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妖かしに贈る唄  作者: 樋桧右京
第一節 縁導き
8/22

第一節 縁導き(7)

山腹にある、とある洞窟。

 人里からは離れており、人気は全く無く辺りは夜闇が支配している。大人が並んでも余裕で通れるくらいの口を開けているその入り口の上には、しめ縄がかけられており周辺は草が刈られて掃き清められていた。

 するとそこに一陣の風と共に忽然と、銀髪に黒いドレスの少女が姿を現す。

「ようやく見つけたぞ。このような場所に隠されていたとは……」

 少女は洞窟へと近づくと、しめ縄をくぐる直前に右手を先に伸ばす。

 すると次の瞬間、稲妻のような閃光が迸った。

 少女が咄嗟に腕を引くと、手首から先が、欠け落ちた人形のように無くなっていた。

「忌々しい結界め……だが、今の我が力ならばこの程度など!」

 少女が右腕に力を込めると、無数の触手の様なものが小さく蠢き、手を形作る。そしてそれらが融合して一つとなり、元の物と全く同じ手がそこに出来上がっていた。

 今出来上がったばかりの手を洞窟へとかざすと、歌い始める。

「……בחרו השערים עורב סגור(閉ざされし漆黒の門)」

 少女の歌声とは思えない、低く、聞く者を不快にさせる声。その旋律と共に少女の足下から蠢くように黒い靄が湧き出す。

「……עם מנעול חסון(堅牢なる錠とて)」

 少女の右手に赤黒い光が渦を巻きながら現れ、歌と共に徐々に大きくなっていく。

「……שעה לפני ירידה של נצח(悠久なる刻の滴の前に)」

 赤黒い光は少女の掌よりも大きく膨れあがる。少女は口の端を吊り上げ、笑みを浮かべた。更に光が一回り大きく膨張し、激しく渦を巻く。

 少女が腕を引き、最後の歌詞を歌いながらその光の球を結界の壁にたたきつけようとしたその時。

 ――――お池の水面にゆらゆらと

 少女の声とは対照的な、鈴のような歌声が山々へと響き渡った。

「なんだ、これは? ……フン、不快な歌だ」

 ――――お庭の枝には鳥眠り

 眉を顰める少女であったが、聞こえてくる歌を無視して、己の歌を再開しようとする。

「……שלא מדעת(いつしか)」

 ――――遙々山々この子らを

 しかし響いてくる歌に邪魔をされ、旋律が崩れてしまう。

 少女の手にある光の球は、一瞬大きく膨れあがったかと思うと、次の瞬間にはその場で四方八方へと霧散した。

「く!?」

 少女の思惑を他所に、続けられる歌。

 ――――迎えられるように

「忌々しい歌め!」

 怨嗟の声を吐き出す少女。

 ――――見守ってる

 そして、山々を渡って響いていた歌が終わった瞬間。

 洞窟の中がにわかに光り出し、そのまま光の本流となって少女を包み込んだ。

「なに!?」

 少女は右手をかざし、赤黒く光る、膜のような球体で自分を包み込む。

 数秒して洞窟の光が収まると、少女の膜も消え去る。かざしていた右手を見れば、肘より先が空気に溶け込んでいるかのように無くなっていた。

「……無駄に消耗したか。忌々しい歌い手よ……この借りは必ず返すぞ」

 夜空を仰ぎ、虚空へ向かって少女は吐き捨てると、現れた時のように、また風と共に忽然と姿を消した。


 洞窟から僅かに離れた大木の陰で、様子を窺っていた小さな影が一つ。

 少女が居なくなったのを確認すると、安堵のため息をついた。それも束の間。鋭い視線を洞窟に向けると、呟く。

「時間がなさそう……」

 そして片頬を吊り上げ、笑みを浮かべる。

「だけど、見つけた」


                 ‡


 それから間もなくして宴はお開きとなり、九郎と静音は長の屋敷へと歩いていた。

 道すがら、九郎は尋ねる。

「先程の歌は何の歌ですか?」

