第五章 通信
『嫌だよ』
わたしは震えながらも、断固、拒否した。
『?』
それは少年が今まで送ってきた中で、一番短い返信文だった。
『しない
わたしはしない
絶対にしない』
『何を言っているんだ?』
『わたしはもう何もしない
世の中とは関わらない』
『これは君にしか出来ない事なんだ。』
それは何かの歌詞でよく見るような、極めて陳腐なセリフだった。笑ってしまう。
『なんで
なんでわたしがそこまでしないといけないの?
あんた
わたしが誰だか知ってたでしょ?』
そうと思わなければ、そうと気付かぬ程の微妙な間を空け――返信が来た。
『その通りだ。』
クックックッ……と、渇いた笑いがわたしの口から漏れる。
『あんた
このわたしをこの数カ月
いじって楽しんでたんだ?
インターネットの中で
みんながそうしていたように
世界が滅んだ後も
わたしを嗅ぎ付けて
笑い者にしてたんでしょ?』
『違う。』
『何が違うのよ』
少年はよどみなく答えはじめる。
『確かに俺は数カ月前、初めて君の返信を受け取った時、君が誰なのか正体を知った上で交信を始めた。それをずっと黙っていた事は認める。だがいつか、君が自分の素性を自ら語ってくれた時に、こちらが君を知っていた事を打ち明けた上で、君にこの件を託す積もりだった。』
『勝手なこと言わないでよ
何でわたしなの?
何で嫌われ者のわたしなの?
何で世界で一番嫌われ者のわたしなの?
何でそんなわたしに助けを求めるの?』
『勝手な事と、君がそう思うのなら、恐らくそうなのかもしれない。だが、俺は、誓って、君を傷付ける意図は無い。』
『実際の声が聞こえないから
あんたの本音が感じられない
こんな文章だけでの会話なら
いくらでも
都合の良いことが言えるでしょうよ』
『俺は《HOPE》だけじゃなく、君も助けたいと思っている。』
『だから
それはあんたの本心なの?
字だけじゃ伝わらないよ?
実際にあんたを見なきゃわからないよ?
実際に何かしてくれないと信用しないよ?
そんなの
言葉でだけなら
いくらでも
とりつくろえるじゃない』
『俺の本心だ。君が俺の事を嫌いになったのなら、それは仕方の無い事なのかもしれない。それならそれで、嫌いになってくれても構わない。俺も自分で自分が嫌いだから、君が俺を嫌いになる気持ちもわかる。それでも、どうか信じて欲しい。俺は出来れば君に会いたいと思っている。今は君にこうして言葉を送り続ける事しか出来ない。それを歯痒く思っている。』
『だから
言葉だけじゃ伝わらないよ
文章だけじゃ伝わらないよ
ネットや文章の中でなら
いくらでも人は嘘がつけるから
ネットや文章の中でなら
何の責任も持たないで相手を慰めることができるから
ネットや文章の中でなら
いくらでも相手のことを傷付けられるから
だからそんなものに意味なんてない
そんな綺麗な文字の羅列だけじゃ
誰も共感なんて
納得なんて
しない
わたしの心には
少しも届かない』
『だから俺は君にこうして語り掛け続ける。君にこの思いが届くまで、幾らでも言葉を送り続ける。君が世界に絶望していても、耳を塞いでいても、目を閉じていても、それでも、君を救う為に、俺はこうして言葉を送り続ける。』
『あんたは
言葉の無力さを
知らないからそんなことが言えるのよ
例えそれがどんなに正しくても
例えそれが真実だったとしても
わたしのお父さん
《杉崎厚志》が言った言葉は無力だったじゃない!』
《杉崎厚志》――それはわたしの父の名前だった。
もうこれで、後には引けなくなった。わたしが誰なのか、画面の向こうの彼に誤魔化すことができなくなった。
『それは違う。』
『違わない
一人の人間がどんなに大きな声で訴えても
どれだけ綺麗で耳通りの良い言葉で飾り立てて語っても
それが理解できないことである限り
その立場にならない限り
他人に聞き入れられることなんて絶対に無い』
『それは違う。』
『違わない
実際世界は愚かな選択ばかりをし続けた
一部の権力者や技術者だけが安全な空に行ってしまった
父の言葉を理解した人たちですら
みんなそんなことしかしなかった』
『それは』
その文章で、少年が咄嗟に否定しようとして、否定できなかった事を悟る。
『仮にわたしが
空の上に浮かんでいる
あの宇宙船の人たちに危険を告げたとして
それが何になるの?
安全な場所にいる人たちが
今更
わたしの言うことを
聞き入れると思うの?
世界中で笑い者にされていたわたしが
世界中で嫌われていたわたしが
そんなこと
わたしがしたところで
気が狂ったように喚いているだけにしか見えない
仕返しに
イタズラに
向こうを混乱させようとしているとしか
思われない』
少年は何も返して来ない。
『ねえ
本気であんたは
わたしが
空の上の裏切り者たちを助けたいと
助けようと
そう思えると
本気で思っているの?
