第二章 交信
数十年前、電波の送受信の高速化と、サーバーの小型化が成功し、その数年後には、インターネットは衛星自体をサーバーとするようになった。
データの保護体制も万全で、地上に無数にあるサーバー施設と宇宙に無数に浮かぶ衛星とでリンクし、常時バックアップし合っている。
その結果、世界がこういう状態でも、辛うじて生き残ったそれらが、かつてのインターネット環境をそのまま綺麗に保ってくれていた。
そして、その様な変化があった通信環境はどのように変化したのかだが……携帯電話と同じような使い心地になったと言えばわかりやすいだろうか。それ以外の使い心地は、実はそれほど昔と大きく変わってはいない。
だが、電話回線や光回線と呼ばれたかつてのそれらを地下に張り巡らせることも、それを直接パソコンと繋ぐ必要も今日では無くなり、今ではパソコンを起動すれば自動的に衛星と通信が繋がるようになっている。
そのお陰で、地震等の災害があっても回線が遮断される様なことは無くなり、端末さえあれば、いつでもどこでも世界と通信することが可能となっていた。
地球上のどこにでも、誰とでも、それを望む者同士である限り、交信ができるようになっている。
わたしはいつもより遅めの昼食を終えた後、《保健室》に戻ってきていた。
机に向かい、ノートパソコンを開いてスイッチを入れる。
午前中は食料を確保する為に大抵は畑仕事をしているのだが、午後はこれを主にしていた。
本来ならば今後の生活の改善のために、午後も畑作業以外の何らかの生産的活動をするべきなのだが、特に何をすればよいのかは思い浮かばなかった。特に求めているものがあるわけでもなかった。
今日も例の彼とチャットをするだけで一日が終わりそうだ。父から教わって覚えた天体観測も夜にしかできないのだし、結局、今できることはこれしかないのだ。
『起動したら返信求む。』
パソコンの再起動と同時、即座に立ち上がったチャットツールのウインドウに、簡潔な文章が表示される。
既に向こうはこちらに通信を繋いでいてくれたようだ。
わたしはすぐにタイピングして返信する。
『ハロー
わたしです
本日の調子はどうですか?』
すぐに返信は来た。
『今日は。こちらに変わりは無い。』
ただのチャットなのに、律儀に句読点を必ず付ける妙に堅苦しい文体。全く改行しない上に、漢字を必要以上に使うせいで、一見大人の文章にも見える。
それは、いつもの見知らぬ青年から送られてくる文章であった。
『さっきまで畑仕事してた
腰痛~い』
『外の世界の天候は良いみたいで何よりだ。世界規模の大豪雨は永遠に続くものとばかり半ば思えていたのだが、それはあくまで一時的なものだった様だ。隕石の落下による影響が思ったよりも早く引いて安心した。』
『そちらはまだ地下から出てこれないの?』
画面の向こうの生存者はどうやら同じ国の出身者のようで、隕石群の襲来時には、数人の仲間と共に地下の施設に避難していたそうだ。こうして何度も語り合う中で、わたしは向こうの事情を幾らか把握していた。
『未だこちらは物資の製造や確保と、今の世界の状態の情報を得ようとしている段階だ。物資も情報も、まだ十分に得られていない。それらが十分に得られるまでは、ここを離れる訳にはいかない。』
『そちらは一人じゃないですもんね
うらやましいな~
安全な場所を離れるのは止めた方がいいですよ
そうしてるのが正しいと思います』
わたしは適当に、あたりさわりの無いことを言っておく。
『いつかは外に出て、この現実と向き合わなければならない。それは少しでも早い方がいい。今はとにかく、君とこうして話をする事で、少しでも多くの情報を得ようと思う。』
彼の言う現実とは、今のこの世界のことだろうか……それとも――
『わたしはただの子どもだし
離れたところにいるんで
あまり役には立てないと思いますよ?』
『俺もただの子どもだ。でもやらなければならない事がある。今は少しでも、今の世界の情報が欲しい。』
子どもは子どもでも、それはまだ成人していないだけで、彼はきっと大学生くらいの人なのだろうとわたしは思っていた。
『えらいなー
世界がこんなになっても前向きに生きようとしているんですね』
称賛と羨望を込めて、送信。
『君もきっと、それに気付けば動くはずだ。』
彼はたまに、前置きなしに、いきなり話を始めてくることがある。
『気付くって何ですか?』
『もし自分しか知らない事があって、自分にしか伝えられない事があったならば。そしてそれが、仮に人命に関わる事ならば、大抵の人は、何かしらの行動を起こそうとするはずだ。』
その言葉が、わたしの胸にじわじわと侵食してくる。それは燻って、煙を立て始める――わたしは本心とは逆の調子で言葉を送る。
『カッコイーなー!
わたしそんな考えしたことないですよ!
