるエプロンを取った。
ガスコンロ下にある開きからフライパンを取り出す。
― あいつがここに来て一週間が過ぎた。
冷蔵庫にあるハムと卵、たまねぎを取り、まな板を引く。
― ・・・ここで暮らしている彼は、本当に普通の子どもみたい。
口調は大人っぽいけど・・・
確かに、あの事件の時の彼は妙な包容力というか・・・
頼っていいと思わせる安心感があった。
包丁で食材を切り、電子ジャーに保温してあったご飯をボールに入れる。
― 彼の『力』って何だろう?
フライパンを温め、油を引き、食材を入れる。
じゅーっと、音が響いた。
塩コショウと、隠し味に白出汁を入れて炒める。
― オカルト的に言えば、生きた幽霊・・・?
現実的に言えば、瞬間移動できて透明人間になれる・・・?
何かどちらもピンとこない。
卵を溶き、それをボールに入れていたご飯の中に入れて混ぜる。
卵に絡まったご飯をフライパンに入れ、炒める。
― ・・・もし、成長できたとして、
『彼』はどんな姿になるのか?
・・・ちょっと・・・それは別にどーでもよくない?。
チャーハンが出来上がり、フライパンから深皿に移す。
ゆりはお盆にそれを乗せ、
水の入ったグラスとスプーンを一緒に乗せて居間に行く。
ゆりが現れた瞬間、猫のようにぴんっと顔を向ける『瞬』。
その仕草と表情を見た途端、
ゆりは心で感じた先程の何かが押し寄せてきた。
なるべく『瞬』と目を合わせないように、
ゆりはちゃぶ台にお盆を置いて座る。
「・・・お、美味しいかどうか分からんよ。」
「いや、確実に美味いと思う!」
待ちきれない様子で、
『瞬』はチャーハンに釘付けになりながらスプーンを持った。
「いただきます!」
声上げてチャーハンをすくい、口に運ぶ少年をゆりは見守る。
― ・・・『お母さん』ってこんな気持ちやろうか?
再び同じ事を思うゆり。
『瞬』は見事なスピードでチャーハンを平らげると、
水を一気に飲み干した。
「・・・美味い!こんな美味いチャーハン初めてだ。」
少年の絶賛に、ゆりはどう言葉を返せばいいか戸惑いながら言う。
「・・・お、おおげさやね・・・」
「美味かった。ありがとう、ゆり。生き返ったよ。」
「・・・ちょっと、その呼び捨てやめてくんない?」
「俺の方が年上だ。」
「・・・いや、そういうのって、年とか関係ないと思うけど・・・」
トゥルルル・・・
居間にある固定電話が鳴り出す。
ゆりは立ち上がり、電話の所へ向かうと受話器を取る。
「はい、佐川です。」
《ああ、ゆりかい?私だよ。》
「おばあちゃん?・・・どうしたの?」
ときの一声で、ゆりの『先読み』の力が発動する。
― ・・・え?嘘でしょ?
《今晩、ちょっと鍋島さんのお呼ばれで遅くなるから、
適当に夕飯を『瞬』と済ませておくれ。
・・・もしかしたら泊まってくるかもしれんのでよろしくね。》
「・・・・・・」
『ほほっ。青春だねぇ。』
「は?ちょ、何それ、おばあちゃ・・・」
ツー、ツー・・・
ゆりは放心気味で受話器を置いた。
『瞬』は黙ってその様子を見ている。
心を決めたように深呼吸をすると、ゆりは『瞬』の方を向いた。
「おばあちゃん帰りが遅くなるって。
二人で夕飯済ませておいてくれって言ってた。
冷蔵庫に食材がないから買い物行ってくる。」
『瞬』はそれを聞いて、立ち上がる。
「俺も行っていいか?」
「え?」
「退屈だし・・・ちょっと買い物してみたいなって思ってさ。」
その申し出に、ゆりは戸惑う。
「・・・な、何も面白いことないけど。」
「楽しいよ。俺、買い物いったことないし。」
「行ったことないの?!」
「だってこの力を使い出してすぐにお腹空かなくなったし。
『護り屋』してた時だって、買い物行かずに済んだし。」
「・・・」
― ・・・育った環境、特殊過ぎるでしょ・・・
申し出を断る理由も見つからなかった。
「出かける用意するから、ちょっと待ってて。」
「ああ。」
― ・・・彼が『力』を手にしたきっかけが、そこにあるのかもしれない。
*
