美佐子との共作(1)
沢田の結婚披露宴が終わり、私は数日ぼうっとして過ごした。急にかけるものを失った、そんな気分だった。ひとりになると、披露宴での細部の事々や反省する点などが浮かんできた。今さら、と自嘲して、私はシナリオのことを考えようとした。
樹口美佐子との共作が待っていた。構想の発表もそろそろしないとならないので、梗概だけでも決めておかねばならない。私は、何となく心に浮かんでいた物語を文章にしてみようと思った。
会社から電話があったのはちょうどそんな時だった。私が業務の後を任せた編集第一課の課長からだった。
「お元気ですか?」と彼は言った。「そろそろ三ヶ月過ぎになるので、どうかなと思って」
「ああ、だいぶいいよ」
「来月くらいに復帰できそうですか?」
「そうだなぁ、どうなんだろう。医者にも相談してみないとね」
「席を空けて待ってますから」
「社長は?」
「えっ?」
「元気かい?」
「相変わらずです」と課長が言った。「小山代理のことは心配していましたよ」
「そう……」
「また電話しますので、復帰のこと考えておいて下さい」
「わかった」
じゃあ、また、と言って課長は電話を切った。
九月復帰――考えていなかった。正直言えば、会社のことはほとんど忘れていた、と言うより、忘れようとしていた。シナリオ・センターの講義は別としても、センターの友人と会うのは楽しかった。心の問題をあれこれ言い合う時間は、かけがえのないものだった。
沢田の結婚披露宴のこともその延長にあった。準備に走り回った記憶は、他にない貴重な経験だった。
会社――また、利潤の追求に汲々としている中に戻るのか。身体がついて行かれるだろうか。それよりも、気持ちが抵抗していた。
木下医師に、掛け値のないところを話した。
「会社に戻るのが怖い?」
「怖いと言うより、会社に意味を感じないというか、戻る価値を認められないというか……」
「気力もないかな?」
「会社へ行く電車に乗る気がしません」
「シナリオの方はやっているの?」
「そっちは、楽しいです」
木下医師は少し考えてから、
「別に九月からの必要はないけれど、収入の問題もあるだろう?」と言った。「最初は週三回くらい出社するように話してみたら?」
「はい……」
「気が乗らない?」
「はい、正直言うと」
「じゃあ、もう少し気力がのってくるのを待とうか」
「はい……」
会社は辞めてしまいたい。そんな気持ちが胸の中にあった。しかし、シナリオで食えるようになったわけでもないし、収入のことを考えると、そんな簡単に決めてしまうわけにはいかなかった。
保留――とにかく、卒業制作が終わるまでは、考えないようにしようと、私は思った。
樹口美佐子と会ったのは次の日曜日だった。
沢田の披露宴のことでは皆で日曜日に何度も会ったが、二人きりでというのは初めてだった。
私は服装に気を遣い、髪の毛を念入りにとかした。
午後一時。美佐子は時間ちょうどに待ち合わせ場所に現れた。
「こんにちは」と美佐子は微笑んだ。
その日の美佐子は、ピンクのサマーセーターに紺のパンツ、ハイヒールのせいか思っていたよりすらりとした感じに見えた。
「いつもの談話室へ行こうか」
「あそこならいつまでいてもとがめられないわね」
私たちは、沢田の披露宴の打ち合わせに使った談話室へ行った。
二人ともコーヒーを頼むと、
「今日も暑いね」と美佐子が言った。
「今日、デートじゃなかった?」
「ここのところ全然会っていないの。彼忙しくて……」
「そう」
「それに、小山さんとの初デートだし」
「そうかぁ」と私は笑った。「ところで、何か考えた?」
「シノプシス?」
「うん」
「小山さんは?」
「うん。一応考えたんだけど、……文章にしてくるつもりがうまくまとまらなくてね」
「どんな話?」
美佐子は前にのりだした。
「うん。ちょっと、話しにくいんだけど、また、例によってさびしいOLが主人公なんだ」
「うん」
「どこか通販か何かのテレホンセンターか何かに勤めている感じ」
「一日中マニュアル通りの会話ね」
「そう。それでさ、なんか気疲れしてアパートに帰ってくると郵便が来ているんだ」
「うん」