 辺りに歌を披露してしまった事を思い出した静音は、顔を伏せるが、恥ずかしさを堪えてなんとかそれに答える。

「あれは子守歌です。その日一日平穏に暮らせた事を感謝し、また平穏な一日が訪れますようにと山神様に願いを込めた」

「……選んだのですか?」

「え?」

「いえ、伯父の太郎坊は、いわゆる山神ですので」

 天狗が山で迷った子供を家まで人知れず送り届けたり、逆に軽んじれば、祟りがある。

 各地で山を守護する天狗は、妖怪ではあるものの人々から、畏怖と畏敬の念を持って崇められ、それ故、一般的には神として扱われる。

「……あ!」

 静音が歌った歌は、間接的に太郎坊を称える歌でもあるのだ。

「……だからこその、あの歌声だったのかもしれませんね」

 素直に驚いた様子の静音に対し、小さく九郎は笑った。長も言っていたが、そこに打算が働いていたのなら、きっとあそこまで静音の歌は妖怪達の心に届かなかったに違いない。

 九郎は隣を歩く静音を見つめながら、その真っ直ぐな心根に感心していた。

 肩を並べて歩く九郎と静音。

 離れた物陰から、妖しく二人を見つめる目がある事を、九郎達は気付く由もなかった。


                 ‡


 宴の翌朝、空は青く晴れ渡り、昼には気温が程良く上がりそうな空気を漂わせていた。

 太郎坊以下妖怪達に見送られ、九郎と静音は門をくぐって、山彦の別れを惜しむ声を背中に里を後にした。

「すっかり人気者ですね」

 歩きながら、からかい半分、感心半分に言う九郎。出立前にも、実は妖怪達からまた歌を歌ってくれと頼まれたが、長がそれを諫めて何とか出発できたのだった。

「あはは……はぁ……」

 乾いた笑いの後、静音は疲れたようにため息を吐き、項垂れた。

「どうしましょう。つい、また来ますなんて言ってしまいました……」

「来なければ、向こうから家まで歌を聴きに行くと言ってましたね」

 歌を皆から請われた時、困った静音はつい口からそんな言葉が出てしまったのだ。

 思っていたほど妖怪達は恐れる必要の無い存在ではあるが、振る舞われた朝食にさり気なく豆腐小僧が豆腐をお膳に混ぜていたりと、人から見れば少々度が過ぎた悪戯好きという面で色々と困った存在である事は確かだ。静音は里の妖怪達にそんな印象を抱いた。

 ちなみに豆腐は食べる直前で九郎が気がついたお陰で、カビだらけにならずに済んだ。

「もし来る事になったら、また一緒に来てくれますか?」

 横で歩きながら、静音は真っ直ぐ、不安そうに潤んだ瞳で九郎を見つめる。

 それに対して九郎は、少し驚いた顔で静音を見返した。

「僕と……ですか?」

「あ、変な意味じゃないですよ! 一人じゃこんな場所まで不安ですし、一緒に来てくれそうな人なんて心当たりないので。かといって本当に妖怪さん達に家まで来られたら、ご近所に迷惑かけちゃいますし……」

 顔を朱に染めて捲し立てる静音の様子がおかしかったのか、九郎は顔を背けると肩を震わせて笑いを堪えていた。

「笑わないで下さい。私、本当に困ってるんですから」

 静音は子供のように頬を膨らませてむくれる。

 笑いが落ち着くと、九郎は向き直り、軽く帽子を持ち上げて詫びた。

「すみません、そのようなつもりは。ただ……」

「ただ?」

 ふと九郎の表情に翳りが差し、静音は怪訝な顔を向ける。

「僕もご存じの通り、半分妖怪です。……良いのですか?」

「あ、そっか……」

 九郎の言葉に、真剣な面持ちで静音は正面を見据える。

 里では妖怪が沢山いたため、その環境の強烈さに九郎が半妖怪だという意識がなかったのかもしれないが、落ち着きを取り戻せばその事実を改めて認識するだろう。そしてそうなれば、人と半妖怪の間を隔てる溝がいつもある。九郎の問いに、何かを考える静音に、九郎は落胆と同時に諦めに似た奇妙な安堵感を抱いた。