ときの家から徒歩5分の所に、小さなスーパーがある。
時刻は夜7時を回っている。
ゆりはそのスーパーのカゴを取り、中へ入った。
「へぇーっ。すげぇ~っ。」
『瞬』はその後に続き、物珍しそうにスーパーの中を見回している。
ゆりは高揚している『瞬』に尋ねた。
「・・・何か食べたいものある?」
目を輝かせながら少年は答える。
「カレーがいい。」
「またぁ?・・・それしか知らないの?」
「毎日カレーがいい。」
「・・・ほんとに好きなんやね・・・」
呆れ気味に、ゆりは野菜売場に向かう。
人参を手に取り選びながら、ゆりはふと『瞬』を見る。
少年の視線は、ある家族に向いていた。
母親と子ども二人。
子ども二人は兄妹だった。母親の横で遊んでいる。
『瞬』の表情に、陰りが見えた。
その陰りを、ゆりは見逃さなかった。
「・・・ねぇ。あんたって兄弟はいるの?」
その質問に、『瞬』は振り向く。
表情から陰りは消えて、小さく笑う。
「・・・妹が一人いたよ。」
そう言って、ゆりの元を離れて精肉売場に歩いていく。
― ・・・過去形って事は・・・
もうこの世にいないのか。
「おい、ゆり!すげぇこの肉!これをカレーに入れてくれよ!」
『瞬』がショーケースを指差して、声を上げる。
ゆりは『瞬』の元へ行くと、その指差した方向を見た。
「・・・ちょっと!これ黒毛和牛の牛ヒレ肉やん!
カレーに入れる肉じゃないし!」
「駄目か・・・」
がっかりして、肩をすくめる少年。
その姿に、胸を痛める少女。
「・・・こ、こっちで充分高級やから!これにしてあげるから!」
ゆりはすかさず、
近くにあった牛肉の角切りが入ったパックを取って『瞬』に見せる。
落ち込んでいた少年は、それを見て表情を明るくする。
「やった~!」
手放しで喜ぶ『瞬』。
その二人の光景を見ていた周りの主婦が、くすくす笑っている。
ゆりは顔を赤らめて、『瞬』の手を取るとその場を去る。
「どうしたんだ、ゆり?」
「もう、恥ずかし過ぎる・・・」
― きっと、貧乏な姉弟だと思われた・・・
『瞬』の手を引いたまま、ゆりはカレー粉売り場に向かった。
― ・・・あれ?
なんかこいつの手・・・温かい。
ゆりは、はっとして『瞬』の手を放す。
それを気にすることなく、
『瞬』は沢山の種類があるカレー粉に目を向けている。
「俺これがいい。」
気を取り直し、ゆりはカレー粉に目を向けた。
『瞬』が取ったカレー粉を受け取る。
「・・・カレーの材料は揃ったから・・・何かお菓子でも買おうかな。」
「お菓子?」
楽しそうに響く少年の声に、ゆりは慌てて言った。
「た、高いお菓子は駄目だからね!」
「分かってるって~。」
素晴らしい早さでお菓子売り場に走っていく少年を、
ゆりはため息をついて見送る。
その後ろ姿を見送った瞬間、ゆりの脳裏に映像が飛び込んでくる。
― ・・・!
息を整える。
― ・・・私の『先読み』が・・・通用する。
ゆりは確かめるように、飛び込んできた映像を頭に浮かべた。
*
「いい時代だよな。何でもあるし。」
家に戻ってきた『瞬』は、意気揚々と言う。
あまりにも『瞬』が生き生きしているので、ゆりは笑わずにはいられなかった。
笑ったゆりを見て、『瞬』は微笑む。
「やっと笑顔を見せてくれた。会ってから見てなかったし・・・
やっぱりゆりの笑った顔は最高だ。何も変わってない。」
その発言に、ゆりは一瞬止まる。
次にはみるみる顔が赤く染まっていく。
「な、によ。その意味深な発言。」
『瞬』はにこっ、と笑う。
「言っただろ?一回会った事あるって。
・・・ゆりは忘れてるだろうけど。」
ゆりはぐ、と言葉を飲み込み、台所へ行く。
それを『瞬』は黙って見送った。
どん、とテーブルの上に、
スーパーで買った食材が入ったビニール袋を置き、エプロンを着ける。
― ・・・思い出せたらいいのに。
ゆりは焦燥感に襲われていた。
― 『瞬』と、どこでどうやって出会ったのか。話したのか。
・・・全く思い出せない。
何で思い出せないのよ?
