冷たい雨が降っていた
飲み屋街には独特の匂いがある。特に裏道に連なるそんな場所には。
それは酔っ払いたちが放つ匂いでもあるし、街自体に染み付いた、負の歴史の匂いであるのかも知れなかった。
事をやり終えた男は酔っ払いたちに紛れて、そんな匂いのするその場をそっと離れた。
男自慢の手作りの針で急所を上手く突いたから、ターゲットは声ひとつ漏らさなかったし、彼の行動に気づいたものは誰もいなかったはずだ。勿論、監視カメラが無い事もちゃんと織り込み済みである。
酔った友達を介抱するていで、壁に寄りかかる様にして座らせ、帽子も目深に被らせたから、周りの人がターゲットの変わり果てた姿に気づくのは早くても終電がなくなってから、上手くいけば朝刊の配達の時間以降になるだろう。
男はふと腕時計で時間を確かめた。時刻は午後十一時ちょっと過ぎ。空を仰ぐと顔にポツリと冷たいものが落ちてきた。
十二月も下旬だが、元々暖かいこの地方では雪は滅多に降りはしない。しかも今年は暖冬ときてる。
それでも寒がりな男はコートの襟を立てて、足早に飲み屋街の裏道から離れたのだ。
暫く歩いて近くの駅から電車に乗り、住処のある駅に降り立った時には、雨は本降りとなっていた。
「ちくしょう……しかたねーか」
男はコンビニで透明なビニール傘を買うと、住処までの道を歩き始めた。住処までは住宅街の中を歩いて十五分ほど。タクシーを使えばいいのだろうが、男は事の後にはタクシーを使わないと決めていた。それだけではない。朝一番に冷たい水で身を清め、近所の神社にお参りをし、下着類は新品を下ろす。住処を出る時は左足から。このように事に当る時には、男は自分で決めたルーティーンワークを生真面目に守っていたのだった。
そう、男の職業は始末屋だ。この家業についてからもう十年近くになる。
男がこのような生活を始める様になったのは、単なる成り行きだった。特に志や信念があったという訳じゃない。
両親が随分早くに亡くなり、父方の祖母が一人で育ててくれた。その祖母が大病にかかり、その治療費の為に……というのが一応の理由付けではある。
その祖母も五年前に鬼籍に入り、もはやこの家業でなくてもいいのであろうが、男はこの家業から離れられないでいた。組織が彼を手放さなかったという由もあろうが、彼自身、もう普通の生活には戻れないと心の底では確信していたのだ。
男はビニール傘を確認するかのように一度くるっと回すと、そのビニール越しに遠目にでも分る、住宅街の中にあるイルミネーションを見ながら毒づいた。
「ちぇっ、何が年末年始だ! 馬鹿野郎どもめ!」
そのイルミネーションはごく普通の家庭がクリスマスと年末年始用に設置したものらしかった。数軒が有志で、という最近流行のものらしい。先ほどまでいた飲み屋街のイルミネーションとはまた一味違った手作り感一杯のものだ。普通の感覚なら微笑ましい、と感じられる類の色とりどりの灯り。しかも雨が当るビニール越しに見えるそれは、程よく滲んで幻想的でもあったというのに。しかし男の反応はそれとは全く別のものだった。
そう、男はあらゆる行事を憎んでいた。今の季節でならクリスマス、そして年末年始の慌しい行事を。テレビだって年末年始は点けることは無かった。
「いつも平日ならいいのにな……」これは男の口癖でもあった。しかし……男が憎んでいたのは行事だけでは無かった。本当を言えば、総ての、ありとあらゆる物事を憎んでいたのかも知れなかった。そしてそれはいつからだったのか、今では当の本人にも分らないのだ。
そんなイルミネーションからまるで逃げ出すように、男は透明なビニール傘が奏でる規則正しいリズムを身体に感じながら歩いた。
丁度住処まで道半ば程の所に橋があるのだが、なぜかそこを通りかかった時に橋に目がいった。いつもは素通りする何の変哲も無い場所なのに。自分でも変だなと思いながら注意深く観察をすると、その橋の下にぼんやりと何かがあるのが分った。
割と急な斜面をすべらないように注意して橋の下に降りると、そこには大きな段ボール箱が置いてあった。
「ん?」
ダンボール箱の前には張り紙がしてあった。携帯の灯りでその文字を読んでみると
【拾ってください】とある。その文字は子供が書いた様でもあり、大人の文字の様にも見えた。
男がダンボール箱の蓋を開け、中を覗くと、そこには身体を「く」の字に曲げた、痩せこけた老婆が入っていたのだ。
「!」
男は少なからずも驚いた。犬か猫の子供でも入っているのかと思っていたのが、この有様だ。
「おい! ばあさん、こんな処で何やってるんだ? おいって!」
老婆は男の声に最初は無反応だったが、肩を掴まれて揺すられると目を開け、淋しそうに笑った。
「お前、もっと早くかえってこなくちゃダメじゃないか。~ちゃん」
ドキッとした! 男の名前を老婆が呼んだのだ。それも懐かしい呼び方で。
老婆を良く見ると、亡くなった男の祖母に似てないでもない。
「俺のばあちゃんも痩せてたっけなぁ……」
男は誰に言うとも無く呟いた。
時刻は深夜十二時過ぎ。橋の下の大きなダンボール箱。入っている痩せこけた老婆。普通じゃない。
「拾ってくださいって……アンタ捨てられたのかよ……」