「ほとんどがダイレクトメールばかりで、それでも、彼女は律儀に開いていくんだけど、その中に一通私信が混じっている。宛名も見ずに機械的に開けちゃうんだけど、そうすると、バースディカードが入っているんだ、音のでるやつ」
「ランランランラーランって、電子音のでるものね」
「あわててみると見知らぬ宛名、住所はあっているんだけどね。内に何か……ここが思い浮かばなかったんだけど、おめでとう何とか何とか書いてあるわけよ、誕生日にはプレゼントを持って行くよって感じかな」
「うん」
「それで、彼女はあわててしまって出し直そうとするんだけど宛名の子の住所がわからない。それで、そのままにしちゃうんだな。それで、忘れたつもりだったんだけど、翌日からハッピーバースディの電子音が耳について離れないんだ」
「あるある、そんなこと」
「気分までなんかうきうきしてね。別に自分の誕生日でもないのに」
私はコーヒーで口を湿らした。
「それで、その子の、宛名の子の誕生日の日に待ち合わせ場所へこっそりと行くんだ。何も言うつもりじゃなく見るだけのつもりで」
「いるの?」
「いるんだ、いかにもプレゼントっていうものを持った男の子が」
「そう」
「主人公のOLは、じっと見ているんだけど、そのうち意地の悪い気持ちが射してきて、男の子に言うんだ、彼女来ないわよって」
「うんうん」
「そのまま帰ろうとするOLを男の子は追いかける。なぜ来ないんですか? あなたはお友だちですか? ちがうの、今はその住所には私が住んでいるのって」
「じゃあ、僕も行きますって家までついてくるのね」
「それでもいいな。そうすると……」
「いない。帰ろうとする男の子にOLが言うのよ、私じゃダメ?」
「はぁ」
「プレゼントきっと届くようにしてあげるから、今日一日は私とつき合ってよ、とかね」
「それからふたりで遊びに行くのか?」
「そうねぇ」
「着地点をどこにするか」
「もう少し詰めていくとなんかいいものできそう」
「貫通行動、ないな」と、私が言うと、
「ないね」と美佐子は笑った。
「樹口さんの考えたやつは?」
「私のは……」と言って、美佐子はコーヒーを口に運んだ。「新しいのは考えつかなかった」
「そう」
「ただ……選考試験の時のものをふくらませれば何か出来るかなって」
「あの、子供がお母さんを待つやつ」
「そう」
「ネックは、なぜ旦那さんとうまくいかなくなったかだよね」
「いろいろ考えられるんだけれど……」
美佐子は口ごもった。
「仕事が忙しくて相手にしてもらえなかったとか」
「うん。浮気じゃありきたりだもんな」
「だから」と美佐子は言った。「小山さんのやつでいかない?」
「バースディカードの?」
「そう。何かふくらませそうな気がする」
「それはかまわないけど……」
「たとえば、前の年には、マフラーをプレゼントしていて、そのことがカードに書いてあるの、似合っていたな、とか」
「うん」
「電子音が耳に鳴り続けていた主人公は同じマフラーを衝動的に買ってしまうの」
「黄色のマフラー」
「なぜ黄色?」
「女の子だから何となく」
「ねぇ」と美佐子は言った。「まず主人公の名前を決めない?」
「そうだね、話がしにくい。それとメモを取る。忘れちゃうからね」と言って、私はレポート用紙を取り出した。
「名前は……今井恵子」
「なぜ?」
「何となく」
「よし、とりあえず今井恵子にしよう」と私はメモをした。
「今井恵子さんはどんなOL?」
「テレホンアポインターでいいんじゃないのかなぁ」
「通販のテレホンセンター勤務ってのは?」と私は言った。
「それでもいい。とにかく音って言うか声を交えるお仕事。後で電子音が出てくるから」
「そうだね」
「ねぇ……この話、バースディじゃなくて、クリスマスの話にしない?」
「クリスマスカードかぁ」
「そう」と美佐子は言った。「その方が雰囲気出そう」
「かまわないけど……」
「クリスマス・イヴ……今井恵子には何にも予定がないのよ」
「うん」
「そこへ、と言うか数日前に、カードが届く」
「クリスマス・イヴに会えませんか?」
「カードに書いてあるわけだね」
「そう」
「できれば去年贈った黄色いマフラーを着けてきてくれませんか、みたいなこと」
「文面はもうちょっと考えた方がいいと思うけど……シノプシスを、まず」
