美佐子との共作(4)
センターでの発表は続いていた。「飲み会」のメンバーもそれぞれシナリオを執筆し始めたようだった。
まだ構想がまとまっていない人やストーリーの展開に苦心している人などには、二回以上の発表の機会が与えられ、シナリオにする題材等を皆で吟味することもできた。
他人に比べ私と美佐子の共作はほぼいいペースで進められているようだった。
その美佐子は、火曜日の講義を休んだ。
風邪かなと思ったが、日曜日にはその兆候がなかったから、私はいぶかしく思った。
次の講義――木曜日に、美佐子は遅れて教室に入ってきた。片眼に眼帯をかけている。
講義が終わってから、どうしたのかと問うと、美佐子は、苦笑いを浮かべ「ちょっとね」と言った。彼女は「飲み会」には参加したが、元気がなかった。
「ものもらい?」と白石が訊くと、
「まあ、そんなようなもの」と答えた。
その日の「飲み会」では、島田老人が発表したシナリオの構想の話題が立った。
「特攻隊の現実を皆さん知らない。私たちの年代でも忘れかけている人がいる。しかし、しっかりと伝えたいんです」
島田は、歳の割には酒の飲める方で、真っ赤な顔をして熱心に構想を語った。
私は、美佐子の浮かない様子をちらちらと眺めて、皆の議論に今ひとつ入っていけなかった。
私が土・日の予定を訊いたのは「飲み会」が終わった帰り道だった。
「できれば」と美佐子は言った。「一週間、延期して欲しいの」
「そりゃ構わないけど、どうしたの?」
「私の目がこんなだし、ワープロも満足に打てないから」
「大丈夫?」
大丈夫だと言って、美佐子は逃げるように帰っていった。
次の土・日、シナリオを書く用事がなくなったので、私は久しぶりに家で過ごした。
一日一緒にいると、息子はまた成長したように見えた。
私は秋の日射しの中を息子の手を引いて散歩した。
会社への復帰はどうしようか。考えは自然に「シナリオ・センター」後のことに及んだ。休職期間は、もうすぐ半年になろうとしていた。センターへ行ったり、そうして息子の手を引いて歩いている限りは、うつの傾向は出なくなっていた。薬のおかげもあるかも知れないが、うつ症状は軽快に向かっているようだった。
健康保険から月収の何割かは毎月振り込まれたが、生活はぎりぎりだった。生活のためにも、会社を辞めるわけにはいかなかった。しかし、「社会復帰か」とつぶやくと、気持ちが急に縮こまってしまうようだった。
土曜日の夜、息子が寝た後、妻に本音を漏らした。
「もうそろそろ会社にも戻らないといけないのだろうけど」と、私は言った。「会社で前みたいに仕事をすることはできないかも知れない」
「しょうがないじゃない、病気なんだから」と妻は言った。
「そういうことより、あくせく教材なんかを創っていくのが、私の中で重要じゃあなくなった」
「辞めるの、会社?」
うむと言葉に詰まると、妻は、
「辞めてもいいわよ、仕事に気力が湧かないんだったら」
「でも、生活のこともあるからな」
「今なら少し貯金もあるし、気楽なアルバイトでもしたら」
妻は顔を合わせずにそう言ったが、そうも行くまいと、私は考えていた。シナリオで身を立てられれば、と考えないことはなかったが、やはり夢でしかないだろう。息子のためにも、経済的な基盤はしっかりさせたかった。
とにかく、シナリオを一本完成させてからだ。先のことは、それからゆっくり考えよう――そう思うと、気持ちが少し楽になった。
翌週の火曜日、美佐子は元気を取り戻したように見えた。眼帯もしていない。が、よく見ると、右目のすぐ上にアイシャドーのような黒ずみがあった。
発表の後、「飲み会」へ行く途中で私が美佐子をつかまえて訊くと、
「別に何でもないの。柱の角にぶつけちゃって」と言った。
「それより」と美佐子は言った。「今度の土・日、合宿にしない?」
「えっ?」
「小山さんの都合がつけば、私のウチで泊まりがけでシナリオ書かない?」
私は少々面食らった。たとえシナリオを書くのであっても、泊まるとなれば他人から見てどのような誤解を生むか知れない。
「誤解されるんじゃないか?」
「何を?」
「何って……」
私の方が口ごもった。
しかし、と私は思った。ひとりの女性と親しくなるのにどれくらいの距離が必要なのか。
私は意識過剰なほど、最初は、若い女性だということを意識するのを避け、親しく話す機会を拒み、共作することにもためらい、彼女のアパートへ行くことに抵抗を覚えた。そして、今度は、「泊まりがけで」ということに引っかかっていた。彼女との距離を測りかねていた。