しばらくの間、ゆりは立ち尽くしていた。
ふと、テーブルに置いたビニール袋に目を向けると、
現実に引き戻されたのか食材を取り出していく。
包丁を取り、まな板を引く。
ゆりは半分放心状態で食材を取る。
「・・・いっ・・・」
包丁の刃が、左薬指を少しかすめる。
痛みを感じ、テーブルの上にあったティッシュを取って傷口をふさぐ。
ゆりは、薬箱がある居間に向かう。
「・・・どうした?」
その様子を察して、『瞬』が尋ねる。
「・・・何でもない。」
ゆりは薬箱から絆創膏を取ると、左薬指の傷口に貼った。
「・・・指を切っただけ。」
ぽつりと言い残して、再び台所に向かおうとする。
「すまない。気を悪くしたのなら謝る。」
『瞬』が声をかける。
「・・・・・・」
ゆりは何も言い返さず、そのまま台所へ歩いていった。
*
テレビの音が、居間を支配していた。
ゆりは何も話さず黙々とカレーを食べている。
『瞬』はそんなゆりの様子を察してか、
食べる勢いを抑えてテレビを見る。
静かに互いが晩餐を終える。
ゆりは食器を台所に持っていき、黙々と食器を洗う。
それが終わると、ゆりは居間に戻った。
テレビの液晶は、何も映していない。
ゆりは『瞬』と向かい合わせて座る。
「・・・ねぇ。こんなに思い出せないのって、おかしいと思わない?
いくら私が小さかったとはいっても、少しは思い出すはずでしょ。」
「・・・」
ゆりはまっすぐ『瞬』を見つめる。
「私と会った事あるなんて、嘘なんじゃないの?」
「嘘はついていない。」
「妹がいるって言ってたよね?」
「・・・・・・」
『瞬』はうつむく。
前髪が、少年の目を隠すように垂れた。
ゆりは続けるように言葉を出す。
「あんたの妹は今どうしてるの?」
「・・・・・・」
沈黙が居間の空間にのしかかる。
無言でうつむく少年を、ゆりは黙って見据えた。
しばらくの間を置いて、うつむいていた少年は顔を上げた。
その表情に浮かぶ色は、深く濃い。
「俺の妹は、親にネグレクトされて死んだ。」
ゆりは心を冷やす。
『瞬』の表情には、憎悪が入り混じっていたからだ。
「俺が10歳になった頃から始まった。
父親は仕事が上手くいかずリストラされたらしく、
いつも酒を飲み、俺達兄妹を暴力してストレス発散するようになった。
・・・そうなる前からも少し暴力はあったが、ひどくはなかった。
母親は母親で父親に逆らえずに見ているだけだった。
逆らうと自分が暴力を受けるからだ。
俺達は学校にも行けず、家に監禁された状態になった。
経済的にも苦しかったらしく、俺達はろくに食べ物も口にできなかった。
妹は栄養失調に陥ってしまい、俺は必死で両親に助けを求めた。
・・・けど、それが世間に知られるのが怖かったのか、
両親は俺達を庭にあった物置に閉じ込めた。」
『瞬』は、す、と立ち上がり、ゆりに向かって両腕を伸ばす。
気づいた時には避けきれず、ゆりはそのまま畳の上に倒れ込んだ。
押し倒された格好になり、
ゆりは虚をつかれて『瞬』を見つめるしかなかった。
突き刺すような、少年のまなざし。
しばらく見つめ合う二人。
ゆりの頬に何か落ちる。
水滴のような、冷たいもの。
ゆりは、少年が泣いているのに気づいた。
「・・・俺達は生まれてはいけなかったのか?」
一回嗚咽し、少年は言葉をこぼす。
「妹は・・・妹は両親にネグレクトされても、両親が好きだった。
最期まで両親を信じていた。
・・・俺はどうしたらいいか分からない。
俺は両親を殺したいくらい恨んでいるのに、妹がそれを許さない。
・・・この『力』は何の為にあるんだ?」
悲痛の雨が降る。
ゆりはただ、その雨に打たれるしかなかった。
少年は少女から離れる。
座り込んで、静かに涙を流している。
少女は起き上がり、その泣いている少年の後ろ姿を見つめる。
その後ろ姿は、とても弱々しくて小さい。
少女はたまらなくなった。
震える両腕で、そっと少年を後ろから包み込んだ。
次第に、ぎゅう、とその抱き締める力を強くする。
「・・・・・・」
『瞬』は何も言葉を発しはしなかった。
言葉を交わさず、しばらくそのままの形で時間が流れた。
がたん。
屋根の方から響く音が二人の耳に届く。
その音で、今の状況に気づいた。
夢から覚めるように、少女は少年から離れた。
ゆりは激しく鳴り止まない動悸を抑えるのに必死だった。
『瞬』も慌てて涙を拭う。
二人は気まずい空気を感じた。
― ・・・私・・・何してるんやろう!
