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いざ、シナリオ・センターへ

 四十を前にして、私は体調を崩した。

 初めは、左脇腹の鈍痛だった。我慢できないほどのものではなかったが、背中に近いところに石でも埋め込まれているような感覚があった。

それから頻尿だった。まだそれほどの歳ではない。一時間とあけずにトイレに行きたくなるのはやはり異常だと思った。

 「家庭の医学」といったような分厚い医学書で調べ、腎臓、膀胱、前立腺などの障害が疑われると、急に気力が萎えた。これまでほとんど病気らしい病気を経験したことがない。病気に関して精神的な免疫がないのだ。

 仕事は忙しかったが、合間を見て近くの内科医を受診した。症状を話すとすぐに検査ということになった。採血採尿して、一週間結果を待った。

 特に異常は認められないという。ホッとした他方で、その内科医の見識を疑った。実際、症状はとれない。

 一ヶ月ほど様子を見た後、今度は名のある大学病院へ行った。初診ということで二時間近く待たされた。また検査ということになった。結果は異常なし――。

 そんなはずはない。

 「まだ脇腹の痛みはとれないし、最近では、下痢もするようになった」と、私が言いつのると、試しに、ということで神経科を受診することを勧められた。

 「神経科」という名称に抵抗があった。しかし、ほかに選択肢がないほど追い詰められていた。

 ちょうど、会社と自宅の真ん中あたりにその医院はあった。

 木下というプレートを胸につけた、五十年配の医師は、私の話にいちいちゆっくりと頷き、一段落すると、最近の仕事ぶりや家庭環境、趣味などを静かに問うた。

 「自律神経が少し疲れているようですね」

 木下医師は、カルテにアラビア文字のような綴り字を書きながら、そう言った。「薬は出しておきますが、できれば少し会社を休めるといいのですが」

 「どのくらいですか?」

 「そう、一ヶ月くらい」

 私は半信半疑だった。神経の病気で脇腹が痛くなったりするものだろうか。

それから、会社の仕事のことを考えた。

 私が勤めているのは、渋谷にある、社員三十余名ほどの出版社だった。と言っても、雑誌や一般の単行本を扱っているのではなく、おもに中学・高校受験用の問題集や参考書を出している教育出版社だった。

 編集室長代理――それが私の肩書きだった。小さな会社だったから、十数年もやっていれば、ベテランにもなる。編集室長の吉井は、取締役で書店営業部も管轄していたから外出も多く、いきおい私が編集室全体を統括することになった。二月、三月は、ちょうど中学・高校の入試が実施されるので、編集室は文字通り猫の手も借りたくなるような忙しさになった。その時期に一ヶ月の休暇は取りにくかった。

 結局私は、会社には特に説明せず三日ばかりの休暇を取って仕事に復帰した。

 どうやら(信じがたいことだが)脇腹の痛みも自律神経失調の影響だったらしく、薬を飲み始めて一週間ほどで薄らいだ。頻尿も気にならなくなった。

 しかし、そのころから、会社でふと気づくとぼんやりしていることが多くなった。仕事に対する熱気が失せていた。手はいつも通り動かしていても、胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたような空虚感がとれなかった。

 神経科の木下医師に話すと、うつ症状だという。「人によっては死にたくなるようなこともあります。うつが治れば空虚な感じも自然にとれますよ」

 木下医師はそう言って、抗うつ剤を処方してくれた。

 まるで憑き物が落ちたように、今の仕事は自分がやりたかったことではなかった、と考えていた。

 何を今さら青臭いことを考えている。まわりを見回しても、自分のやりたいことを職業にしている奴がどこにどれだけいる。四十近くなって、妻も子もいる男が考えることではなかった。やはり神経が衰弱しているせいにちがいなかった。

 四月になってから、私はいちおう二ヶ月の休職の手続きをとった。自分の代行を誰ができるのだ、といった自負心もあったが、仕事に執着する気持ちがなくなれば、どうでもよくなった。



 一日中家にいるようになると、まだ三歳の息子の相手が主な日課のようになった。朝起きて、妻が掃除洗濯を済ませる間、私は息子の手を引いて近所の散歩に出る。公園には主婦がたむろしていることが多かったから、マンションのそばにある川沿いの道をゆっくりと歩いた。初春の頃である。沿道の木々には、もう若芽がふいている。時折、好奇心盛りの息子に「葉っぱ。何の葉っぱ」と問われて、今さらながら草木の名を知らなかった。帰ってきて少したつと昼食。その後、息子の昼寝につき合って三十分ほどまどろむ。夕方にはまた散歩する。会社に行っている時はあまり寄りつかなかった息子は、父親がいつもいることを単純に喜びまとわりついてきた。

 妻は何を考えているか知れなかったが、私が家にいるのを当然のことのように受け容れているようだった。休職中、健康保険から給与額の六割が支給された。贅沢をしなければ何とかなる、と妻は言った。