 だが、次に発せられた静音の言葉に、九郎は呆然とする羽目になる。

「だから時々ちょっと意地悪なんですね!」

 人差し指を九郎の鼻先に突きつけ、なぜか微妙に得意げに言う静音。

「え?」

「でもそれくらいなら大丈夫です! 負けませんから! カビが生えるとか、そういうのは困りますけど」

 九郎は予想外の答えに瞬息の間、言葉を詰まらせる。

「……そこ、なんですか?」

「え?」

 今度は静音が聞き返す。

「悪戯好きという事ではないんですか? 九郎様は人を襲うような怖い方にはとても見えませんけど……」

 きょとんとした静音の様子に、また、里を出てからころころとよく変わる表情に、九郎はどこか嬉しそうな笑みを浮かべながら、帽子を目深に被った。

「……ええ、そうです。少々人をからかう悪い癖がありましてね」

「まあ。それじゃいつか必ず九郎様を、逆にあっと驚かせて見せます」

「もう提督の妹君というだけで十分驚きましたよ」

「それじゃダメなんです。それはお兄様のお陰であって、私があっと言わせた事になりません」

 それでは不満だとばかりに、静音はツンと顔を反らせる。

 案外負けず嫌いですね、などと九郎は内心思いつつも、今は他愛のないこの会話を楽しんでいた。それが例え束の間の安息であったとしても。

「あ」

 話しをしていると、静音が不意に声を上げて立ち止まった。

 一、二歩先で九郎も立ち止まり、振り返って尋ねる。

「どうしましたか?」

「昨日の狼さん達、敵の兵隊さんなんですよね?」

「ほぼ間違いないと思います。海を渡ってきた、とご丁寧に教えてくれましたし」

「通報した方が良いのではないでしょうか。もし、良からぬ事を企んでいたら……」

 確かに、国内に潜入されているという事実は、軍事的に考えて大問題だろう。

 町に火付けでもされて、その混乱に乗じた作戦を考えていないという保証はない。

「そうですね。では下山しましたら警察に通報を……」

「いえ、それはダメです」

 九郎が首をかしげると、静音が言葉を続ける。

「ネヴィス王国が妖怪を兵にしているというのは、まだ軍内部だけの情報で、公表されていません。私の独断で警察に明かしてしまうわけには……」

 九郎は顎に手を当て、もう片方の手でその肘を支える。

「僕は知ってしまいましたよ?」

「その、九郎様は緊急事態でしたし、不可抗力といいますか……。それに西洋妖怪である事は、すぐにご自身で気がつかれたではないですか」

 静音は慌てながら困った表情になる。とりあえず納得した九郎は小さく頷いた。

「まあ、そうですね。僕が誰かにその事実を漏らしたところで、得をする訳ではありませんし。それでは近くの基地にでも?」

「はい。ここから一番近いのは、陸軍第十六師団の司令基地でしょうか」

 陸軍第十六師団の基地といえば、大和帝国の旧首都である京の都の南。

 九郎は頭の中で地図を思い浮かべてみる。

「そうすると山の反対側ですね。この道から行くとかなりの大回りになりますが、残念ながら、僕は反対側へ抜ける道を知りません」

「そうですか。気は急きますがそれしか……」

 伏し目がちに嘆息を吐く。

「なんやったら案内したろか?」

 諦めかけた二人に、突然かけられる女の子の声があった。

「誰ですか?」

 九郎は、反射的に刀に手をかけ、静音との間を遮りながら声のした方へと振り向く。

 視線の先では、小さな繁みの上端から、三角形をしている動物の耳が覗かせていた。

「待ってぇな。そんな物騒なもん抜かんといて。今出るけんね」

 正体不明の声の主は、そう言うと繁みを揺らし、かき分けながら九郎達の前に出てくる。

 姿を見せたのは、檜扇柄に柑子色の着物を着た、艶やかな黒髪の六、七歳くらいの女の子だ。ただ、普通の女の子と違うのは、頭から出ている大きな、一見犬のような耳と、おしりの辺りから覗く太い、きつね色の尻尾。

