第一節 縁導き(1)
第一節 縁導き
明慈三十二年、三月も終わる頃。冬に比べ、冷たさを残しつつも優しくなった風が春の薫りを運ぶ。辺りは、昨年豊かな実りをもたらした田畑が広がり、奥に連なる山々も木々が萌えて色づき始めていた。
幻想的なほどに咲き誇る桜の樹上で、うたた寝している青年の頬を風が撫でてすり抜けていく。金ボタンに黒の詰め襟学生服姿の青年は、本来その艶やかな黒髪を収めるはずの学帽を顔の上に載せて目への陽の光を遮っていた。青年は草や花の薫りに鼻をくすぐられて目を覚ます。一度大きく伸びをし、身体を起こすと、腰に差した刀がちゃんとあるかどうかを手で探る。想定通りの物がそこにある事を確認すると、大人二人分の高さがある枝から軽やかに飛び降り、舞い落ちる羽根のように音も無く地に着いた。
歳は十七前後。背丈は一七五センチ程で体格も良く、同じ世代の中でもどちらかといえば大きい方だ。
青年は服に汚れがないかを軽く確認すると、まばらに草の生えている道を歩き出す。
しばらく歩いていると、左手に林が広がり始め、枝一杯に花を咲かせる桜の木も間に見て取れた。すると道の向こうから、一人の老婆が歩いてくるのが目に映る。手拭いを頭に巻き、腰の曲がった背に籠を負っている。腰が曲がってるとは言っても、足取りはとても達者だ。この辺りの農家だろう。
老婆が目の前まで来たとき、青年は軽く脱帽して会釈をし、声をかけた。
「こんにちは。この辺りの桜はとても綺麗ですね」
青年はこの土地の住人ではないが、老婆は特に警戒するでもなく、笑顔の会釈でそれに応えた。
「染井吉野も多いが、御車返し言う桜も多いんじゃ。八重と一重の花が同じ木に咲くんじゃがの。珍しい物らしいが、この辺りではよう見かける」
「良い事を聞きました。ではよく目を凝らして枝を見てみるとします」
お互い再び会釈をすると、各々の方へとまた歩み出す。
多少呟いても老婆に声が届かないほど距離を空けると、青年は言葉が漏れる。
「至って穏やかな住人。この辺りは平和のようですね。仕事もどうやら無さそうだ」
せっかくなので、歩きながら道端で花を付けている桜の枝を確認しては、老婆の言っていた八重一重を探してみた。程なくしてそれらしい一本が目に留まり、よく見てみようと枝を見上げると、なるほど、確かに同じ枝に八重と一重、両方の花がある。
もう少し良く観察しようと、青年が足を踏み出そうとしたその時である。
林の奥から地中を進む何かを見つける。その進んでくる様はモグラのようで、土を盛り上がらせながら蛇行してくる。だが青年は、それが普通のモグラだとは思わなかった。
ただのモグラにしては、盛り土の幅が人間の同程もある事と、その速度だ。こちらに迫る速さが並の人間の走るそれと変わらない。青年は刀の柄に手をかけると、迫ってくる者に対して構えた。モグラもどきは速度を落とす事もなく、青年の眼前にまで来る。
すると突然地面が弾け、粒状になった土が青年の顔や身体に当たる。
「鬼が出ますか蛇が出ますか」
何が姿を現すかと警戒する青年。しかし、地中から現れ、青年の眼に飛び込んできたその姿は、ブーツに矢絣柄の着物と女袴、腰まである黒髪に大きな青いリボンの女学生といった出で立ちの少女だった。
「はうなあああああ!?」
地中から飛び出した少女は、意味不明な叫び声を上げながら目の高さまで宙に舞った。そして、そのまま青年の方へ飛んで来る。驚いた表情の少女は空中で体勢を崩しており、このままでは地面への激突は必至だった。青年は柄から手を離し、手を広げて少女の身体を抱き止める。そして勢いを殺すように己の身体を軸にして一回転し、軟着陸させた。
「大丈夫ですか?」
「ははハははは、ハい、はい。ああアあ、ありガとうございます」
少女は、顔の朱い妖怪『朱の盆』の如く顔を染め上げる。時折声を裏返らせつつ、落ち着かない様子で瞳をくるくると動かしていたが、とりあえず目立った怪我は無い。
