ソイナナ
スクンビット通りソイ4にはテロラポットに群生するフジツボのように飲み屋が犇めき合っている古ぼけたビルがある。通称ソイナナ。タイの田舎から始めて出てきた娘達がホアランポーン中央駅で声をかけられて踊り子としてデビューする場所だ。
三階建ての雑居ビルにびっしりと女が客を取るバーが並ぶ。彼女達は今日、明日の食費に困っているので目の色が違う。ここに来ると熱気で悪酔いする事が多い。
我が家の淡白娘がいつに無く情報を貰って来た。蛍川を見た女がいるというのである。カーボーイに居た女だが、今はナナで踊っているらしい。小遣い稼ぎに嘘を言っている可能性も大きいが確かめないわけには行かないので老体に鞭打ってここまでやってきた。
エロチックな体がピンク灯で輝く。店は上階にいくほど過激になっていく。一階の踊り子は水着だが。二階はヌード。三階は白黒ショーや性器から吹き矢を飛ばして風船を割る悪ふざけ。いくら検査を受けているとはいえHIVが頭を過ぎる。誤って客の腕に刺さったらどうなるんだと怒り。馬鹿でない限り利己的な自分に嫌気がさして深酒となる。その上、獣姦なんてのも平気でやるので、良い酒になるわけがない。ただカンボジアの戦地をうろついて一発当てようなんて頃はこれぐらいの刺激が丁度良かった。アル中だ、死にたいだとほざいて見ても、今はここには長くいられない。熱意が足らないんだ。乳首を見せられたぐらいでは、パンツの中のモグラ君は全く反応しない。
『BABY QUEEN』は三階の一番奥にあった。店の外の廊下に短いスカートをはいた女達が待ち構えていて腕を引っ張り、
「WELCOME!」と英語で挨拶する。
大概はえげつない化粧女だが。時々、息をのむ南国美人が踊っていたりする。そんな女に情が移り結婚をした外国人は少なくない。何を隠そう私もその一人だ。ただし嫁は日本人と結婚できる事で舞い上がったのか。きつい体を張った仕事から解放されると思ったのか。親に家が買えると思ったのか。どんな妄想を抱いたのか知らないが。田舎で相談してくると告げて笑顔を振り撒いてソイエカマイの深夜バス乗り場から生まれ故郷のイサーンに帰っていった。
そしてそのまま戻ってこなかったのである。話しでは既にタイ人と結婚していたらしく離婚を告げて旦那に刺し殺されたらしい。本当の事はどうか分からないがララがそう話した。彼女はその女の娘にあたる。十年以上も前の話だがララは一人でその事を告げに田舎からやってきた。まだ小学生の時だ。そして遅れて双生児姉妹のルルが来た。私はその頃、ある事があって酒に溺れていた。腰を引いた人間は戦場には不向きだ。使えるかどうか瀬戸際の低い絵を撮っては知り合いに頼み込んで誤魔化していた。それでも酒量は増えるばかりでガンジャやヘロイン、ハルシオン、その他睡眠薬がないと手が震えてファインダーさへ覗けなくなっていった。
ある夜、娘達は何も言わずソイカーボーイで踊り始めた。そして客をとった。ヒモである。私は娘を売る田舎のタイ人親父と同じ事をして暮らしていたのである。
「どうして放っておいてくれないんだ!」と暴力をふるった事もある。それでも出て行かなかった。毎日食事を用意し、掃除と洗濯をして夜の店に出て行くのである。宗教で頭が冒されているんだ、そうとしか考えようがなかった。
あの子達の姿に耐え切れず私は日本から進出している消費者金融の知り合いに仕事を求めた、債権取立てや行方不明者の捜査。時には内情調査も請け負った。
探偵事務所となったのは、ここ数年程前だ。最近、二人は自由大学のラムカムフェンに通いだし滅多にソイカーボーイで踊る事はないが、欲しい物があると小遣いを稼ぎにいくのである。狂っているかも知れないが、あの娘達には天国に行って欲しいと思う。他にどう祈れば良いのか私には分からなかった。
店の奥に入って行くと、黒ぶちメガネをかけた女がマッサージをしてまわっていた。さすがにここでは踊れまい。ソイカーボーイの婆専門の店『WHITE ROSE』で見たことがあった。蛍川に金を良くねだっていた女だ。私は真顔で女に近づいた。女も覚えていたらしく席に誘った。
「蛍川を見たんだって」と尋ねると手を出した。
「ハーロイバーツ(五百バーツ札)」と金を要求する。これで私は踊らなくて良いと笑顔でビールを運んでくる。ちゃっかり自分のコーラも持っている。百八十バーツか。