「あら、かわいい」

 九郎の横から頭を出して覗き込んだ静音が、嬉しそうな声で言う。

 一方の九郎は、依然刀に手をかけたまま、突如として現れた女の子への警戒を崩さない。

「……形は小さいですが、妖狐ですね」

 特徴的な耳と尾から、すぐに九郎はその正体を特定した。

 すると女の子はとても驚いたのか、跳ね上がった後に一歩後ずさった。

「兄ちゃん、何であちしが妖狐やと分かったん!? 神通力でももっとるんか!?」

「……えっと」

 反応に九郎が困っていると、静音がくすくすと笑いながら、その後ろから話しかける。

「かわいいお耳とシッポね。私は鷹束静音。お名前は?」

 妖狐は顔をはっとさせると、慌てて耳とおしりを両手で押さえる。

 すると手を離した時、そこにはもう狐の耳と尻尾は無くなっており、もうどこにでもいる女の子と変わらない。

「何や、隠しそびれてたんかいな。刀なんかで脅かされたからや。兄ちゃんに感心して損したわ。全く人が悪いなぁ」

 突然悪者にされた九郎は、どこか引きつった笑顔で静音に答えを求める。

「……僕、何かしましたか?」

「さあ、どうでしょう? 九郎様は時々意地悪でいらっしゃるから」

 そう言う静音の方が、悪戯っ子のような笑みを浮かべている。

「ま、えっか。あちしは壬夜や。よろしゅう」

「よろしくね、壬夜ちゃん」

「僕は……」

 刀から手を離し、大きく息を一つ吐くと、九郎も倣って名乗ろうとする。

 だがそれを壬夜が人差し指を立て、左右に小さく振って止めた。

「ちっちっちっ。知ってるで。天城九郎やろ? 何でもあちしにはお見通しや」

「昨日、里にいた妖怪の一人ですか」

 間髪入れずにネタ明かしを言う九郎。

 僅かの間固まっていた壬夜は、悲しそうな瞳を九郎に向ける。

「……少しは驚いてくれんか?」

「……ちょっと難しいですね」

「負からん?」

「負けません」

「はぁー……」

 壬夜は項垂れると大きな溜息を吐いた。

「これでも一生懸命、人を驚かすネタ日々考えてるんやでー。あんじょういかんなぁ」

 危険はないと見た静音が、九郎の横へと進み出る。

「それで壬夜ちゃん、山の向こうへ道案内してくれるってさっき言ってたけど……」

 顔を跳ね上げると、さっきまで落ち込んでいたのはどこ吹く風で、元気いっぱいな壬夜。

「そや! 反対側に抜けたいんなら、あちしが案内したろ思うてな」

 静音はすっかり警戒心が解けているようだったが、九郎はまだ訝しんでいた。

「何故そのような申し出を? あなたに何か得があるのですか?」

 壬夜はそんな九郎の内心を知ってか知らずか、満面の笑みを湛える。

「それはや、もう一回姉ちゃんの歌が聴きたいからや。案内するけん、代わりに後で歌ってくれんか?」

 歌の要求に、静音は困惑混じりの笑み。

「歌……ですか。ま、まあ、人気のない所でだったら構いませんけど」

 それを聞いた壬夜は手を打つ。

「よっしゃ! 決まりや。ほなこっちやでー」

 壬夜は先頭に立って今来た道を少し戻ってから、繁みの陰になっていて、普通には気がつきにくい横道に入っていく。その後ろを九郎、静音の順で付いていった。

 歩き始めてすぐ、九郎は静音の方へと振り返り、壬夜には聞こえないように囁く。

「信用していいのですか?」

「宴の席で壬夜ちゃんの姿を見かけた気もしますし、それに悪い子には見えませんわ」

 正直、九郎は静音の妖怪を見る目に関しては豆腐小僧の例もあり、あまり信じていない。

 だが現状、九郎は静音に雇われている身であり、明確な危険が存在しない限りは雇い主である静音の決定には従うつもりだ。万が一、壬夜が騙すつもりで突然姿を消し、山中に置き去りにされたとしても、九郎には何とかする当てがあったため、素直に従ったというのもある。歩きながら九郎は、先程から気になっていた疑問を壬夜にぶつけてみる。