穿たれた地面の穴からは、人間程の大きさもある巨大モグラが、なるべく陽光に当たらないように少しだけ顔を出し、人語をその口から発する。
「これ以上は無理じゃけん! 後は自分で何とか逃げてくれぇや!」
巨大モグラはそれだけ言うと、再び地面に潜っていってしまった。
青年はそれを見送ると、少女へと向き直る。
「逃げろ? あなたは何かに追われているのですか?」
少女は顔も髪も土に塗れて酷い状態ではあるが、よく見るとどこか幼さの残る可愛らしい顔立ちをしている。
「あ、あの……」
少女は何とか言葉を発しようと努めるが、その答えを聞くまでもなかった。
林の奥から跳ねるようにして走り、向かってくる三人の人影。
「……そのようですね」
瞬く間に三人は青年達との距離を詰めると、十歩程の距離を取った位置で足を止める。
その人影の正体は、この国の陸軍の軍服に身を包んだ兵士だった。
口髭を蓄えた隊長格の男性が、一歩前に進み出る。
「小僧、その娘をこちらに渡してもらおう」
お前に選択肢は無いとでも言いたげなその声に、青年は眉一つ動かさず、少女を背後へと隠す。そして微かな笑みを浮かべて隊長格の男に問う。
「彼女、何かしたんですか?」
「貴様が知る必要はない」
「まあ、そうなんですが、こちらもせっかく捕まえたものですから……」
青年は隊長格の男に向け、言葉の裏を察するようにという意図を、視線に込める。
「勝手は重々承知の上ですが、お願いします、助けてください!」
少女は言葉の意味を察したのか、絶望に染まった声で青年の袖にしがみつき懇願した。
隊長格の男は青年の言わんとする事をすぐに理解し、口の端を吊り上げた。
「ならば後で陸軍基地まで来るがよい。報奨金を出すよう話を通しておいてやる」
隊長格の男は、青年の返事を待たず、後ろに控えていた二人の兵に、顎で合図をする。
青年は帽子の鍔に手をかけて会釈した。
命令された二人の兵は頷き、無言で走り出すと、少女を取り押さえるために、駆け寄ってくる。だが、兵達が青年のすぐ両脇を駆け抜けようとしたその瞬間。陽光に煌めく白刃の光が、美しい弧を描く。青年は目にも留まらぬ早さで抜刀し、一息の間に二人の兵に斬りつけた。兵は断末魔を上げる間も無く、糸の切れた操り人形の様に、膝から崩れ落ちる。
「嘘を吐くと閻魔様に舌を抜かれてしまうのですよ? もっとも、人間ではないあなた方が同じ場所へと行くのかどうかは、甚だ疑問ではありますが」
青年は淡々と言いながら倒れた兵達に視線を下ろす。そこには先程の陸軍兵の姿はなく、代わりにあるのは獣毛に身を包まれ、狼の頭を持つ人型の生き物の死骸だった。死骸をよく見ると、その目と口が糸のような者で縫いつけられている事に青年は気がつく。
「陸軍にこのように珍妙な人外の兵がいるなどとは初耳ですね。身を隠し陰を露す。大した幻術ですが、謀るのであれば、その強烈な獣臭さも消さなくてはいけませんね」
笑みは絶やさぬまま血の曇りの無い刀を提げ、帽子の陰から鋭い眼光を男へと向ける。
その視線の先にはすでに口髭の男はおらず、倒れている人狼達よりも一回り体躯の大きい、金色の瞳を持つ人狼が立っていた。
「幻術を見破り、しかも、いくら油断していたとはいえ並の武器なんざ通じないオレ達を一太刀でとはな。だが、お前が知らないだけで、本当に陸軍の者だったらどうする気だったんだ?」
「あなたも殺せば僕は無実です」
しれっとした青年の返答に、人狼は空に向かって大きく笑い声を上げた。
「おもしれぇ。遠路はるばる海を渡ってつまらねぇ事しか無いと思っていたが」
「やはり西洋妖怪ですか。この国の妖怪らしからぬ臭いだと思いました。その容姿、確か人狼、あちら的に言えばウェアウルフとかヴァラヴォルフ、とかいう妖怪だと聞き及んでいます」
青年の言葉を受け、人狼は鼻を鳴らしながら自分の腕や脇の下の臭いを確認する。
「……そんなに臭いか?」
「野菜の摂取が、圧倒的に足りてないのではないでしょうか」
的外れな会話に、青年の背後にいる少女が微妙に困惑しているような気配が青年には感じられたが、とりあえず無視する。