「いつ、どこで見たんだ?」と女につき合っている暇は無いのでタイ語で口早に聞いた。
四方に仕掛けられたスピーカーが大音響でダンスミュージックを
流しているので声が聞き取れない。全く領収書が無い経費がタイは
多すぎる。まさか酒代を請求するわけにはいかない。
店の外で話を聞きたいと言うと。今は仕事中だから駄目だという。
外に行きたいなら連れ出し料金五百バーツとチップ千五百バーツを
払ってくれという。私は話を聞きたいだけだからチップは必要ないだろうと言うと、猛烈に失望したという仕草で手を出す。
「ハーロイバーツ」こんな所で油を売っている場合ではないので札をわたした。
テーブルでは屋台で買ってきた飯を踊り子達が不味そうに食べていた。タイ人が上手そうに食べるのを見た事が無い。それに良く残す。どうも食べる行為は汚れた習慣と思っているところがある。
その女達を隅に追いやりビールを持って座った。女は愛想良く指示に従う。見たのはあの爆破事件があった次の日だという。旧ヤオハン、今はフォーチュンタウンとなっているビルで買い物をしていたという。
「本当に蛍川だったか、彼はあの事故で死んだと思われている」と告げると絶対間違いないといった。
女に蛍川がいた店の名前をタイ語で書かして百バーツ払った。
その足でフォーチュンタウンに向かった。まだ六時だ。上手くすれば開店しているかも知れない。だがバンコクの常識、大渋滞が始まる時間でもある。私はBTSスカイトレインと地下鉄を乗り継いでラマ9の駅に向かった。合わせて二十五バーツ。こんな立派な駅を建てて採算が合うのかと思う。日本からの有償だか無償だか知らないが円借款が工事費の八十%を占める。
まだ広告さえない壁に堂々と日本公団のマークが貼られている。田舎の老人達がこつこつ貯めた郵便貯金がこんな所で役立っているのである。
タクシーで行けば渋滞にはまって一時間半はかかる所を二十分で到着した。駅数にして五つだから当たり前ではあるんだが。
地下鉄の階段を上りビルの中に入る。一階は食品売り場やファーストフード店が並ぶ。日本ではどう呼ぶか知らないが、こちらではケンタッキーフライドチキンを短縮してKFCとを呼ぶ。その店の向かい側の金行(貴金属店)で見たと言われたが、見つからない。
メモはタイ文字なので見当もつかない。ララを呼ばなかった事を後悔した。考えても始まらないのでKFCで飲み物を買いメモの店がわかるかと英語で聞いた。
ここがタイ人のいい所だ。仕事の優先順位はすぐに無視して親切に聞いてくれる。どんな長い列が出来ていようがお構いなしだ。暫く考える様子でメモを睨みつけた青年は一つ向こう側のKFCじゃないかと告げた。それだけ聞けば十分だ。
まどろっこしい。一つのビルに同じ店を作るんじゃない。
七時が迫っていたので勤め帰りの客達が増えてきた通路を小走りに進んだ。
金行になんか何の用があるんだ。店はスーパーのロータスが入っている側ではなくホテルに近い場所にあった。表から見る限り特に変わった様子は無い。
中に入り日本人が来なかったかと聞いた。警戒しているのか胡散臭そうにこちらを睨まれた。私はポケットか蛍川の証明写真を取り出し見せた。ついでに毎度利用させて頂いている保険会社の調査員というネームカードを見せる。
「知らない」と最初は素っ気無かったが、先日の爆破事件に関与している悪い奴だと言うと。奥から時計を持って現れた。ロレックスのデイトナコスモグラフだ。蛍川の自慢話を思い出した。
「日本では予約をしてもこの時計は手に入らないんですよ」と宝物でも扱うように絹のハンカチで磨いていた。まだ持ってやがったのか、ただ飯食いのくせに。
私は彼がまた現れたら、気付かれないように電話をしてくれと頼んでハーロイバーツを渡した。親爺はにっこりと微笑んで私を見送ってくれた。
生きているのならどうして私に連絡してこない……。
5
ソファーから起き上がり干乾びた雨蛙となった身体を伸ばす。
「蛍川!」と呼んで居ない事を思い出した。ララの余計な説教に付き合わされたおかげで私の両眼は未だにちかちかと点滅している。危ない事はしないでくれって、自分が母親になった気分でいやがる。ルルはすぐ泣くからこっちに話すともっと厄介な事になる。うちの家族は血が繋がっているわけではないし、籍が入っているわけでもないのに、どうしてこうお節介なんだ。私が怪我の軽い事を示すために首のギブスを外すと、
