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ホスピタル

ホスピタルの中は快適だと聞いていたが、思ったほどではなかった。その上、首をコルセットで固定されているので動きづらい。


 また看護婦がやって来やがった。点滴をする気だな。私は何日眠った。記憶が薄れる。こうやって植物人間にするつもりか。ドアが開いた。やっと助け舟か。ここは警察病院じゃないだろう。誰が連れてきたんだバムーンラッドなんて高い病院。それも個室なんか。幾らかかるんだ。世界には私のように金の無い日本人がいる事も考えて欲しい。観光客よ、もう少し貧乏であってくれ。見栄っ張りは同胞の為にならんぞ!


「お目覚めのようですね」と鼠色の背広を着た目立たない男が立っていた。白衣はどうしたんだ。まさかお前、私の命を奪う気じゃあるまいな。腕から血管に流れ込む針を引き抜くんだ。このままじゃ殺られる。奴がポケットから何か取り出した。サイレンサー付きのベレッタ二十二口径か。お上品な武器だな。でも三十センチ手前から狙われれば確実にあの世行きだ。おい蛍川。どういうことだ? どうして難民キャンプのベッドにこんな奴が来るんだ。


 首を動かせないので視覚がままならない、その分恐怖は増幅した。


「どうされました、どこか痛みますか。看護婦を呼びましょうか?」と男は不安そうな声を出した。この病院もグルなんだな。ここで殺して地下の死体置き場に連れて行けば爆死って事で済ませられる。さっきの馬鹿看護婦、何度も人の腕に針を刺しやがって。


「大丈夫ですか?」と覗き込む。


「こっちに来るな!」とやっと男の顔が視覚に入ったので目の玉だけ動かし睨みつけた。


「安心してください、私は大使館のものです」と男は右手を上げた。銀色に光るベレッタはいつの間にかモバイルフォンに摩り替わっていた。胸ポケットから名刺を出す。


「西山と申します。タイ国日本大使館で二等書記官をしております」と三十代と思しき男は緊張した口調で喋った。


「私はあんたの事など知らん」


「ええ、初対面のはずです。桐生耕市さんですね?」


「何者だ? 金は無いぞ。買うものはない」


「いえ、セールスとかそういう事ではなく。少しお話をお聞きしたいんです」


「ビザのことか。今は知り合いの会社の社員だ。ワークパーミットも持っている。滞在は出来る。問題は無いはずだ」


「いえ、そういう事でもありません。あの爆破事件の事を少し詳しくお聞きしたいんです。多分、タイ警察の方からも要請があると思いますが、わが国といたしましても情報を把握しておきませんと。それに亡くなった方の身元確認をお願いできたら……」


「亡くなった……そうだ、蛍川はどうした。あいつはどこだ。まだカオイダンの難民キャンプか?」


「いえ……カオイダンでは……」


「じゃあどこだ、また山に入って行ったのか?」


「山といいますと?」


「ポルポトだよ、奴らと話をつけないと何人殺されるか。バスはどうなった?」


「困りましたね……爆発の影響でフラッシュバックされているようです。ポルポトは数年前に亡くなりました。今は二千四年。アテネオリンピックが開催されています」


「アテネ……」


「そうです。貴方はソイカーボーイでお酒を飲まれている時、何者かが仕掛けた爆発物によって被害にあわれた。現在のところ頚椎打撲と脚にガラスによる裂傷が数箇所あります」


「……そうだ! 蛍川はどうした。店の女達は?」


「申し上げにくい事なのですが、事実を認識して頂けませんとお話をお伺いするのに支障をきたしますので正確にお伝えします。『DOLLHOUSE』に仕掛けられた爆発物によって十二名が死亡。うち在留邦人死者四名。今のところ確認が取れた人物の中に蛍川さんの名前は見当たりません。ただ何分にも遺体の損傷が甚だ激しく。とても……」


「何が起ったんだ? 事故じゃないのか。爆発物とはなんだ?」


「タイ警察からは爆発物だと。話しによると地雷の破片が見つかったとか。でもまだはっきりした事は分かっておりません。何のためなのかも。一説では南部のイスラム過激派組織の仕業とも言われていますが。犯行声明は四日たった今も出ていません」


「テロと言いたいのか?」


「まだわかりません……ただ……」と西山が躊躇う口振りになった。


「何だ?」


「わからないんですが。かなり色々な方面で要職に就かれている方が被害に遭われています。私どもの同僚である後藤一等書記官もそのその中に含まれます。どうしてあの場所にいたか定かではないのですが……」