「ところで、あなたは……」

「あなたやない。壬夜や」

「……では壬夜。言葉に方言が、色々入り混じっているようですが」

「あははは。あちしもここに落ち着く前はあっちこっちさ迷っていたけん、その土地土地の言葉が中途半端に染みついて、気がついたらこんなしゃべり方になっとったけんね」

 それを聞いた九郎の目が一瞬光る。

「ほう……。ではやはり見た目通りの年齢ではないのですね」

「うぐっ……女に歳の事を訊くなんて失礼なんよ! 姉ちゃんもそう思うやろ?」

 人間と妖怪の違いはあれど、壬夜は同じ女性である静音に援護を求めた。

「え? えと、そ、そうかな。たぶん……」

 だが十五歳の静音には、年齢を訊かれたくないという心理はまだ理解できなかった。

 先頭を歩いているため、表情は見えないが、味方のいない事を知った壬夜の声が、ふてくされたものになる。

「若いもんはよかとね。歳なんて気にせんで。やけ酒呷ってやるけん」

 そう言うと壬夜はどこから取り出しのか、いつのまにかその手にとっくりを持っていた。

「まだ昼前なんです。案内してもらわなくてはなりませんし、程々にして下さい」

「人間と違うから心配する事ないっち」

 半ば呆れ声で諭す九郎に対し、とっくりを頭の上で振り回して壬夜は答えた。

 それからしばらく歩き、日が中天に差し掛かった頃。狭い山道がにわかに開け、九郎達の目の前に、入り口にしめ縄がかけられた洞窟が姿を見せた。

「ここらで一休みしよか」

「そうですね。丁度お昼くらいですし。里で頂いたおむすびを食べませんか?」

 壬夜と静音の提案に、特に異論もないため、九郎は素直に頷いた。

 適当な岩を見つけて腰を下ろすと、二人は筍の皮で包まれたおむすびを膝の上で広げた。

 中には、真っ白で一個が拳骨ほどもある三角おむすびが三個に、たくあんが三切れ入っていた。弁当としては極一般的な内容である。

「では、いただきま……」

 静音が両手を合わせて、軽く頭を下げた後に視線を前に戻したその時。

 ヨダレを垂らしながら、おむすびを食い入るように見つめる壬夜の姿があった。

 いつの間にか、消えたはずの耳と尻尾がまた出ている。

「……み、壬夜ちゃん?」

 壬夜はハッと我に返ると体ごと後ろに振り向いた。

「な、何でもないけん、食べて」

「……もしかして、ご飯持ってきてなかったの?」

 壬夜は小さく肩を震わせた後、コクリと頷いた。

「やれやれ、お酒は持っているのに」

 呆れて言う九郎。すると、そんな壬夜を見ていた静音が、自分の隣に場所を空け、そこを軽く叩きながら壬夜を呼ぶ。

「壬夜ちゃん、ここへ座って一緒に食べましょ?」

「い、いいや。あちしは平気やけん。お姉ちゃん食べて」

 壬夜は肩越しに静音へと僅かに視線を向ける。

「せっかくのおむすびだけど、私一人じゃ三個も食べられそうにないから。だから壬夜ちゃんも食べてくれる?」

 そう言った途端に、壬夜は顔を明るく輝かせ、静音の方へと再び向き直る。

「そ、そういう事やったら仕方ないねんな。傷んだらもったいないし」