大人なんですね』
そこでキーボードから一度手を離し、タイピングを止める。両腕を上に伸ばし、首の骨を鳴らし、前髪を払って、気を引き締める。
それからはとりとめもない、何気なく思いつく言葉を、ただ送受信し合い続けるだけのチャットが続く。
かれこれ数カ月も続く、名も知らぬ生存者との交信。
『事態は極めて深刻だ。』
――思い返したように、話は再びそこに戻る。
『そりゃそうですよ
世界はこんな状態なんですから』
何を今更と、わたしはくすりと笑う。
『運良く生き残ったからと言って、まだまだ安心は出来ない。不安にさせる様な事を言ってしまって済まないが、これは事実だ』
……時折、パソコンの画面の向こうにいるのであろう誰かは、何かに突き動かされる様にしてわたしに語りかけてくる。
『隕石群は、近い内にまた訪れるはずだ。』
それは、今手元にある、わたしの膝の上に置いてある文書にも記されていることだった。これは父が書き残した研究成果の一端と呼べる物だ。思い付いたこと、気付いたことを、散文的に書き綴ったもの。
その内容は、今の世界の在り様を見ると、具体性と現実性に疑いようが無かった。
『わたしのお父さんがここにいたら紹介するんだけどね
前も言ったけど
わたしのお父さん天文学者だったから』
この程度ならば話しても構わないと思った。
『その娘の君は天文学に造詣はないのか?』
造詣?
――ぞう、し?
文章のその部分をドラッグすると、画面の片隅にその言葉の意味が出て来る。
読み:ぞうけい。※ぞうしではない。意味:ある物事に於いて、深い知識や理解があること。例文:彼は医学に造詣がある――
『これも前に言いましたけど
わたしは父の言っていることやしていることのほとんどを聞き流していました
だってわたしは子どもだから
専門用語とか言われても理解できないですからね~』
そんなことは――ない。
『それでも構わない。少なくとも君は、自分よりもその分野に深い知識があるはずだ。君の出来る範囲で、あらゆる手段を駆使して宇宙の状態を観測して欲しい。まだ君の所にある風力発電機は直らないのか?』
最近の彼はよくこの話をする。
彼の言葉に押される形で、今日まで色々とやってきた。その御陰で、わたしの身の回りの生活状況はかなり改善されていた。
『天体望遠鏡を動かすには
旧式のソーラーパネルじゃ
電力が足りないからね』
そう……後は電力さえどうにかなれば、天体望遠鏡は動かせるのだ。
だが、わたしには――そうしたい動機が無かった。
『ならば早く風力発電機を修理すればいいじゃないか。』
他人に自分の近況や状況を話し過ぎると、こんな弊害もあるのだ。
後々、深追いして欲しくない部分に、土足で踏み込まれる要因になってしまう。
わたしの本心は、実のところ、歪だった。
けれども、そんなことは向こうに伝わるはずもないと、適当に返事をする。
『取り付けるとなると
簡単にはいかないと思います
その風力発電機は一昔前のもので
自宅の庭で素人が組み立てられるやつで
プラモデルみたいなものではあるんですが
ブレードは物凄く重たいんです
それにそれは父が作っていたから
わたしにはとてもできそうにないですよ』
だが――彼はしつこい。
『修理の仕方はこちらが教える。その風力発電機の型番を教えてくれれば、明日までには修理方法を考えておく。』
彼は、日々何の目標も無く惰性の様に生きているわたしに、逐一『やるべき事』を与えてくれる。
それは胸の中にあるわだかまりと合わさって、時折むっと来る要因になることもあるのだけれど――不思議と、それほど嫌な気分にはならないのだった。
『型番は――――だよ
実はもう調べてました
えらい?』
事前に調べておいたものを、すぐに返信する。
少しだけ間が空いて、返信は来た。
『偉いぞ。わかった。すぐに調べて、修理方法を考える。夕食後にまた連絡しよう。』
少なくとも、不快ではなかった。一生懸命に何かを頑張っている人を、わたしは馬鹿にしようとも、邪険にしようとも到底思えなかった。
それに、少しくらいは日常に変化があっても良いと思えたから。
『とりあえず脚立とロープはありますよ
用意しておけば良さそうな物
他にありますか?』
終えた積もりの交信ではあったが、二分ほどして返信が来た。
『その型番の物だと、素人でも簡単に解体や整備が出来る。多分スパナとドライバーがあれば、大体は良いだろう。これは必要になるかはわからないが、配線が切れている可能性もあるから、ハンダゴテがあるならばそれも一応用意しておくと良い。後は――』
――次の日。
今日は午前中から風力発電機のブレードを取り付けるための作業を始めた。畑仕事は今日はお休みだ。
延長コードでコンセントを伸ばし、観測所の出入り口前に置いた長机の上にパソコンを設置し、その隣にボルトの入った箱を置く。
作業は逐次、質問しながら進める段取りだ。
『昨日言っていた事は終わっているか? ブレードが抜け易い様に、事前に根元の方は穴を掘っているか?』