「ギャアーギャアー」と喚きやがった。でもそれ以上怒らすとまた買ってきた酒を全て炊事場に捨てるし。下手すると、
「お寺に行きましょう」が始まるので病院に行くと言って昨日は収めた。
だったら毎日見に来いって言うんだ。三日も入院していた事に気づかなかったくせに。電話で蛍川の事を聞いた時は何も言わなかったじゃないか。タイ語で詳しい話しなど出来るか。だから日本語を
覚えてくれと頼んでいるんだ。
飲まないことには耳も聞こえそうにないのでビールでもやるかと冷蔵庫を開けたが空っぽだった。ララが洗濯物を取りに来るまでは少し時間がある。待つとするか。煙草に火をつけようとすると電話が鳴った。
「はい、はい」日本語、女の声がした。タイ人ではない発音だ。
「母から依頼の事で連絡を頂ける事になっていると思うのですが…」
「ああ、はい……」
「どういった状況なんでしょうか?」
「と言いますと……」
「プエラリアの事をお聞きになっていないんですか?」と不安げな声がした。
「すっかり忘れてました」とは答えられない。爆破事件の事でも持ち出そうかと思ったが別に関係ないので止めた。
「はい分かっております。今、現地人と交渉しているところです。北西の地と言いましても、日本人が行って分かる場所じゃありませんので……」
「そうですが」と気落ちした小さなため息が洩れた。声でイカす女だ。放っては置けない。私のモグラ君が反応している。
「では至急現地と連絡を取りまして、そちらにご報告に上がります。どちらにお伺いすれば?」それに少し金を貰わない事には仕事も進まない。
「シェラトングランデホテルです。スクンビットストリートと申すのでしょうか、そちらに宿泊しております」
「分かりました。じゃあロビーに着いたら連絡いたします」と私は電話を切り眉間辺りを拳骨で少し小突いてみた。聞こえるじゃねぇか老体。まだ、まだ行ける。
私は急いでタイ人のスタッフに連絡を取った。スタッフと言ってもカラオケバーでホステスをしている女の兄貴だけど。北西の街の出身らしい。
連絡はつかなかったが、取りあえず話だけはするかとスクンビット通りソイ19にモトサイを走らせた。
ホテルは一泊八千バーツ。この街では五つ星って事になっている。
確か最上階には宿泊客専用のビアバーがあるはずだ。
上から眺める景色はどこの街も同じだ。子供の頃、梯子を掛けて
屋根の上に昇った興奮は起らない。エレベーターは勇気が無くても上に連れて行ってくれる。屋上に出て避雷針にでも昇ればあの時の興奮が思い出せるだろうか。
目の前にもっと手っ取り早い存在が居るのだから無理して昇る必要はないんだが。母親に似たのか、それとも私の目がおかしくなっているのか肌が透けて見えるほど白い。首筋は血管が青白く透けてるじゃないか。髪は黒髪。古風だねぇ。この暑いのに空色のスーツとはお上品で宜しい。どうせならお母様と衣装をとっかえて貰えばもっと良かったのに。切れ長の目に涙袋がふっくらと膨らみ、睫が丁寧にカールされている。瞳は少し潤んでるじゃないか。鼻梁から唇にかけてフランス人形を思わせるほど繊細だ。顎には小さな黒子。料理を口に入れる際、恥ずかしいのか口元を何度か手で隠す仕草。忘れて何年たったろうか、久々に羞恥心って言葉を思い出した。こちらを見ては少し長めに視線をお合わせになる。空地で屯する野良犬の一匹を見る目だ。子供の頃、給食のパンでも残して与えていたのだろうか。それもソンブン(お布施)って事で、この街じゃ一番尊い事にされていますが……。
「今朝、現地の方に連絡を入れました。一つや二つなら横流しをして貰えるそうですが、一トンという規模になりますと。ご存知でしょうがプエラリアはこっちでガウクルアと言うのですが、朝鮮人参と同じで土の養分をこれでもかって吸い上げるらしいんですよ。ですから群生して見つかる事はめったにありません。栽培を試みている人もいるんですが……」
「そうですよね。お母様はお金さえ積めば何でも解決出来ると思ってらっしゃるんだから」とちょっと失望したと遠回しに言っているようだ。
「少し時間を下さい。何とか大きな山を探して見せますから」
「方策でもお持ちなんですか?」