「野菜は青臭くて嫌いなんだ。だが忠告は感謝しておこう。だがな……」
人狼は言葉を終える前に地を蹴って、手の鋭い爪を振りかざしながら瞬く間に間合いを詰めてきた。
「その娘は渡してもらうぜ!」
青年は少女を突き放すと、間合いに入らせまいと、刀で縦一文字の白い軌跡を描き出す。
人狼は素早く横に一歩跳んで避けると更に踏み込み、青年に爪を振り下ろした。
冷静にその動きを見極めた青年は、爪が届かないギリギリの所まで後方に跳躍して躱し、体勢の崩れた敵の首めがけて斬り上げる。普通ならばこれで喉笛を捉えるところだ。
だが人狼は片脚と上半身の力で身体をしならせて、刃から逃れた。すかさず返す刀で袈裟懸けに振るうが、人狼は感嘆に値する強靱な脚力で跳躍し、間合いを取った。
その一瞬のやりとりの後、青年は息を吐くと刀を上段に構え直す。肩越しに少女の様子を確認すると、僅かに離れた所から不安気に戦いを見守っていた。
少女の無事を確認した青年は、再び人狼に視線を戻し、その動向に注視する。
「人間がオレの動きに付いてくるとは、正直驚いたぜ。いいねぇいいねぇ」
「お褒めに預かり光栄です」
口の端を吊り上げて心から嬉しそうにしていた人狼であったが、次の瞬間にはその笑みが消える。
「気は進まないが、こっちもあんまり時間をかけられないんでな。仕方ねぇ」
人狼から漂うただならぬ気配に、青年は身構えた。
すると人狼は、耳慣れない言葉をなにやら紡ぎ始める。
「Now I minions.Lamentation is suppressed, has withstood pain.Now is unleashed,Pile of chest stab grudge enemy!(さあ下僕達よ、抑えし慟哭、耐えし痛み、今こそ解き放ち、敵の胸に怨嗟の杭を突き立てろ)」
それはただの言葉ではなく、旋律を伴い、歌に聞こえるものであった。
「戦いの最中に歌……?」
青年は人狼の行動の意味を図りかねた。だが次の瞬間、少女の叫び声と共に、その真意を悟る事になる。
「きゃあああ!? し、死体が!?」
青年の前方に横たわっていた人狼達の死体が突然動き出し、その足で立ち上がってきた。
「死霊使いですか。また趣味の悪い術を使いますね」
青年は顔色一つ変えず、警戒して間合いを取る。
起き上がった人狼達の傷口から流れ出ていたはずの血はすでに止まっている。が、塞がったわけではない。その傷口は依然開いたままであり、心臓が動いていないためだった。
「ちょっと違うんだが、まあそう言うな。オレも本意じゃねぇ。使えと言われててな」
人狼は口調こそ軽いが、その目は強い敵意で溢れていた。そして死霊兵に命を下す。
「Go!」
その言葉を待っていたかのように、生きている人狼と同じか、いや、それ以上の俊敏さで迫る。そして死霊兵は同時に跳躍し、爪を振りかざして宙から青年に襲いかかった。
青年は少女を突き放し、敵が少女の方へと向かわぬよう立ちはだかりつつも、それを避ける。が、一体の攻撃はかろうじてかわしたものの、もう一体の爪が青年の腕を捉え、制服を切り裂いて鮮血を散らした。
「くっ!」
青年が苦痛に顔を歪ませると、人狼は口の端を吊り上げる。
「終わりだ」
一瞬動きの止まった青年に対し、二体の死霊兵が自らの仇を取ろうとするかの様に、爪を大きく振り下ろす。
青年は攻撃を避けきれないと悟り、身体に力を込めて少しでも傷を浅くしようと試みる。
だがその時。
「だめっ!」
少女が悲鳴に近い声で叫んだ瞬間、死霊兵の動きが鎖で拘束された様に一瞬止まった。
「!?」
それはほんの一瞬ではあったものの、青年が命を拾うのには十分な時間だった。
青年は被っていた帽子を左手で取って顔に当てる。するとさっきまで黒い学帽だった物は、瞬時に、朱に染められた長い鼻が特徴の天狗の面へと変貌した。だがその面は半分しか無く、左目と口は顕わになっている。