わたしがそうすると
本気で思っているの?
わたしが
それをできると思っているの?』
恐らく、少年は何か言葉を考えている最中なのかもしれない。
『本心だから言います
わたしは世界中の人間なんて
わたし含めて
消えてしまえばいいと思っています
わたしは空の上の人たちも
勝手に死んでしまえばいいと思っています
わたしに酷いことした人たちも
《杉崎厚志》の言葉を聞き入れなかった人たちも
《杉崎厚志》の言葉を自分の安全のためだけに聞き入れた人たちも
みんな
みんな
みんなみんなみんな
一緒に
わたしも
一緒に
この世界から
消えてしまえばいいと思っています
世界を救おうとしている人以外の人間は
みんな
死んでしまえばいいんです
これは
わたしの本心です』
『違う』
それは――彼が初めて句点を付け忘れた瞬間だった。
『君は誰にも報復しようとしなかった。喧嘩をしたり、自分の身を守る時以外は、何もしなかったはずだ。それは、それは当り前の様な事でいて、とても難しい事だ。だからこそ、立派な事なんだ。』
彼の文章は、ゆっくりと、少しずつ、紡がれてゆく。
『君は誰も傷付けなかったからこそ、今そこにいるんだ。真面目に生きて来たからこそ、今の君があるんだ。もし君が人の不幸を心から望む様な人間であれば、人の気持ちを軽視する様な人間であれば、君は今頃牢屋の中に居たはずだ。そこで世界の終焉を迎えていたはずだ。けれどもそうじゃない。今そうしてその場所に君は居る。だからこそ、君と俺は、今こうして話が出来るんだ。』
彼の言葉は、少しだけ変化しているようにも見受けられたが、やはり本心なのかがわからない。もう、何もかもが、嘘にしか思えない。
『この数カ月間で、俺は君の事が好きになれたよ。それが俺なりの、君に対する、何よりの理解だ。』
――視界がにじむ。
『なんでよ?
今までどおり
毎日こうして
ただ話すだけでよかったのに
安全な場所にいて
素性の知れないままで
意味もなく
ただ話すだけでよかったのに
わたしはこの限られた山の上の空間で
あんたは仲間たちと安全な地下で
そうして
お互いそこから
ただ話すだけでよかったのに
顔も名前も知らないまま
画面越しに話をする
そんな関係でよかったのに』
『違う。』
――体が震える。
『世界はこんな風になったけど
そんな世界で
やっと安全な場所を見つけたのに
なんで
なんで
そのままじゃだめなの?
あんたたちだけで
どこか安全な場所で
そこで
仲良く暮らしていれば
よかったじゃない』
『違う。』
――もう、ただ、ただ、頭を振るしかなかった。
『ごめんなさい
もう
無理なんだ
今の
わたしじゃ
もう
できないんだ
あんたが見てきたのは
あんたが好意を持ってくれたのは
この数カ月
わたしが
あんたの前でだけ演じてきた
お調子者のわたしなんだ
ほんとうのわたしは
インターネットで
笑い者にされているわたしなんだ』
『違う。』
少年も、わたしも、頑なに否定し続け合う。
『違わない
もう
わたしに
何も
言わないで
下さい
もう
わたしに
優しく
しないで
下さい』
それ以上の会話を拒否することはとても簡単だった。
わたしはボタン一つで交信を拒否して、少年との通信を放棄した。
『待ってくれ。話をさせてく――』
――意識を保つことも、放棄した。
――その夜、わたしは短い夢を見た。
それは遠い、遠い、昔の出来事……まだわたしに自我が芽生えたばかりの頃の事。
(――……お母さぁああああん! お母さぁあああああんん!)