「酒場に行く目的が他にあるのか?」


「後藤書記官はお酒を召し上がりません」


「じゃあ、女の方か……」


「……」この男はあからさまな言葉は好きでないらしい、咳払いをした。


「蛍川はけが人の中にも入っていないのか?」


「ええ、あの事故で助かった日本人は貴方だけです。タイ人のけが人はこちらの病院ではなく、警察本部施設内の病院に搬送されました」


「その中に含まれているという事は?」


「わかりません。わたしどもにタイ警察から貴方を引きとってくれと連絡があり。あとは遺体の確認でした……」と口元が震えだした。


「安置所に行ったのか?」


「とても人間と呼べる姿ではありません。死体になれているタイ人も驚いてました……」


「残りの三人の身元は?」


「二人はどうやらこちらの日系企業に勤める駐在員と長期出張で来ていた社員のようです。あす奥さんが身元確認の為に日本から来られる事になっています。一人は身元不明です」と事務的な口調に戻して話した。思い出した。前に座っていた日本人だ。パンツがどうとかと言っていた。あんよの間を見ている間にガラスを突き破り天国まで召されたという事か。やはり地獄には近い。儚く脆くリアルに命が消えていく。中々死ねない老後王国とは違う。楽しんで死ねた。そう思うしかない。ただ場所が場所だけに家族にとっては別の意味の辛さもあるだろう。良い死に方ではない。いや死に方に良いもクソもねぇ! 死んだら終わりだ。保証書はねぇんだ。


「身元の分からない人間はどんな背格好だった。メガネをしていたか。それに服は。短パンだったか?」と必死に蛍川を思い出そうとしたが出てくる姿はカオイダンで出会った頃の若々しい顔でしかなかった。


「それで、よろしければ確認を?」


「警察病院か?」


「そうです」と男は頷いた。感情を無理に押し殺した言葉が衝撃の大きさを物語っていた。もし死体が蛍川であったとしたら私は冷静さを保てるだろうか。戦場で写真を撮っていた時ならまだしも、今は干支がニ周もして、腹が出て糖尿病の心配までし始めた。そんな老い耄れの中年が……。


「行こう」と私は点滴の針を抜こうとした。こんな所で寝ている場合ではない。私にも魂は残っている。犯人に対する怒りが湧いた。


この何年も放棄していた強い衝動。あの不幸な若い踊り子達まで巻き込んだというのか。誰が何の目的で……。


「いいです。点滴が終るまで待ちます」


「こんなもの良い!」


「良くありません」


「四日経ったんだろう。冷凍保存でもしてくれているのか?」


「それは……」


「腐ったのは見たくない」と私は針を抜いた。両足を踏ん張ると腿の辺りが引き攣って痛んだ。何針か縫っているようだ。


「ここの支払いは?」


「保険に加入されていないんですか?」


「まさか爆殺されるとは思わなかった」


「まだどうなるか分かりませんが。大使館の方でも協力はしたいと思います……」


「私は協力すると言っているのですぞ」


「それはそうなんですが……」と西山は頭を下げた。とにかく立て替えて貰わない事には病院も出て行けない。昔は日本のODAで建設された事もあって、日本人に対しては特別優遇を計っていたが経営不振で閉鎖の危機に陥った。その後、株式上場が上手く行き経営は改善されたが、それに伴って支払いは非常に煩く言い出した。保険に加入していない事が分かるとクレジットカードを見せるまでは診察もしない。受付では通訳が毎度その事で患者と言い争っていた。せめて病院には資本主義を導入して欲しくないものだ。老人会館になるのも考え物だが……。


「あんた今、いくら手持ちがある?」


「それは大丈夫です。大使館が保障しますから。ただ後ほど請求が、最近色々と問題が多くて一存では決められないのです。そこの所をご了解願います」


「はいはい。協力させて頂きましょう」と私は起き上がって着替えようとしたが服が無い事に気付いた。


「着ていらっしゃった衣類は使いものにならないのでこれをお使いください」と西山はロビンソンデパートの袋からズボンとポロシャツを取り出した。中には下着も入っているようだ。


「私はドアの外でお待ちしています」


「すまんねえ、気を使わせてしまって」


「大丈夫です。これはポケットマネーですから」


「そうかい、それは益々申し訳ない」とため息をついた。官僚の頭の固さにはあきれ返る。少しはタイ人の合理性を見習え。私は服を着替えた。ウエストが苦しいのでボタンを留めるのを諦める。少しチャックが開くが仕方ねぇ。鞭打ちのコルセットは取るわけには行きそうも無い。太股も痛い。本来なら車椅子をよこしやがれと騒ぐところだが、蛍川の事が気になってアドレナリンが脳細胞を駆け巡っていた。今なら首が吹っ飛んでいても走れそうだ。