「・・・さてと・・・お風呂入るかな。」
『瞬』がそう言って立ち上がる。
「・・・お、お先にどうぞ。」
ゆりは、その受け答えするので精一杯だった。
「ああ、それじゃあお言葉に甘えて・・・」
逃げるように居間を去っていく『瞬』。
ゆりはやっと呼吸ができるかのように、はぁっ、と大きくため息をついた。
*
それから互いに顔を合わす事なく、それぞれの部屋に戻っていた。
ときの家は二階建てで、
一階は居間と台所、風呂場にトイレ、そして仏間とときの部屋がある。
二階には納戸と和室が二部屋あり、
今ゆりと『瞬』が和室を一部屋ずつ使っている。
風呂に入ってさっぱりした後、落ち着きを取り戻したゆりは、
赤縁の眼鏡を机に置いて、ベッドで寝転がって考え込んでいた。
― ・・・冷静になって思ったけど・・・
あいつ、「嘘はついていない」。って言ってたよね・・・
・・・じゃあ・・・なんで?
何で私思い出せないわけ?
ゆりのいる和室は、ときの家に泊まった時にいつも使う部屋で、
簡易ベッドと机だけ置かれている。
『瞬』がいる部屋は、生前ゆりの祖父が使っていた部屋だった。
ちらっと、机の上にあった置時計に目を向ける。
時計の針は10時30分を指していた。
気だるそうに起き上がり、机に置いていた眼鏡を取ってかけると、
襖を開けて部屋を出る。
階段をおりていき、廊下を歩いていく。
居間を通り抜けて、台所の冷蔵庫に向かった。
冷蔵庫を開け、紙パックのオレンジジュースを取る。
食器棚にあったグラスを取り出し、オレンジジュースを注ぐ。
それを一気に飲み干した。
冷たい、柑橘の液体がゆりの身体を鎮火させていく。
ふぅ、と息をつき、ゆりは居間に戻った。
すると、そこに『瞬』が立っていた。
これにはゆりは非常に驚愕した。
「まっ、まだ起きてたん?」
「・・・・・・」
『瞬』はゆりを見据えている。
ただ見つめてくる少年に、ゆりは戸惑いを隠せなかった。
間を置いて、『瞬』は話を切り出した。
「・・・俺はここを出て行くよ。
俺がここにいたって、何もいい事ないだろ?」
「え?・・・ちょっ・・・と・・・」
その言い分に、ゆりは憤りを感じた。
「なに勝手な事言ってんのよ!!行くあてもないくせに!!」
「・・・・・・」
「添い寝でも何でもしてやるから・・・ここにいなさいよ。
出て行くなんて、今度言ったら殴るけんね!」
ゆりの剣幕に、『瞬』は驚いて言葉を紡ぐ。
「・・・いいのか?ここにいても・・・」
「『いいのか』、じゃないやろうもん!」
少女は、目の前にいる少年が去っていくのが耐えられなかった。
あれだけの悲痛の雨を浴びて、このまま放っておく事はできなかった。
気づけば涙を流していた。
少女自身、涙が溢れるのがよく分からなかった。
そんな少女の姿を見て、少年は、ふっと和んで微笑んだ。
「・・・ありがとう、ゆり。」
― 彼は孤独だ。
だから助けなければ。
このまま見放してはおけない。
「・・・俺の為に涙を流してくれる。ゆりはあの時と変わらないな。」
『瞬』はそう言って、ゆりの手を取った。
はっとした瞬間、居間から、ゆりの部屋に移動していた。
これにまたゆりは憤った。
「『力』使ったら駄目やん!何やってんのよ!