――頭の片隅で、心地良いまどろみの中で、理解してゆく。
これは、母がいなくなってしまってすぐの頃の幼いわたしの姿だ。
朝早くに目を覚ましたわたしは、玄関に立って、閉じたままの扉に向かって泣き叫んでいた。
やがて……父が起きて来る。
父は、怒ることはしなかった。ただ、わたしと目線を合わせるために屈み込んで、ただ、両肩に手を置いて、ただ、言ってくれたのだ。
「よしよし……《時子》。お父さんと一緒に寝ような。一緒に寝ような――」
父はそう言うと、わたしをそっと抱き締めて、しゃくり上げるわたしの背中をそっと軽く叩きながら、ただ、抱き締めてくれたのだ……
「――お母さんはもういないけれど、お父さんは《時子》のそばにいるからな。ずっと、そばにいるからな」
父がその時実際にそう言ったのか、正直、覚えてはいない。それは、もしかすれば、感覚的なことだったのかもしれないが……わたしが泣き止むまで、ずっと、父はそうしていてくれたのだ。ただただ、そうしていてくれたのだ……
――………………目を開けると、目の前には電源を付けっ放しにしたままのノートパソコンがあった。
電源を落とそうとカーソルを動かすと、スクリーン・セーバーが外れ、一つの送信データの受信要請が確認できた。
不思議と抵抗もなく、素直に許可することができた。
不思議と抵抗もなく、素直にそれを開くことができた。
それは、音声データだった。
「――俺達も二年前までは、君の父である杉崎天文家の学説を聞くまでは、隕石群の襲来の事は何も知らなかった。そして、最初それを聞いた時は……信じられなかった。何て馬鹿な話だと、そう思った。けれどもその話を、万が一の事を考えて、俺達の組織は具体的に研究する事にした。そして、彼の言っている事は真実だと知った。だが、その時には当の杉崎氏は行方不明になっていた。彼の消息は未だに掴めていない。こうなると、それに気付いた俺達は、杉崎氏の志を継いだ者として、世界にその事を伝えなくてはならなくなった。だが、杉崎氏の様に、直接何処かへ訴え掛けても、聞き入れられるだけの《力》、《資格》、《実績》、《権利》、《人権》……そう言ったものを、俺達は何一つとして持ち合わせていなかった。何の後ろ盾も持たない、歴史の影で生きて来た俺達の組織は、表の世界では余りに無力だった。それでも――発信した。だが、それだけでは無理だった。最終的には、世界中の科学者や権力者、天文学者達に、獅子座隕石群の襲来の研究データを無秩序に送る事で、ようやく世界は動き始めてくれた。その弊害として、表の世界では、君が辛い立場に立たされてしまった。恐らくそれは……もしかしなくても、俺達のせいなのだろう。そして、それが俺達の限界だった。君一人を助ける事はおろか、世界は八台の宇宙船で逃げる者と、取り残される者とに別れてしまうと言う、悲惨な結末を生んでしまった……――最初こそ、そう思っていた。だが、その内気付いたんだ。俺達がそうした事で――いや、違う、これは、君の父親である《杉崎厚志》が、世界に訴え掛けた事で、八台の宇宙船に乗った人々の何万人かは、助かる事に結び付いたんだと――…………俺も、君と同じ、世界に取り残された、ただの無力な一人の子どもに過ぎない。けれども、君と俺には明確な違いがある。歴史の裏で、そんな場所で生きて来た、何者でもない俺が、空の上の人々に何かを語り掛けた所で、全く相手にされないだろう。一蹴される事だろう。君が、先程、そう言っていた様に……。けれども《杉崎時子》、君は違う。君はあの、世界で最初に獅子座隕石群が来る事を提唱した《杉崎厚志》の娘であり、非難されるだけの立場でこそあったかもしれないが、それでも世界中に名が知られている者だ。そんな君が語り掛けるからこそ、空の上の人々は、君の言葉を無視出来ない。世界を救う為に、最初に働き掛けた、偉大な人物の娘である、天文家の卵である、そんな君が語る言葉を、絶対に、無視出来ないはずだ。そんな君が語る言葉だからこそ、そんな君が語り掛けるからこそ意味がある。《HOPE》にいる人々に、君なりの言葉で、精一杯に、懸命に、説明して欲しい。世界に裏切られ、社会に裏切られ、人間に裏切られ……誰よりも深く傷付いた、そんな君だからこそ、誰よりも世界に絶望した、そんな君だからこそ、誰よりも人間に絶望した、そんな君だからこそ……今そこにいる君が、そんな君が――誰かの為に言葉を発すると言う事に意味があるんだ!」
少年はそこで一度言葉を切った。今は、話す内に、いつしか荒らいでいた息を整えているのが、空気の振動と共に、ビリビリと、ヒシヒシと、画面越しに伝わって来る。
「――俺は……俺はなんて、無力なんだろう……今すぐにでも、君のもとへ行って、君を、今すぐにでも抱き締めて上げたいのに。君の、苦しみを、痛みを、少しでも、減らして上げたいのに……こんな、こんな、こんな簡単な事も出来ない事が、本当に、本当に、口惜しい……――」
――音声データは、そこで終わっていた。
少年の声はチャットでの印象と同様に、ひどく大人びて聞こえたが、どこか冷たげな質感とでも言えるような声音ではあったが、聞き取り辛いほど、掠れた声ではあったが――
――わたしは駆け出していた。
階段を駆け下りて、廊下を駆け抜けて、《観測所》の玄関から裸足で外に飛び出した。
まるであの日の時の様に。あの日の早朝、母がいなくなって泣いた時の様に。半年前、ここで叫んだ時の様に――次の瞬間、わたしは夜明けの空に向かって叫んでいた。
「――お父さぁああああああん! 早く帰って来てよ! わたしのそばにいてよ! わたしを一人にしないでよ! お父さぁああああああああああああああんん!!!!! お父さぁあああああああああああああああああああああんん!!!!!――」
今生まれ落ちたばかりの赤子の様に。
わたしはこの滅んだ世界で、絶望だらけの世界で、今、初めて、生まれたのだ。