 警察病院はラチャダムリ通り沿いの警察本部にあった。黒塗りのベンツに乗るのは何年ぶりだ。取材でカンボジア国王に会った時以来か。鉄柵の前でM16を持った軍人が見張っている。その男達に見向きもしないで西山は身分証明書を事務員に見せる。さすが大使館員。最敬礼まで返されて建物に通された。


 一階に入るとすぐに地下の階段に向かう。


 死体置き場はどこの国でも地面の下と決まっている。魂は封じ込めないと霊となって彷徨い出すとでも言うのだろうか。


 線香の匂いと供花が否応無しに喪の気分に向かわせた。ドアを開けた西山は私に先に入れと手招きした。


 恐怖感に苛まれるには時間が経ちすぎていた。それに確認できる状態ではない。シーツを捲るとベッドの上に焼け焦げた肉塊が転がっていた。唯一、腕だけが人間の姿を残している。吐き気が胃からせりあがった。西山は入口付近から動こうとしない。


 四体のベッドを周ったが、蛍川を確認する事は出来なかった。


「顔が無いんじゃどうしょうもない」と西山に視線を向けた。


「そうですね……」と彼は気持ち悪くなったのか、ハンカチを口元に当てて外に出た。私もこれ以上いても仕方ないので霊安室のドアを閉めた。


「どうして腕だけで日本人と分かるんだ?」


「タイ警察の方が……」


「信用するのか?」


「髪とか爪、DNA鑑定を出来るものがありますか?」


「どうかなあ……枕に髪くらいは残っているかもしれないが。掃除好きの娘がいるもので、探してみる」


「そうしてください」


「あんたの上司っていうのは一番奥の……」


「間違いありません」


「酷いもんだな、首から下が無いっていうのは……」と言うと西山は耐えられなくなったのか小走りに走って行った。大使館員のくせに意気地がねぇなぁ。私は首が痛むので背筋を伸ばして用心深く奴が待つ車に向かって進んだ。


 ドアを開けると後部座席で放心状態だ。手間のかかる野郎だ。タイ人の運転手がこっちを向く、


「どこに行く?」と言われてもだな。今更病院に戻っても仕方が無いし、事務所に寄るとするか。その前にララに電話だ。無言で車窓を眺めている西山からモバイルフォンを借りてダイヤルする。


「ララ、私だ」と言って反応を待つ。涙声の一つも聞けるかと思ったら、淡々と怪しい日本語でメモを報告された。お前の保護者がどんな状況になってるか知らんのか。まったくこの娘は。あの世に行く所だったんだぞ。


 かかって来た電話は二件。秋冷って女と。西山って、この男か。


「蛍川は帰ってきたか?」


「知らない」って素っ気無いな。突然音が遠くなる。話を最後まで聞かんか。私は病院に入院してたんだぞ。


「バイバイ」って面倒な日本語を警戒して切る気か。そんな電話があるか!


 タイ人に剥きになっても仕方ないので諦めた。


「どうする?」


「とにかく車を出しましょう。警察にいても仕方ないですから」と首を背けたまま言う。


「ソイカーボーイに戻って見るか?」


「あの通りは進入禁止で今は警察しか入れません」


「少し飲みに行くか?」


「勤務中ですから」


「そんな顔で戻られたら、他の奴らが迷惑だ」西山は力の無い顔でこっちを一瞬睨みつけた。


「ラチャダにしてください。MPならセキュリティがいるので怪しい奴は入れません」


「そんな事を気にしているのか?」


「用心に越した事はありません、誰が狙われているのか分からないんですから」


「バンコクでテロなんて……」と言って昔を思い出した。クーデターが頻発していた九十年頃まではM16を持った軍人が主要道路の警備所で立っていた。今はツーリストポリスになっている。


 運転手がスクンビット通りの外れからエクスプレスウェイのゲートに入った。警備なのか陸軍兵士がいる。少しテロを身近に感じた。


「この車は防弾ガラスなのか?」


「いいえ」


「機関銃で連射なんて事はないだろうな?」


「そうなれば誰が狙われているかハッキリしますね」皮肉を言う若造だ。しばいてやろうかと思ったが首が動かないので止めた。銃弾がなんだ、そうなりゃその時だ。私に殺されなきゃいかん理由など無い。