「そうしよう。……とにかく電子音付きのカードにマフラーのことも書いてあると」
「第1シーンは、郵便受けに差し込まれるカードかしら」
「それ、いい」
「他の郵便物と一緒に開けてしまう」
「でもさ、宛名、見ないかな」
「見るわよね、普通」と美佐子は考え込んだ。
「酔っぱらって見るってのは?」と私が言うと、美佐子は手を打って、
「うん、今井恵子さんは不倫しているのよ」
「えっ?……話の展開がわからない」
「あのね……淋しさから上司と不倫しているの。その彼が決して好きじゃないけど、淋しいのよ。それで、彼と飲んでくるの」
美佐子は何か先を考えているようだった。
「ま、いいや。それで、あまり宛名をよく見ないで封を切るわけだな」
「そうしたら電子音!」
「さっきの文面が書いてあるわけだ」
「そう」
「ちょっと待って」と私はさえぎった。「恵子の淋しさがもっと何か出せないかな。初めの方で淋しさが伝わらないと……また、発表の時つっつかれるよ」
美佐子はちょっと考えて、
「それ、シーンで見せるのって難しいね」
「そうだな」
「保留。今度までに考えてこよう」
「わかった」
「どこまでいったっけ」
「電子音のカードを封切る」
「『ジングル・ベル』か『聖夜』の音」
「『聖夜』だな」と私がメモする。
「ええ」
「初めは誰だろうって裏見て、知らない人だっていうんで、宛名を見る」
「住所は合っているけれど、宛名は……仁科陽子様になっている」
「今度は、仁科陽子?」
「なんとなく」
「まあ、いいや。……それで、間違えたと思って……誰なのかな仁科陽子って?」
「以前にその部屋に住んでいた子かしら」
「でもそれなら、引っ越してきたばかりだよね、恵子は」
「う~ん、ちょっと待って、何か出てきそう」
美佐子は考え込んだ。
「あのね、」と美佐子は言った。「こういうのどうかな。さっき不倫しているって言ったでしょ。その人とね、一度は別れようと思ったの。それで恵子さんは最近引っ越したのよ」
「それでも、つきあいを続けている」
「それが淋しさなんじゃないかな」
「う~ん。映像でどう説明するかだな」と言って、私は書きかけのメモを眺めた。
「とりあえずそれは置いておいてストーリーだけ」
「うん」
「あとで不動産屋さんか何かに前の人の新しい住所を訊こうと思って、とりあえずはそこらに放っておく」
「ちょっと。クリスマスカードって、クリスマスの直前に贈るものだよね。クリスマスに会えませんかって書いてあるわけだから、不動産屋さんには急がないと……」
「そうね。その日のうちに電話するかな」
「以前にいた子はどういう子かな」
「それは問題」
「ただ男が振られただけなのかな」
「面白くない? そうよね」と美佐子は小首をかしげた。
「集団就職って、今、ある?」と私。
「あるんじゃない?」
「それじゃあ、たとえばさ、その女の子、仁科陽子は、集団就職で田舎から出てきたんだ、男を残してね。初めは工場か何かに勤めていたんだけど、それが嫌になって、たとえば、バーのホステスになったりしてるんだ。実入りもいいし、転居理由にもならない?」
「うん。いいかもしれない。男の方、川口公平はそれを知らないでクリスマスカードを送ってきた」
「フフフ、今度は、川口公平、かい?」
「なんとなく」
「いよいよクリスマス・イヴの日」と言って、私はコーヒー・カップを取り上げた。「ちょっと疲れたね」
私は鉛筆を置いた。
コーヒー一杯で3時間ほどは粘ったろうか。
「うん。でも、こういうのって楽しい」
「私もだ。……クリスマス・イヴの当日からだな、今度は」
「お互い、いろいろ考えてこよう」
「うん」
談話室の外に出ると、いつの間にか夕日が赤く傾いていた。
私も美佐子も顔が上気していた。ストーリーを考えるので時を忘れて興奮した。
「なんだか、いいものできそう」
美佐子の瞳が輝いていた。
「うん。なんか、こう、充実した時間だったね」
「本当に、そう」
「また近々やろう」
「ええ」
私と美佐子は、駅までの道を歩いた。酒が飲みたかった。興奮に任せて、日本酒をじっくりと味わいたかった。いつか美佐子を誘って飲もう。シナリオが完成した時だろうか。そう考えながら、その日美佐子とは駅で手を振って別れた。