 駆け寄って隣にちょこんと座った壬夜に、静音はおむすびを差し出す。嬉しそうにその内の一個を手にすると、耳と尻尾を動かしながら、壬夜はおむすびにかぶりつこうとする。

 その時である。不意に壬夜の上に影が落ちた。壬夜の手の動きが止まり、その影の主へと目を向ける。

 そこにいたのは九郎だった。

 食べようとした所で止まったままの壬夜を見下ろす九郎。

 叱られた子供のように壬夜は悲しそうな表情になると、おむすびを下ろし、俯いた。

「……九郎様?」

 静音の問いかけに九郎は答えない。その代わり、手にしていた弁当からおむすびを一個手にすると、壬夜に差し出した。

「僕も三個は多いので一個食べて下さい」

 壬夜は顔を上げると、意外そうな顔で九郎の目を見た。

 静音の分のご飯を取ってしまった事を、咎められていると壬夜は思っていたのだ。

「こう見えても僕は小食なんです」

「せ、せやったら仕方ないねんな。食べたるけん」

 片手に一個ずつおむすびを持った壬夜は、強がりながらも嬉しそうに頬張り始めた。


                 †


 束の間の時が過ぎ、全員弁当を食べ終えて一息吐いた頃。

「ここの洞窟って中に何かあるんでしょうか。しめ縄が飾ってありますけれど……」

 静音が、おむすびを食べながら思っていた疑問を口にした。

 それに答えたのは壬夜だ。

「中には歌の神様を祀った祠があるんよ」

「歌の? 技芸の神様の関係かしら」

 様々な神がもたらす御利益の内、特定の神の、更に特定の御利益だけが注目されて祀られると言う事も、さほど珍しい事ではない。その土地の風習、環境、または時代背景によって、強く求められる物が変わってくるからだ。

「多分そんなところでしょう」

 九郎も静音の意見に頷いて賛同した。ここの妖怪達ですらあれほど歌が好きなのだから、土地柄的にとても歌を好む場所なのかもしれない。そう静音は納得した。

「姉ちゃん歌上手いんやし、見てみんか?」

 壬夜が静音の手を引いて誘うと、静音は素直に立ち上がった。

「そうですね。せっかくだしお参りしていきましょう」

 壬夜に手を引かれて行く静音の後を九郎も追った。

 しかし、先に壬夜達の姿が洞窟の奥へと消え、続いて九郎もしめ縄をくぐった瞬間。九郎は洞窟内の異様な空気を肌で感じた。水の中を歩いてでもいるかのような重圧。その反面、どこか安心できる不思議な感覚。奇妙に入り交じった空気が、九郎を困惑させた。

「ここは一体?」

 九郎が洞窟内を見回していると、奥から二人の話し声がする。

「あら、案外明るいのね」

「そやろ? 何でか知らないんやけど明るいんや」

 その声に導かれて九郎も奥へと進むと、洞窟内のはずなのに、確かに照明がいらないほどに祠の中は明るかった。奥は広くなっており、八畳程度はある。祠の奥からは水滴が滴る音が聞こえてきた。静音は二礼二拍手すると、手を合わせたまま、何事かを願い祈る。そしてそれが終わると、一礼し、九郎の方へと振り返った。