彼女の方はどうなのだろう。見た限りにおいては、無邪気なのか、私に安心しているのか、不用意なほど近しい距離を取っているように見えた。
あまり気にする必要などないのかも知れない。私さえしっかりしていれば、一気に集中してシナリオに取り組める機会はまたとないとも思えた。
「合宿か? ご飯は出るんだろうね」と私が半ばふざけて訊くと、美佐子は、
「料亭風とまではいきませんが」と返した。
「じゃあ、土曜の午後、直接行くよ」
「ううん。また、私が迎えに行く」
「でも、場所は覚えてるよ」
「いいの。道々話もあるし……」
そういって、美佐子は「飲み会」の場所へ入っていった。
その週の土曜日、気持ちのよい秋晴れの中、私は、美佐子のマンションの最寄り駅に着いた。美佐子はまだ時間前というのに改札口にいた。ベージュのセーターに紺色のパンツ姿だった。
「いい天気だねぇ」と私が言うと、
「部屋にこもってシナリオを書くよりピクニックにでも行きたい気分」と彼女は言った。
私たちは秋の日射しの中をぶらぶらと歩き始めた。
二週間で木々の緑も少し薄まったようだった。気の早い落ち葉が道の所々に見える。
「私ね」と美佐子は歩きながら何のためらいもないように言い出した。「彼にたたかれちゃった」
「えっ?」
「眼の上のアイシャドー、その痕」
「どうして?」
「この話はウチに着いたら終わりね。いつまでも引きずりたくないから。……あのね、私が考えていること、この前小山さんに言ったようなこと、言っちゃったの」
「怒ったの?」
「うん。私がシナリオなんかできるように、俺が頑張るんじゃないかって。これからもそのつもりだって」
「そう」
私は二の句が継げなかった。それだけ、彼氏も美佐子のことを本気で考えているということだろう。
「しかし、手を出すのはよくないなぁ」
「うん。でも、そうかなぁってね」
「見直したわけだ」
「そういうわけでもないんだけど、まだ、しっくりはしてないけど……」
「うん」
「つまり、そういうこと」
美佐子はそう言ってひとりで頷いた。
「わかった……」
私は、何となく美佐子の言おうとしたことがわかるような気がした。
美佐子のマンションの前に来ると、彼女は、私の前にぴょんと跳ね飛ぶと「この話はこれでおしまい」と笑って言った。
「でも、今日明日の合宿まずくないか?」
「ううん。そんなことない。小山さんだって、帰ってまた来るのまどろっこしいでしょう?」
「そりゃあ、そうだけど……」
「だから合宿。……山田監督と朝間さんもよくホテルに籠もるそうよ。ここからは、シナリオのことだけ、ね?」
「わかったよ」と言って、私は階段を上っていく彼女を追った。
「この前やったところまで、まとめてみたの」
美佐子は、部屋へ入るとすぐそう言ってワープロの出力紙を持ってきた。
部屋の中は西陽を受けてぽかぽかと暖かかった。私は畳敷きの部屋に据えられているテーブルに腰を下ろして、紙を受け取った。
この前話をしながら創ったシーンが時間順に並べられ、わずかに補筆されていた。
「いいんじゃないか、ここまで」
「そう?」
「シナリオらしくなっているよ。何読んだの?」
何を読んで勉強したのかという意味だった。
「舟橋和郎の『シナリオ作法四十八章』。……これ」と言って、美佐子は書棚から本を一冊取り出した。
「私は、新井一さんの本だったな」
「シナリオ学校へ行っているのにね」
そう言って、ふたりで笑った。
「さて、」と私は言った。「川口の前から、今井恵子が姿を消すところからだったね」
「恵子さんが、マフラーを持たずに、あちらこちら歩きまわるっていうシーンからだね」
「まわりはクリスマスで盛り上がっているのよね」
「ケーキを売る男、友達同士話している声高な声、クリスマス・ソング……」
「無意識にデパートにも入る」
美佐子はそう言いながら、ワープロのキイをたたいた。
「耳には『聖夜』の電子音」
「あれ、私、お茶も出していない」
美佐子が不意に気づいて言った。
「ああ、いいよ」
「でもお茶くらい、飲もう」
美佐子はキッチンに立っていった。
やがて、美佐子がお茶をふたつ盆に載せて戻ってきた。
「恵子があちこちまわって帰ってくると、誰かの姿がドアの前にいる」
「川口公平。やっぱりあなただったって言うのね」
「部屋に入れるよねぇ」
「うん。川口を座らせて、お茶を沸かす」
* *
●恵子の部屋の中
川口公平がテーブルに座っている。
キッチンに立ってお湯が沸くのを待っている恵子。
やがてヤカンがしゅうしゅういってくる。