男の問いかけに、老婆は再び淋しそうに笑った。
男はコートを脱ぐと老婆にそれを掛けてやった。改めて見ると、老婆はパジャマ姿だったのだ。靴も履いてはいない。
いくら雪の滅多に降らない暖かい土地でも、十二月下旬の真夜中である。しかも雨が降っているのだ。
「ばあさん、もしかしたら施設から抜け出してきたのかよ?」
最近ではここかしこに、老人相手の施設が雨後の竹の子の様に出来ているのを男は知っていた。しかし、もしそうなら周りで大騒ぎをしているはずだ。
「しょうがねえなぁ……とりあえず俺ん家に来るかよ? なぁ、ばあちゃんよ」
コクンと頷く老婆を傘を片手に背負うと、男は住処へと足を進めたのである。普通は完全無視か、警察に通報、が正しい事なのだろうが、職業柄、男は警察を毛嫌いしていたし、また恐れてもいたのだ。それに相手はなんと言っても老婆である。老婆には思い入れのある男には、捨て置く事は出来なかったのだ。
暫くは無言でいた二人だが、男が咳払いをしたタイミングで、老婆が搾り出すようにして声を出し始めた。
「♪あめーがふります あめがぁふるう~ あそびにゆぅきたぁし~ かさはぁなしぃ~♪」
十二月下旬の真夜中、しかも雨の降る中、男の背中で老婆が歌う。やっぱり普通じゃない。しかし。
「♪べにおのぉ~ かっこも おがきれたぁ~♪」
男が続けた。男は自分の祖母との懐かしい記憶を手繰らずにはいられなかったのだ。そう、この歌は亡くなった祖母がよく歌っていた歌だった。
「ふふっ、この歌詞な、子供の頃、意味がわかんなくてさ、大人になってからやっとわかったのさ。ばあちゃん、アンタ、意味知ってんのかよ?」
「わたしにゃなにもわからん……」
「あ? ばあちゃん、ボケちゃってんのか? まぁいいや。下駄の赤い鼻緒が切れちゃったって事なんだぜ。遊びに行きたくても雨は降るし傘は無いし、おまけに下駄の鼻緒も切れちゃったっていう悲しい歌なんだよ。踏んだり蹴ったり、もう最悪だな……」
男はふと自分の境遇に思いを馳せていた。踏んだり蹴ったりは慣れたものだ。しかしそれで幸せかと訊ねられたら、男は答えに窮していたに違いない。
「~ちゃん、いつか雨も止むさ……」
老婆が唐突に呟いた。
男はこの老婆の言葉に一瞬ドキッとした。それは男が誰かに言って欲しかった言葉だったのだから。
「え? ばあちゃん、なんだって?」
そう聞き返した男だったが
「わたしゃなんにもわからん……」
いま自分が何を言ったのかも分らない様子の老婆である。
「もう、しょうがねえなぁ」
そう言った途端に、老婆が再び歌いだした。
「♪こぉきじも さぁむかぁろ~ さびしかぁろう~♪」
男は思わず突っ込みを入れた。
「三番かよ! ばあちゃん、本当にボケてんのか?」
「寒くないよ。~ちゃんが一緒だからね」
「もうなに言ってんのかね、このばあさんは……やっぱりボケてやがるな」
そうは言いながら、男は自分が上機嫌であることに自分自身で驚いていた。いつも事の後は、酒びたりにならなければ回復出来ない自分であるはずなのに。そう言えば、男のルーティンワークでもある、事の後は一人で歩いて帰るし、途中で余計な寄り道はしない、を男は軽々と破っていたのである。
「そう言えば、俺のばあちゃんが亡くなった時にも雨が降っていたっけなぁ。あれもこんな冷たい雨の日だったかなぁ?」
「ごめんよ……」
男の背中で老婆がそう呟いた。しかし男には上手く聞こえなかった様だ。透明なビニール傘が奏でる音が大きくなっていたから。そう、冷たい雨が一段と強く降り出したのだ。
「あれ? けど、今は冷たくなんかねえな。てか、生暖かいような……」
男の首筋からは赤い雨が滴り落ちていた。男の意識が急に朦朧としてきた。
「本当にごめんよ……せめて痛くないようにやったからね……」
今度は老婆のしっかりとした言葉が耳元で響いた。
「なんだぁ? ばあちゃん、やっぱり同業者かよ……敵対する組織の……まぁ、いいや。俺だってまともな死に方が出来るとは思ってはいなかったからなぁ……それにばあちゃんにやられるなら……」
そこで男はばったりと倒れた。老婆は男の背中から降りると、
「アンタ、最初からこうなるって気づいていたのだろ? それなのになぜ私を……」
男は最後の声を振り絞るようにして言った。
「世の中のもの総てを憎む生活にも疲れたのさ。きっとアンタにもわかるだろ?」
そう言うと、男はにやり、と笑いながら目を閉じ、そして二度と動こうとはしなかった。
「ああ、今日も確かに冷たい雨が降っていた、だね。~ちゃん……アンタはやっぱり優しい子だったよ。始末屋には所詮向いてはいないのさ。けど……もう冷たい雨に怯えることだけは無くなったわさ……」
老婆は男のコートを再び男の身体に掛け、ついでに透明なビニール傘も横たわった男にかかげると、老婆らしからぬ足取りで十二月下旬の、真夜中の雨の中に消えた。
しかし、何処に消えたとしても、例え百戦錬磨の老婆であったとしても、その身体にも確実に冷たい雨が降っていることだろう。
「雨がふります 雨がふる」が歌い出しの『雨』は、作詞:北原白秋、作曲:弘田龍太郎による日本の童謡・唱歌。 1919年(大正8年)発表。