「いざって時は私が現地に行きます」
「本当?」
「もちろん」と胸を張った。行き方すら分からない。と言うか道などあるはずはない。北西部とは言っても熱帯雨林の山の中だ。それにゴールデントライアングルと言われる阿片の生産地でもある。とても危ない。
「その間、車を手配しますから秋冷さんは観光でもなさっててください。どこか行きたい場所はありませんか? パタヤビーチなんてどうです。仕事があるので私はお供できませんがボディガードをつけろと仰るんであればすぐにでも……」何なら私が付き添っても良いのだが手抜きが見破られると後々面倒だ。こういう時の為に蛍川を住まわせてやっていたのに、あの馬鹿どこをうろついてやがる。
「一つだとすぐにでも?」
「タイは交通事情が悪いものですから、それに空輸で見つかります
と没収されたりしますので」
「五日間?」
「それだけあれば何とか……」と言って彼女の胸に目をやった。そこそこあるじゃないか。Cカップ。最近はまがい物のブラジャーが出回っているからわからねぇが。私の視線に気付いたのか、ちょっと恥ずかしそうに胸元のシャツを整えた。
「私も女性ですから興味は持っております。お母様にも試してみる
ようにと言われましたから市販の粉末を何度か飲みました。確かに……」
「確かに?」
「私のことは……」元々、プエタリアというのは北部少数民族のモン族が健康食品として食べていたものだ。豆化の植物で根の部分に養分を溜めて二年ほど経つと拳ほどの芋になる。十年物になるととんでもない高値で取引されるらしい。何でも女性ホルモンのエストロゲンと同じ働きをするイソフラボンが多く含まれていて豊胸効果が絶大だと説明されている。良くあるまがい物の健康食品かと思われがちだが、イギリスの科学専門誌『ネイチャー』に取り上げられ。日本の商社も手を出しているところ見ると、それなりに効果があるのではないかと思う。男には関係ないことだが、女性の乳房が艶やかな張りと大きさを保ってくれるのは嬉しい事だ。
「効果があったと受け取っておきましょう。それで費用の方なんですが……」
「日本円でいいかしら、バーツは持ち合わせがないの」と言ってハンドバックに手をやった
「もちろん。日本円はどこの国でも大歓迎です」と愛想笑いを浮かべた。
手元に十万円が渡された。こりゃあボロ儲けだ。このまま、お嬢ちゃんとくっちゃべっていれば当面酒代に事欠く事はなさそうだ。私は挨拶をして立ち去ろうとすると、秋冷は言い残した事があるとでも良いたげな表情になった。
「他に行きたいところでも思い出しました?」と瞳を覗き込んだ。
「お金を払えば何でもしてくださるんですか?」
「殺し以外は……」と見つめて言ってみる。ここはやっぱりバイブルではない、バイブレーターでもない。パイプでも取り出すか……。が、この街でもレストランは全面禁煙なんだ。全くこれが二十一世紀って奴だ。清潔、健康、綺麗好きの人間が増えちまって。まったく耄碌爺の探偵は住み辛い。そのうち飴玉パイプの煙草味なんてのが登場するんじゃねぇだろうなぁ……。
「私の部屋に来ていただけます」と窺う目で小さな笑窪を作りやがる。この艶々した唇から出てくる首筋を擽る甘ったるい声に何人の男が騙されたんだろうか。モグラ君より、今宵は酒瓶を抱いて寝ようと思った所なのに。五十男を誑かせるつもりか。
思ったより質素な普通のツィンベッドの部屋だった。金持ちのくせに節約とは良い心がけじゃねぇか。
デスクの椅子に座り。彼女がスーツケースから何やら取り出すのを見ていた。
首のギブスを見て安パイと思われたのかね……。桃色の期待は消えたなぁ。ここで鞭でも取り出された日にゃ、いくら鎌首擡げたモグラ君でも退散を告げざるおえないわな。
「これなんですが、見覚えありますよね?」と薄汚れた週刊誌を渡された。年代物だ、昭和の文字が見える。こんな古い物。日本でプレミアでもつきはじめたのか。最近我が祖国のマニア達は突拍子もないものに金を出したがるからな。この前、こっちで見つけた山口百恵の写真集に七万円の値がつきやがった。ガキの小遣い稼ぎと馬鹿にはできねぇ。
「付箋のついているページです」と家庭教師が、穀潰しの馬鹿息子に教えるように丁寧に開いてくれた。
『カンボジア難民、タイ国境に流入。警備隊と小競り合い』と古い話だ。今ではアランヤプラテートの国境沿いにはカジノが乱立している。昔の地雷の溜まり場とは大違いだ。