たかが居間から部屋に移動するだけなのに・・・」
ゆりは何かに気づく。
『瞬』の表情だった。
今までにない、少年が浮かべた色。
その色を目にした時、少女の胸の奥に痛みが差し込む。
『瞬』はゆりに歩み寄る。
ゆりは一定の距離を保つように、後退りする。
とん、と壁まで下がった。
後がないのに気づき、ずるずるとゆりはその場にへたり込む。
『瞬』は手を伸ばし、ゆりの赤縁の眼鏡を、す、と取る。
『瞬』は、頬に伝っていたゆりの涙を指でそっと拭った。
少年の雰囲気に、少女はただ身体を固まらせ、
少年を見つめるしかできなかった。
「・・・さっき、添い寝でも何でもしてくれるって言ったよな。」
「・・・いっ、言ったけど・・・」
「んじゃあさ。一緒に寝よう。」
「えっ?」
その申し出に、ゆりは大きく動揺する。
「添い寝。してくれるんだろ?」
「いや、その・・・」
「・・・まさか、でまかせ言ったとかじゃないよな?」
ゆりは慌てて首を横に振る。
『瞬』は、ふふっと笑った。
「襲わないから。ほら俺って子どもだし。」
「・・・いや、そ、そういう問題やないし。」
「子どもだから、ただ人のぬくもりを感じて寝たいだけ。
ほら、あれだよ。甘えたい年頃。」
― ・・・甘えたい年頃って何よ!
ゆりは精一杯の抗議を心の中で叫ぶ。
『瞬』がゆりの手を引き、立たせる。
「ほら。もう寝る時間だろ?早く寝よう。」
「・・・・・」
― ・・・何なのよ、もう!
ゆりは、半ばやけくそ気味でベッドに行く。
それを見届けて、『瞬』は部屋の照明を消した。
激しく鳴る鼓動と闘いながら、ゆりはベッドの掛け布団を被り、
『瞬』から背中を向けるように横向きに寝転がる。
そのゆりの隣に『瞬』は入り込み、互いに背を向けるように寝転がった。
「・・・」
「・・・」
「・・・おやすみ、ゆり。」
「・・・おやすみ。」
「・・・ありがとう。」
「・・・・・・」
部屋に訪れる静寂。
心臓の音が聞こえるのではないかとゆりは心配した。
「・・・俺のさ・・・」
「・・・?」
「妹の名前も・・・由梨っていうんだ。」
「・・・え?」
「だからさ・・・嬉しかったんだよ。またこうして会えたのが。」
「・・・・・・」
「思い出せなくてもいい。俺は今すごく幸せだから。」
ゆりは堪らずに言葉をこぼす。
「思い出すから、絶対。それに、これから『力』を使っちゃ駄目やけんね。
あんたはこれから新しい道を歩くんだから。」
それが『先読み』で見た映像だった。
― 『瞬』の成長した姿。
『力』を使わずに生きる道。
これから・・・彼は生きていく。
『瞬』は嬉しそうに言う。
「これから、美味しい手料理食えるのか~。嬉しいな~。」
「・・・そ、それはおばあちゃんに頼んで。」
「ゆりのチャーハン、最高だったな~・・・」
「また・・・おおげさってば・・・」
「いつかあの黒毛和牛ってやつ食べたい・・・」
「・・・稼げるようになったらね。」
「・・・稼いでるけど。」
「『護り屋』としてじゃなくて、ね。」
「・・・はい。」
素直に聞き入れる少年に、ゆりは小さく笑う。
その後、息を整えて話を切り出す。
「・・・ねぇ。」
「・・・ん?」
「物置に閉じ込められた後・・・『力』が生まれたの?」
間を置いて、『瞬』は答える。
「・・・ああ。妹が物置の中で死んだ時。
気づいたら外にいて、知らない場所にいた。
その時、戻る事が出来なかった。
あの後どうなったか・・・分からない。」
「・・・ごめん。立ち入った事を聞いて。」
「・・・いや、いいよ。」
「・・・」
「・・・」
しばらくすると互いに話が途絶える。
ゆりは眠気を感じ、自然とまぶたを落とす。
静寂の中に、寝息が生まれた。
*
― 雨が止め処なく降っている。
不思議な感覚だった。
私はそこにいないが、その場の光景を見ている。
その雨の中、赤い傘を差した小さな女の子が歩いている。
この女の子は・・・私だ。
傘に落ちてくる雨音を楽しむように、弾むように歩いていた。
・・・それもそのはず。
おばあちゃんが買ってくれた、その赤い傘が大好きだったんだ。
しばらくしてその先に、誰かいる。
・・・あれは・・・もしかして・・・
『瞬』だ。
雨の中で、立ち尽くしている。
・・・泣いてる?