 脇腹の痛みや下痢はなくなっていたが、相変わらず不安感と空虚感はとれなかった。

 若い頃は、物書きになりたいと思っていた。いくつかの懸賞に応募して落選するたびに夢が薄れていった。本に近い仕事という意味もあって生業に出版社を選んだのだ。しかし、出版とは言っても、私にとっては畑違いの仕事だった。そんな仕事になぜあんなに一所懸命になれたのかわからなかった。

 空いた時間に新聞の求人欄にも目を通した。四十近い男にまともな転職口があるとは思わなかったが、もう一度情熱を傾けて仕事をする自分を夢見ているようなところがあった。元の会社に戻る以外に道はないのだと悟ると、思いが沈んだ。

 「東洋シナリオ・センター」の研究生募集の広告を見たのはそんなときだった。

 週に二回のスクーリング、期間は六ヶ月。夜間部なら、会社に復帰してからでも通えそうだった。普通のカルチャー・センターとはちがって、選考試験があった。センターに入りたいという気持ちより、試験を受けたいという気持ちがはやった。小説とシナリオはちがうだろうが、自分の創作力を試したいと思った。

 その日のうちに受験料を用意して申し込んだ。妻には内緒にした。高揚する気持ちを悟られるのが照れくさかった。

 映画よりも普段見慣れているテレビ・ドラマに興味があった。選考試験までの十日余り、私は、図書館で借りて有名な作家のシナリオやシナリオ作法の本を熱心に読んだ。正直、自分に書けるとは思えなかった。しかし、久しぶりに若い頃の熱気を取り戻したような感じが快かった。

 選考試験は、いわゆる「三題噺」だった。

 「占」「駅」「果実」の三つの題が黒板に書かれ、それらを結びつけてペラの原稿用紙十枚以内で物語を創る――というものだった。

 最初の三十分は全く手が着かなかった。三つの題が呼び起こすイメージが独立して飛び交い、同時に捉えようとすると頭の中が漂白されたようになった。旧式のクーラーの作動音とたくさんの鉛筆が紙をこする音がやたらに耳についた。

 入社試験などの一般常識問題とはちがう、真っ向から取り組むに足る問題という満足感はあった。意地もあった。かつては物書きを志して何十何百枚の原稿用紙を無駄にしてきたのである。

 「占」と「果実」のイメージが結びついてからは早かった。約三十分で原稿用紙九枚半を書き上げた。

 書き上げて顔を上げると、まだ半数くらいの人が原稿用紙に向かっていた。やはり自分より若い人が多い。

机の数から考えてひと教室に約三十名ほどだろうか。三教室で試験が行われているので百名くらい。定員五十名と聞いているので約二倍の倍率。

もう一度自分の原稿を読み直して誤字脱字を確認する。少し字が汚かったかなと思う。が、出来は悪くない。

係員が入ってきて、「そろそろどうでしょうか」と言った。「まだ、書きかけの人は?」

 数人の手が挙がった。

 「あと十分待ちましょう」と言って、係員はホチキスを後ろの列に配った。原稿の右肩を閉じて提出するということらしい。

 約十分たち、筆記試験は終わった。この筆記試験は通るという自信があった。満足感が胸に満ちていた。

 「どうでした?」

 帰りのエレベーターのところで同年配の、青いカーディガンを着た男に問われた。

 「まあまあでしょうか。あなたは?」

 「無理やり自分のフィールドにもってきたという感じです」

 日に焼けた笑顔が人なつこい感じに見えた。

こういうところに来る人たちは、何か書きたいという「フィールド」を持っているのだろうと思った。

 「もしまた会えたら、名前を教えて下さい」

 そう言って、男は先のエレベーターに乗っていった。



 筆記試験の結果が来るまでの間、私は久しぶりに心が沸き立つような感じを味わった。

 自分の書いた物語を思い起こし、何度も、落ちるはずはないとつぶやいた。そして、倉本聰や山田太一のシナリオ本を購入して読んだ。

 リアルタイムでテレビ・ドラマを見たシナリオもいくつかあったが、改めて読むと、そのうまさに感じ入った。

 東洋シナリオ・センターからの通知は、ほぼ一週間後に来た。さすがにはさみを持つ手が緊張した。筆記試験の合格と面接の日時のお知らせだった。

 やった、と私は声に出した。今まで書いてきたものが、その筆力が公に評価されたような気になった。シナリオという新しい分野だったが、不安よりも書ける喜びの方がまさった。

 それから私は、話がある、と妻を呼んだ。

受講料のこともあった。週二回夜外出することも知っておいてもらいたい。私は面接試験を前にしてもう合格したような調子で妻に話した。

 「貯金を少しおろすことになるが、やってみたい」と私が言うと、妻は、いいんじゃないの、と素っ気なく言った。

 私は、会社の方のことはほとんど考えていなかった。もしも、シナリオ・センターで芽が出るようなら転職してもいいと軽く甘く考えていた。

 シナリオ・センターの面接の日、私は、久しぶりにスーツに袖を通した。会社を休職してからは、ほとんど普段着だったから、どことなくしっくりこなかった。今さらながら、会社が自分に合っていなかったのだと思った。