「随分古い記事ですね、これが?」
「思い出されませんか」
「酒で一度脳内を消去してまして……」
「桐生耕市さんと言うのは貴方の事だとお伺いしたんですが?」
「また懐かしい名前ですなぁ。それで何をお知りになりたいんですか?」と私は努めて冷静な口調で喋った。あの頃の事は思い出したくも無い。考えただけで人間が腐乱する姿と硝煙の臭いが蘇り脳が酒を求めた。私は冷蔵庫の上にあったウォッカのミニボトルに手を伸ばした。
「聞いてはいけない事でした?」
「そんな事は……仕事に必要であれば喋らせて頂きます」
「率直に言います。そこに載っている難民キャンプのボランティア青年の事で聞きたいことがあります。その二ページ目の写真です。彼の名前は三村由蘭。私の父親です。覚えていらっしゃいませんか?」私は週刊誌を持上げ、色あせて変色したモノクロ写真と秋冷の顔を見比べた。心当たりなどあるはずがない。これは戦場写真、毎日シャッターを切っては沢山のフィルムを現像していた。
「私は施設で育ちました。今の養母に引き取られたのは十歳の時で
す。実は実母が最近なくなりまして遺言書と共にこの週刊誌が残さ
れました。母親の文面にはその写真が父親だと書いてありました」
けったいな話を持ち出されて少々むかつき始めていた。そんな昔の事を掘りおこそうというのか。
「確かその方は病死されたと記憶しています。劣悪な環境でした。
飲み水さえ満足に行き渡らない。多分マラリアか何かだと思います」
「葬儀とかは?」
「私は難民キャンプに居たわけではないので……ボランティアの事なら蛍川が詳しいので聞いておきましょう」
「写真を撮られた時はまだ元気だったんでしょうか?」
「特にこれといって記憶はないのです。あの時は……どう言えば良いのか。狂った世界でしたから。戦場で他人の事を思い出すのは……酒ばかり、流したかったのです悲惨な現場の事を。だから現像したらすぐ忘れていました。そうしないと飯も喰えないのです。この指を吹っ飛ばされてからはなおさら……」と右手の親指を見せた、第一関節から先がもげている。顔の無い親指。銃弾がカメラに命中して吹き飛ばした。
「ごめんなさい嫌な事を思い出させて」
「いえ……」
「父が生きている可能性はあるとお思いですか?」
「私がこんな所で生きているのですから。否定はできません」
「捜して頂けませんか? 何でも良いです。父の話があればどんなことでも……」
「あなたは大人だ。未来も輝いているように見えますが……」
「確かにお母様のおかげで金銭的には何不自由ない生活をさせていただいています。ですが血の繋がった父親が、母と私を置去りにしてまでやりたかった事は何だったのか。ボランティアだけでは納得できないんです。どうして、どうしてって今でも……」
「人助けで良いじゃないですか。お父さんは食べ物も住む所も着る物も無くて、毎日土の上で餓死していく子供達を見捨てられなかった。それでは駄目ですか?」
「私は良いと仰るのですか。まだ赤ん坊だった私は……」
「日本人は飢え死にする事はない」
「そんな……」と険しい視線を向けた。嫌われたくない女にどうして私はいつも本当の事を言う事になる。五十を過ぎた。神様もそろそろお役ご免にはしてくれないだろうか。
「当たってみましょう。その週刊誌をコピーさせて貰えますか。私が写真を撮ったのなら何かの縁かもしれない」
「有難うございます」と秋冷は雑誌を渡した。
「お母様はご存知なんですか、この事を?」秋冷は下唇を少し噛み
強烈な視線をこちらに向けた。メンチの切りあいなら負けんぞと意気込んで眉間にしわを寄せたが、所詮中年酔っ払いの強がり、シャッターを切っていた頃の輝きは戻るわけもなく、すごすごと白旗を振り降参した。
小娘とくっちゃべってれば酒代に事欠かないと。薄っぺらな下心でやってくるからこういう事になるんだ。
レストランでパイプが使えていれば、一服して「今日はこれで失礼」と立ち去れたものを。喜劇は悲劇を呼ぶから怖い。あの目で見られちゃ、また厄介ごとの予感がして早く酒場に突進したかった。
最初からそうしていればこの指も吹っ飛ぶ事もなかった。私は地球が太陽の周りを十三回も巡ったというのに成長しなかった。また同じ事の繰り返しだ。