プロローグ
届けられたパッタイのモヤシに雑じって油色のものが見えた。
まさしく奴だ。私は箸でそいつの触覚を掴み上げ丁寧にちり紙に包んで捨てた。
「蛍川、ララが飯を持ってきたぞ!」
「はぁーい、もう少し……」と奥の便所から声がした。便秘なら丁度いい。
続いてセンミー(米麺)の包みを開き丼に入れた。袋に入ったスープは輪ゴムを外さずに角に穴をあけて
注ぐ。その方が零さないですむと屋台のタイ人に教わった。
丼の中は鶏がらとパクチの香りに満たされた。
麺をスープに馴染ませ一口啜ろうとした所にドアを開く音がした。ララの奴、鍵をかけて行けって何度も言ってるのに……。
見覚えのある顔が現れた。ピンヒールに網タイツ。ご丁寧にルビーのアンクレットまでしておいでだ。美容クリニックの女社長恩田光枝。この妖怪は三十路で歳を喪失したらしい。
「こんにちは」と少し低い声がした。これでも本人はソプラノを使っているつもりだ。声に似つかわしくない小作りな顔に微笑を浮かべる。両肩を露出させた花柄のタンクトップ。黒のミニスカートから伸びる肉付きの良い足に私が視線をおくるのを待っているのかモデル立ちしている。もとバレエダンサーとか仰ってましたっけ。
「お食事中だったの、これはごめんなさいね」と言いながらハイヒールの足音を響かせ勝手に人の事務所に上がりこんだ。
「ごめんなさいじゃねぇのか!」って言葉を呑み込み丼に箸を戻す。
「誰か来ました! 誰か来ました!」と蛍川の甲高い声が奥からした。
「お前はクソをしてろ!」と思わず口から出そうになったが、愛想笑いで誤魔化した。五十歳もとっくに過ぎてるんだ、いちいち女に噛み付いても始まらない。
「日本からFAXしたと思うんだけど?」
「今、ちょっと機械が故障してまして、ごめんなさいね」と私は子供じみた仕返しを試みた。唇を歪めて微笑むと煙草に火をつける。
「ブコウスキー気取りね。流行らないわよそんなの。あれはまだアメリカ人の半分が高校を中退して、ちゃんとした仕事もせずにふらふらしていた時のことよ」と女は抜けぬけと言いやがった。
大きなお世話だ、ここはバンコク、パンクなんだ。あんなちっぽけな島国の事を恭しく言うのは止してくれ。この前NHK番組を見たが、日本にはフリーターって言うのが生まれてるそうじゃないか。あれは第二のブコウスキー世代だ。そうに違いない。水槽で一生を終る事の虚しさを感じちまったんだ。男とはそういうもんだ。壊れた事務椅子に深く座って煙草のけむりをワケありげに吐き出してみた。ここはパンク親爺の詩を一発……。
「いらっしゃい恩田さん」と蛍川がずり落ちたメガネの傾きを直しながら出てきやがった。
「あら、こんにちは」と女は微笑みを返した。
「メール頂いていますよ。今日ご到着だったんですか。うっかりしていました。飛行場から連絡頂ければリムジンでお迎えに上がりましたのに。さあこちらに、こちらにおかけください……」と愛想よくソファーに座るように促した。詐欺師め!
「それで今回はいかほど御入り用なんでしょうか?」
「そうね……出来ればコンテナで運ぶぐらい」蛍川がこちらに視線を移す。コンテナだと。何をとんまな事を抜かしてやがる。私は首を横に振った。
「ちょっとそれは……なんと言いましてもプエラリアの輸出は政府が許可したものしか認められておりません。それに最近では天然物の採取が難しくなってきておりまして。あの大手商社さんですらタイに合併会社を設立されましてね……」
「そんな事は知っています」と口元に人差し指を置く。全くどこの口紅だ輝きやがって。キスしたくなるじゃねぇか。こんなまやかし。
蛍川は私を見てやがる。てめぇの商談だろ。私は腐っても探偵だ芋掘りはしないからな。
「一キロ三万円払いましょう」と女は電卓の頭で言ってのけた。
百キロで三百万、五百キロだと……千五百万! 算盤の玉を弾いた指が震えた。
「その前に前金で調査費を頂けませんか?」と割り込んで口を挟む。
「一時間六ドルでよろしいのかしら。ブコウスキーさん?」
「二人で十二ドル。それに他にかかった費用は別途請求という事で」と精一杯の笑みを浮べた。
「OK。十日分前払いをしておくから出来るだけ早くして頂戴ね。私も忙しい身だから」
「わかりました」
女が一万円札を数えだした。十枚置いていく。
「それから連絡はこの子に。明後日こちらに着く予定だから」と紙切れを渡した。恩田秋冷。バンコクには馴染まない名前だな。四季はねぇんだ、この国には……。
「私の娘ですから。勘違いなさらないように」と小首を傾げてこちらを窺う。何を抜かしてやがる。今すぐてめぇを押し倒して、その網タイツを破り自慢の足の間にとでも妄想すると思っているのか。
そんな暇じゃねぇ。最近二十歳のゴーゴー娘が裸で踊っても大先生はモグラのようにパンツの中で昼寝をしている。このまま死体になるんじゃねぇだろうな。