 「じゃ、行ってくる」と妻に言い残し、私は意気揚々と出かけた。何も心配することはない、神経を病んで休職中であることを言わなければ、あとは訊かれて困ることは何もなかった。

 指定された時刻の十分前にシナリオ・センターに着くと、五人ほどがもう来ていた。皆スーツ姿で、私より年下のようだった。

 廊下に並んだパイプ椅子の一番後ろに座って、隣の三十代に見える男に声をかけた。

 「何人筆記を通過したんでしょうね」

 「さっき訊いたら三十分に五人の面接らしいですよ」と、男は答えた。緊張しているようだった。

 「面接で落ちる人はあまりいないだろうから、六、七十人は通過してるんじゃないかな」

 私たちは、互いに推測を話し合った。

 私は三番目に呼ばれた。

 小さな会議室のような部屋の片隅に、机をはさんで面接する場所がしつらえてあった。

 もう七十に近い白髪の男が面接官だった。

 「筆記試験は悪くない点ですね」

 白髪の男が言った。私は内心で喜びがわき上がってくるのを感じた。

 「お勤めは、これは出版社?」と、男が私の履歴書を見ながら問うた。

 「はい、教育出版社です」

「週二回来られる? 」

「七時からですよね。それなら大丈夫です」

 「受講料は問題ないですね」

 「はい」

 それだけだった。ものの三分くらいのものだった。しかし、筆記試験の物語をほめられたので、悪い気はしなかった。

 帰りにシナリオ・センターを見上げて、これからここに週二回通うのだな、と結果を待たずに思った。



 憤慨とまではいかなかったが、不審に思っていたのは私だけではなかったはずだ。

 五月の連休明けに、開講式が行われた。

 私はいさんでシナリオ・センターに足を運んだ。昼間は暑いほどだったが、夜になると風が少し冷たかった。

 東洋シナリオ・センターの建物にはいると、立て看板に「第15期研究生入講式」の文字があった。

 警備員に訊くと、5Fの大会議室で行われるという。

 私が傍らのエレベーターに乗ろうとすると、「ちょっと」と言いながら走ってくる男がいた。私はエレベーターの「開」の文字のボタンを押して待った。

 「ああ」と私の顔を見て男が言った。

 「ああ、あの時の」と私も言った。

 筆記試験の帰り、エレベーターのところで話しかけられた男だった。

 「あなたも合格したんですね」と私は言った。

 「私、沢田裕二と言います」と男が言った。

 合格したら名前を教え合うと言ったのだ。

 「私は小山浩、三十九歳」

 「私はもう四十一になります」

 エレベーターが五階に着くまでに、私たちは自己紹介をし合った。

 「何人くらいいるんでしょうか」

 「定員は五十人て書いてあったけど…」

 エレベーターを降りると大会議室というのはすぐにわかった。物々しい年代物の木の扉が開かれ、傍らにやはり立て看板があり、「入講式会場」と書いてあった。

 中にはいると、パイプ椅子がずらりと並んでいる。椅子の前の中央に古めかしい机があった。

 まだ予定の時間の十五分前なのに、ざっと見て七、八十人の男女がパイプ椅子に座っていた。

 「ずいぶんいるなぁ」

 沢田裕二が言った。

 「五十人以上いますよねぇ」

 私も沢田も言葉に不審感がのぞきかけていた。

 係員も含まれているのかも知れないと、私は思った。が、入講式の定刻になった時、予想は裏切られた。

 パイプ椅子に座った、多くは正装の男女は百人以上いた。

 「ずいぶんいるな」

 沢田が半信半疑の声でまた言った。

 研究生募集の広告には、「定員50名、試験による選考」と書いてあった。筆記試験の時もざっと百名以上はいたはずだった。「選考」したのか、という疑問が浮かんだ。

 「皆さん、こんばんは」

 机の前に立った男が言い出した。

 「ええ、それでは、東洋シナリオ・センター第15期研究生の入講式を行います」

 四十五、六の男は少しかすれた声で言った。

「まず所長の挨拶、そのあと事務的なことを少し話します」

 面接の時に担当官だった白髪の七十がらみの男が演台の前に立った。

 「私が当センターの所長の木崎です」

 木崎所長は痰を切るように咳払いをした。

 「私の面接官でした」と、隣の沢田が言った。

 「私もです」

 「今回は応募人員が多く、研究生として百九名をここに迎えることになりました」

 木崎の言葉を聞いて、私は、ややがっかりした。筆記試験の小説の出来がよく、面接でも問題がなかったから選ばれたのだと自負していたからだ。いったい落ちた人は何名くらいいたのだろうか。もしや受験した生徒全員を採ったのではないか。

 そのあと木崎は、東洋シナリオ・センターの卒業生の活躍や、成績のよい者の映画会社への推薦制度、シナリオ・センター賞の設置などのことを話し、最後にこう付け加えた。

 「今回は多数の研究生を採用しましたが、きめ細かく指導していくことに間違いはありません。皆さんも授業についてきて、どんどん書いて下さい」

 しかし、採用された研究生たちの憤懣は、入講式のあとに場所を変えて行われた「親睦会」で噴出することとなった。


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