恵子「どうして?」
川口「えっ?」
恵子「さっき、やっぱりあなただったって(言うから)?」
川口「黄色いマフラー持っているの、あなただけだったから」
恵子「偶然かも」
川口「陽子の友達ですか?」
恵子「……」
川口「陽子に頼まれたとか。……わかっているようなもんだけど」
恵子「私じゃ、ダメ?」
川口「えっ?」
恵子「私じゃ、ダメですよね(と、うつむく)」
* *
「ここですぱっと切りたい」と私は言った。
「うん、いい」と美佐子。
「次のシーンの遊園地の音が前のシーンへ入ってきて、ずり下がってもいいな」
「やっぱり遊園地かな? 個人的にはディズニーランド」
「少し遠いような気がするんだよ。食事もしなけりゃならない」
「でも栄えるでしょう。恵子が楽しむって感じが出るような気がする」
「よし、ディズニーランドでいってみるか」
私はまたワープロに向かった。
いろいろ会話を交わしながら、ディズニーランドでのシーンを書き終えると、もう午後七時近かった。
「食事にしましょうか、って、私何も準備してない」と美佐子が言った。
「いいよ、お総菜でも買ってくれば」
私はそう言ったが、美佐子は、
「ううん、何か作る。作りたい! ビールでも飲みながら、次のシーンを考えていて」
「わかった。あわてなくていいよ」
私は、ワープロで打ったところをプリントして読んだ。キッチンからトントンと何かを刻む音が聞こえた。そっちを見ると、美佐子はパンツの上にエプロンを着けて、手を動かしていた。なんだか新婚生活のようだな、と私は照れくさい思いでいた。かつて妻も私のために懸命に料理してくれたものだった。私は美佐子のそんな後ろ姿に三十歳になる女の艶を感じた。
「見ないで、恥ずかしいから」
美佐子は私の視線を感じて振り返った。「冷蔵庫にあるから、ビールでも飲んでいて」
「はい」と言って、私は立ち上がってビールを取りに行った。
「何ができるのでしょうか?」と問うと、
「秘密です」と言って、美佐子は含み笑いした。
私は、とりあえずワープロを横に置いて、ビールを飲み始めた。
常軌を逸しないようにしなければ、という気持ちがあるせいか、一本飲み終わっても酔わなかった。
「もう一本、いいですか?」と訊くと、
「どうぞ、ご自由に」という返答が返ってきた。
私は、今さらのように、妻を裏切っていることにはならないかと考えていた。シナリオを共作している時は意識しなかったが、こうなってみると生活感が意識に上ってきた。ある緊張もあった。
美佐子がキッチンで新妻よろしく料理し、私はリビングでビールを飲みその料理を待っている。妻に見せられる図ではないな、と私は思った。
「よく料理するの?」と私は黙っているのを苦にして訊いた。
「うん。外食してるとお金かかるから」
キッチンから声が返ってくる。
「仕事から帰ってきてじゃあ、大変だね」
「でも、たいしたものは作らないから、いつも。今日もだけど」
「慣れている感じ」
「そう? でも、頭の中はパニック」
「そんなに頑張らなくていいよ」
「うん。頑張れないから」
私はビールを飲みながら、所在なくまた部屋の中を見まわした。
天井から吊された電灯の蛍光灯の輪が黒ずんでいた。書棚の横に何か貼った痕のようなものが見えた。
今さらながら、部屋の隅にテレビとビデオがあるのを見つけた。
「テレビ見ていいかな」
「どうぞ。リモコンが上にあるから」
私は、リモコンを取って、テレビのスイッチを入れた。
「今夜、山田太一さんのドラマあるでしょう?」
キッチンから、私を見て美佐子が言った。
「そうだったね」
テレビの下に重ねてあった新聞を見た。山田太一の久しぶりの連続ドラマだった。確か、朝のうちに自宅のビデオで予約してきたような気がする。
「ビデオの調子がちょっとおかしいから、私、生で見ないと」
「うん、見よう」
三十分くらい私がテレビでニュースなどを見ていると、
「さあ、できましたよ、簡単ディナー」
そう言って、美佐子が盆でスプーンやフォークを運んできた。
「本当はビーフシチューにしたかったのですが、時間がなかったのでクリームシチューです」
パチパチと、私は手をたたいた。
「ご飯まだ炊けてないけど、お酒飲むでしょう?」と言って、美佐子は冷蔵庫の中から白ワインを出してきた。
「ワイン、小山さん、どう?」
「最高」
「そう? 私の好みで白」
「けっこうです」
美佐子は栓を抜いて、持ってきたグラスふたつに白い液体を注いだ。
「乾杯」
「シナリオの完成を祈って!」
私たちはグラスを合わせた。