「九郎様もいかがですか?」

「いえ、せっかくですが僕は歌に縁などないですから」

 断りながら、至って普通な様子の静音に、洞窟内の空気の異様さは誰でも感じる物なのではないと九郎は確認する。

「なんやー、何かここに書いてあるで」

 洞窟内、祠の横の壁面を見上げる壬夜の声に誘われて、九郎と静音はそれを見てみる。

「比較的新しい物ですね。せいぜいここ二、三十年といったところでしょうか。祠の造りもそんなに古い物ではないようです」

 そこには畳半畳程の木の板に墨で、詞のような物が書かれていた。


 猛りし雲突く山 荒ぶる翔行く風

 されどいかに激しようとも 刻の川のせせらぎと共に

 いつしか平らとなり 山は恵みをもたらし 風は彼方の地繋ぐ


「どういう意味でしょうか?」

 顎に手を当て、九郎は首を傾げた。しばらく詞に見入っていた静音が、それに答える。

「おそらく自然の平穏や豊穣を願う歌ではないでしょうか」

 それを聞いた九郎はもう一度詞を見返すと、納得して頷いた。

「なあなあ、姉ちゃん。奥から聞こえてくる水音、何か曲に聞こえへん?」

 壬夜が静音の着物の袖を引っ張りながら、祠の奥へ指を指す。

「え? まさかそんな事……」

 静音は疑いつつも、耳を澄ましてみる。

 すると、水の音には音の微妙な高低差と一定の調子が確かに存在していた。

 しばらく耳を傾けていると、書かれている詞と、音の数が一致する事に静音は気がつく。

 水の曲が出だしと思われるところに戻ったとき、静音は曲に合わせて詞を歌ってみる。

「猛りし雲突く山……」

 静音の凛とした歌声が洞窟内に木霊する。気持ちよさそうに歌う静音。

 その歌も終わりに差し掛かる頃。九郎は、静音の横で食い入るように祠を見つめ、耳と尻尾を落ち着き無く動かしている壬夜の様子に目が止まった。九郎の内で吹き出す違和感。

「その歌、待って……」

 嫌な予感がした九郎は、慌てて静音の歌をやめさせようとする。

 だが、それより一瞬早く、静音は歌い終わる。

「……風は彼方の地繋ぐ」

 次の瞬間、洞窟内は目を開けていられない程の光の奔流で埋め尽くされた。

「きゃあ!?」

 静音は余りの眩しさに、腕で光を遮ろうとするものの、虚しい抵抗でしかなかった。

 だがその時、静音は女性の声を聞く。それは明らかに壬夜のものではなく、慈愛に満ち、かつ芯の強さを感じさせる大人の女性の声。

(巫女の声……心……待っていました……あなたに……託します)

「え……?」

 静音は目を覆っているため、見えるはずがないのだが、光の球が祠の方から静音に向かってゆっくりと飛来し、体の中へと消えていくのを見た。

(守って……この国……そして我が子を……)

 途切れ途切れに聞こえてくる声は、次第に遠くなっていく。

「あ、あの、一体?」

 静音は声に問おうとするが、返答が返ってくる事は無かった。

 一瞬だけ更に辺りの光が強くなったかと思うと、急速に収まっていく。

 静音と九郎は、光が収まったと見ると、ゆっくりを顔を覆っていた手を退けて、周りの様子を窺う。洞窟内は先程までの明るさは無く、入り口から差し込む明かりのみで薄暗い。

 すると、先程まで壬夜がいた場所には、見た事のない黒髪に着物の肩をはだけた大人の女性が立っていた。

「んふふふふふふふ……」

 見覚えのない女性は肩を震わせて押し殺したように笑ったかと思うと、ビー玉のような物を手に掲げ、今度は高らかに笑い出す。

「あーはっはっはっ! ようやく、ようやく昔の力をこの手に取り戻したけん!」

 言葉の前半はその女性の口から発せられる声であったが、後半は姿、声共に壬夜へとなっていた。

「……あれ?」

 壬夜は掲げていた手の中を確認するが、つい今し方まであったはずのビー玉のような物が無い。

「なるほど。案内するなどと言って、本当の目的はこれだったのですね」

 壬夜から数歩離れたところ。九郎はビー玉のような物を覗き込んだ後、いつもの笑顔ながらも厳しい視線で壬夜を見つめる。壬夜は九郎へと慌てて駆け寄ると、ぴょんぴょんと跳ねながら、必死にビー玉もどきを取り返そうとするが、身長差から全く届かない。

「返してんかー! 兄ちゃん、それ返してんかー!」

 壬夜の背後で、細かな砂利を踏む足音。

「壬夜ちゃん……どういう事?」

 静音の困惑と僅かにこもった悲しみの声に、壬夜は振り向き、その顔を見上げた。

 微かに潤んだ静音の瞳を見た壬夜は、耳や尻尾と一緒に項垂れた。


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