 高速をリンデンで下りてラチャダ通りに向かう。ジャスコやロビンソンのモール群まで渋滞が続いているようだ。イスラム過激派の仕業と決まったわけではないが、マレー系の男が隣りの車内に見えると気になって居眠りも出来ない。


 案の定、信号待ちだったようで。ジャスコを過ぎると解消された。バンコクでは時差式になっていない信号が渋滞の原因になることが多い。それも警察官が手動で操作したりするので二十分も平気で赤が続く事があった。BTS(高架鉄道)や地下鉄も良いが、信号を直すのが先決だと思うんだが……。


 すぐに賑やかなネオンが両サイドに目立ち始める。その煌びやかな建物にはギリシャ神話の登場人物やリゾート地の名前が大袈裟にライトアップされている。


 五年程前、東欧ロシアから大量の売春婦が流入した際に、競って高級を銘打った店が増えた。今は外国人を締め出し現地人しか働いていない。タイの法律では売春を禁止しているが、日本を真似た大きな風呂の店舗はニ十件以上あった。中では五十人、場合によっては百人を越える娘達が働いている。彼女達は三日で公務員の一ヶ月分の給与を稼ぐ。


 ビーナスと言う高級店の前で車を停めさせた。


 周りを気にしながら中に入っていく。娘達が一斉に微笑みで迎えるガラス張りの部屋を尻目にレストランに席を取った。


 皆、考える事は同じなのか日本人の客が多い。家に早く帰れと言われても不安で余計に仲間と集いたくなる。


「お酒を飲んで本当に良いんですか? 医者は何か言っていませんでした」


「大丈夫。四日も抗生物質の点滴を打たれたんだ、傷口が化膿する事はない」


「それなら良いんですが……」


 クロスタービールと空心菜の炒め物を頼んだ。


「どうだあの娘なんか?」


「良くこんな時にそんな事が言えますね?」


「他に考えられないね私には……」


「どうやら噂は本当のようですね。ぐうたらの酔っ払い。探偵とは名ばかりで邦人にたかる事で生きているアル中」


「私を怒らせても何も出ないぞ」


「昔は戦場を駆け巡った気鋭のカメラマン。貴方のおかげでボランティア団体が立ち上がったという噂も聞きましたが」


「今度は誉め殺しか……言いたい事があるんだったら早く言ってくれないか。私はこの一杯を飲んだら部屋に入ってマッサージをして


もらうから」とグラスを置いた。


「そうですか……」


「犯人を知ってるのか?」


「そんな事あるわけないじゃないですか」と剥きになって怒りやがった。


「じゃあ何だ?」


「気になる事が……あの日後藤さんがバーンに会いに行くと言って出かけたんです」


「タイ人のお呪いか?」


「こっちの言葉で家とか家庭って意味です」


「それがどうした?」


「やっぱり無理だよ……」


 失礼な若造だ。どこを見てものを言っている。私が依頼主を失望させた事があるとでも言いたいのか。これでも金額に見合った仕事はしている。


「どうすれば良いんだ……」と遠くを見てやがる。その視線の先では幾重にも重なったひな壇の娘達が微笑をおくる。人の体はこの国では高いものではない。命もだ。彼らは死んだ後の事を気にして徳を積む。輪廻など本当にあるのだろうか……。


「探偵って稼業は知識より経験がものをいうんだ。蛍川の事もある全部話してみろ」とブコウスキーがアームトラックに乗って放浪していた頃のハードボイルド探偵が吐くセリフで決めてみた。


「貴方が頼りになるとは思えません」とため息をついた。


「ほら……」と促した。まどろっこしい野郎だ。


「先週、脅迫状が届いてたんです」


「聞く前に時給六ドルだ。費用は別途清算」と私は身を乗り出した。首を曲げられないので出っ張った腹がテーブルにあたる。金づるを逃すわけにはいかない。


「これは私の個人的な依頼です。日本政府は関わっていません良い


ですか?」


「もちろんそれで良い」


「後藤書記官の夫人を中傷する内容でした」


「浮気でもしてたのか?」


「彼女は立派な人です。不倫なんて……」と西山は好意とも取れる


言い方をした。


 ビールが甘く感じた。


「奥さんはどこにいる?」


「先月、日本に戻られました。長野の病院に入院されてます」


「相手の男は……」


「それを内密に調べて頂きたいんです」


「そのバーンを疑っているわけだな」


「そうであって欲しくないと願っているだけです」と視線を逸らした。

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