一瞬動きを止めていた死霊兵であったが、縛を振り払ったかのように、再び動き出す。
しかし、青年の動きは先程までのそれとは異なり、常人の目に追うことが困難な程の速さで刃を閃かせた。死霊兵達は青年にあと僅かで爪が届くと言うところで姿勢が固まったかと思うと、次の瞬間、その身体は幾つにも両断され、崩れ落ちる。そして二度と立ち上がって来る事は無かった。だが一息吐く間もなく、青年の背中に悪寒が走る。
死霊兵の奥にいたはずの人狼が、いつの間にかいない。
「危ない! 右です!」
少女が発した警告を信じ、確認する暇も惜しんで刀を右方向へと振り下ろす。同時に視線をそちらへと向ければ、確かに人狼は死角を突き、右手から間合いを詰めてきている所だった。姿勢を低くして迫る人狼は、それを僅かに横に逸れてかわすと、すくい上げるように爪を振るう。青年はギリギリの所でそれを避け、刀を横に薙ぐ。だが人狼は驚くほどの柔軟な上半身でそれを反ってかわし、そのまま後ろに跳躍して再び間合いを確保する。と、同時に、口端を吊り上げた。
「やるねぇ」
確信していた勝利を逃した人狼は、悔しがるでもなく、感嘆の声を上げた。
「さて、残るはあなただけです」
正眼に刀を構えながら、青年は人狼に向き直った。すると人狼は突然大きく笑い出す。
「はぁっはっはっはっ! せっかくの面白そうな奴だから、俺としちゃあこのまま戦いたいところではある。今はそうもいかねぇ。ここは一つ取り引きといこうじゃねぇか」
「取り引き?」
「俺は部下達の死体を連れて帰りたい。だからこれ以上の戦いは無しだ」
「それで?」
「見逃さねぇというなら、俺は全力でその娘の命を奪う。こっちは別にそれでも構わねぇんだ。お前が腕っ節に自信があるのは分かったが、足手まといを抱えたままで果たしてどこまで戦えるかな?」
青年は一瞬、背後にいる少女に目を向ける。
不安で一杯の面持ちの少女は、すがるように青年を見詰めていた。
視線を戻し、眼前に立つ敵を値踏みしてみる。踏み込みの速さ、仕留める事は無理でも手傷を負わせる自信のあった一撃を難なくかわされた事。それでも一対一であるならば、互角以上にはいけるだろう。だが、人狼の言うとおり、少女を守りながらとなると、少なくとも少女が無傷のままというのは厳しいかもしれない。それに少なくとも、今、こちらがこの人狼を是が非でも倒さなければならない理由はない。
青年は決断すると、刀を鞘に収めた。人狼が不審な動きをしないか注視しながら少女の元へ近寄ると、少女を更に下がらせて自分も人狼との距離を取る。
「物分かりが良くて助かるぜ」
人狼はゆっくりと部下の死体に近づくと、縦に両断された死体は纏めて片脇に、胴を薙がれた死体は下半身を脇に抱えつつ、上半身は腕を掴んで持ち上げた。
「俺の名はザーダック。お前の名は?」
「山田新右衛門と申します」
「ヤマダシンエモンか。また戦えるのを楽しみにしてるぜ。次はその喉笛に牙を突き立ててやるからな」
「謹んで遠慮しておきます」
人狼は背を向けると、死体を担いでいるとは思えない身軽さで、あっという間に林の奥へと姿を消していった。それを見届けると、青年は天狗の面を外す。すると面は再び学帽の形へと戻った。それを被ると、危険が去った事を確認した少女が、深々頭を下げた。
「あの、危ないところをどうもありがとうござい……ああああああア、あのノの?」
礼を言い終える前に、青年は急ぎ歩み寄り、少女の手を取って歩き出す。
突然手を取られて驚いた少女は、また顔を紅潮させ、所々で声が裏返っている。
「さっきの人狼が、どこかに死体を置いたら取って返してこないとも限りません。お話は歩きながらでよろしいでしょうか?」
穏やかさを崩さない青年の言葉に、少女は戸惑いを見せながらも素直に従った。
青年の方が頭一つ背丈が大きいため、必然的に歩幅も異なる。青年に遅れないよう、一生懸命に早足で少女は付いてくる。ちゃんと付いてこれそうな事を確認した青年は、途中で手を離し、人狼が消えていった方角を見遣った。