雨なのか、涙なのか、分からない。
ただ、とても哀愁に満ちている。
その『瞬』に気づいたのか、小さな私は彼に近づいていく。
『瞬』もそれに気づき、小さな私を見つめる。
《・・・おにいちゃん、泣いてるの?》
小さな私は『瞬』に話しかける。
彼は無言のままうつむく。
小さな私はにっこり笑って、赤い傘の柄を『瞬』に差し出す。
彼の顔が上がる。
小さな私は言った。
《このあめって、あなたがないてるからふってるみたい。
このかさ、かしてあげる。》
彼の目が見開く。
小さな私はとても良い笑顔だった。
《おばあちゃんがいってたの。
こまったひとがいて、じぶんのものでたすけることができたら、
まよわずかしてあげなさいって。
そしたらね、そのひとはとってもたすかって、
えがおといっしょにかえしてもらえるからって。》
・・・・・・
・・・そうか。
私は・・・
赤い傘に込めた思いを、『記憶』と共に渡したんだ。
『瞬』はただ、小さな私を見つめる。
《おにいちゃんの雨がやみますように・・・》
とびっきり良い笑顔で・・・
小さな私は赤い傘を彼に渡し、雨の中を飛び出す。
《・・・待って!》
『瞬』は、はっとして、呼びかける。
小さな私はその呼びかけに振り向く。
《・・・いつか・・・返すよ。名前は?》
小さな私は笑って答える。
《ゆり!傘にもかいてあるよ!》
小さな私はきびすを返し、走り去っていく。
『瞬』はその後姿を、ずっと見送っていた。
そしてぽつりと、つぶやく。
《・・・妹と・・・同じ名前だ・・・》
・・・・・・
《・・・・・・由梨・・・ごめん・・・・・・》
うう、と、彼は呻いて、赤い傘の柄を握り締め、その場に崩れ落ちる。
・・・・・・
『瞬』・・・
・・・・・・
*
ちゅん、ちゅん、と雀の鳴く声がゆりの耳に届く。
少女はゆっくり目を開けた。
朝日の光が、障子を通して部屋に注いでいる。
ゆりは寝返りをうつ。
すると、隣には自分の眼鏡と赤い傘が置いてあった。
― ・・・私の傘・・・
ゆりは起き上がり、その傘を取った。
柄の所を見ると、油性マジックで書かれた文字があった。
『1年3組 させんゆり』。
赤い傘を持つ手が震えた。
― ・・・あいつ・・・本当にあの時のまま、
時間が止まったまま、
ずっと一人で10年・・・生きてきたのか。
傘を胸に抱きしめ、込み上げる涙を頬に伝わせる。
涙と共に、溢れる感情を抑えきれなかった。
小さく嗚咽する。
― 世の中不条理だ。
本当にどうしようもないくらい。
私に何が出来るか分からない。
だけど・・・
彼がこれから進む道を支えられるように。
私の出来る最大限の事をしよう。
「・・・おはよ。」
控えめに響く声。
ゆりはその声に、はっとして涙を拭う。
部屋の出入り口に立っている少年は、静かに少女を見守っている。
必死で平常心を取り戻すと、少女は言葉を返した。
「お、おはよ。おばあちゃん帰ってきた?」
「・・・ああ。朝御飯作ってゆりを待ってる。
起こしてこいって言われて来たんだけど・・・」
「そう。分かった。すぐ行くから、先に行ってて。」
「・・・うん。」
少年は行こうとしたが、思い直したように少女の方を向いた。
「・・・俺の名前は、『高城 俊太郎』。
その傘返すよ。もう・・・必要ないから。」
少年―俊太郎は微笑む。
その微笑みに、ゆりは大きく鼓動が波立つのを感じた。
風のように去っていく少年。
それを、時が止まったかのように見送る少女。
― ・・・おばあちゃんの言う通りだった。
笑顔と一緒に・・・返ってきたよ。
少女は再び赤い傘を抱きしめる。
内から込み上げてくるものが、頬を伝った。
その表情には、微笑みが浮かんでいる。
To be continued・・・