『昨日通信を終えてからすぐにしたよ』
『それならばすぐ作業に移ろう。先ずは滑車の原理で、三枚のブレードを持ち上げる。』
『滑車なんて無いよ?』
早速問題発生か?――そう思ったが、
『君の住まいには屋上がある。そこにある手摺を利用して、ロープで引っ張り上げるんだ。滑車の原理で引き抜く。持ち上げた後は、ロープを手摺に結んで吊り下げた状態にしておけばいい。』
『風力発電機から余計に離れるよ?』
『それでいい。終わったら次の説明をするから、言われた通りにしてみてくれ。もし駄目なら他の方法を考える。作業を始めてくれ。』
作業を開始する。
ブレードの前に脚立を置いて、三段も登ると、ブレードの端の接合部分に当たる場所に手が届く。そこには本来ならばボルトが通るのであろう穴が二つ空いている。その一つにロープを通して縛る。
ロープの逆側を屋上の手摺の向こうに放り投げる。それと同じ作業を二回続けた後、次は屋上へ移動する。
屋上に放ったロープへ歩み寄り、掴み、力の限り引っ張る。手摺の丸く滑らかな曲線を利用すると、それなりの力はやはりいるものの、それでも思った以上に簡単にブレードは抜けた。持ち上がり状態を維持するために力んだまま、チラリと抜けたのを確認してから、どうにかロープを手摺に結び付けて固定する。同じ作業をもう二回続けて、先ずは終了。
『疲れた腰痛い腕痛い筋肉痛だ
それで次の作業は?』
『休憩はしないで良いのか?』
『実はもうした~』
『手際が良い。次の作業に移ろう。』
画面の向こうの彼は、はたして笑ってくれているのか、呆れているのか、わからない。けれども向こうも活き活きとしながら指示してくれているのはわかる。
この気持ちを他人と共有できることがなんだか楽しい。
『次はブレードを支える柱の方だ。それに脚立を立て掛ける。脚立はきちんとロープで支柱に巻き付けて固定する事。それが終わって安全を確保出来たら、ブレードを固定する部位の少し下の部分に溝が走っているはずだ。ギアボックスに当たる部分の下だ。それを利用してしっかりロープを固定してくれ。使うロープは用意した中で、一番長くて丈夫な物を使う。それをしっかりと固く結び付けるんだ。それが終わったら、そのロープの端を、吊っていた三枚のブレードのボルト穴に通してから、また屋上に投げてくれ。ヘルメットが無いから、落下しない様、くれぐれも慎重に作業を進めてくれ。』
ブレードの無い風力発電機の柱の高さは、五メートル以上はあろうか。目測なので実際の数値は分からないが、二階建ての家と同じくらいの高さがあるのは確かだ。屋上の手摺部分と、大体同じ高さだからきっとそうだろう。
片側で二メートル五十センチある脚立は、二つ折りにして四つ脚で立てて使うのではなく、最長の状態になる様に展開させる必要があった。こうすると脚立は立て掛けるだけの不安定なものとなる。
先ほど言われた通り、しっかりと支柱に固定する必要があった。先ずは仮留めから始まり、下部から上部へと、しっかりとロープで結んで固定してゆく。そうすると、立てかけていた脚立は垂直になった。
この状態だと、体を脚立にしっかりと抱き付かせていないと落ちそうで、作業が思うようにできない。上部のロ―プを結んでいる時も、とてもやりにくかった。
『脚立をロープで固定したんだけど
垂直になって登り辛い
作業もし辛い』
『工事現場で使われる、フック付きの安全帯があればいいんだが。』
さすがに建築関係の装備は《観測所》には置いていない。
『さすがに無いな~』
しばし、思案していると思える待ち時間。
『今着ている服はどんな物だ?』
『ジャージ』
『作業着は持っていないのか?』
『ツナギみたいなやつ?
多分無いと思う』
『なら、ベルトがしっかり通せる様な、丈夫な布地のズボンはないか?』
『ジーパンがある』
『それに着替えて来てくれ。』
『わかった』
言われた通りに着替えてきて、パソコンの前に戻る。すると既に文章は来ていた。
『ジーパンのベルトを通す部分に、ロープを二本通してくれ。両方とも二メートルもあればいい。一つは、腰の重心を背後に傾けながら作業出来る様にする為の物で、支柱に一周させてから使う。これは命綱なんかじゃなく、あくまでサポートに使うロープだ。もう一つは、上に登った後に何処かに結び付けておいて、万が一落下しても良い様、命綱として使う物だ。必ずこれを結び付けてから上での作業を始める事。すまない。今まで安全面を考慮していなかった。』
『気にしないでいいよ!
了解~
やってきま~す』
支柱の前に戻り、言われた通りに二本のロープを腰回りに通し、支柱の回りに通してから、端と端をしっかりと結び付け、輪にする。
一段脚立を登った所で練習してみる。
何かの映像で、電気工が電信柱に登って作業していた姿を思い出しながら、それを真似てみる。
輪をこちらの腰の高さと一緒になる高さで支柱に接触させ、ずり落ちないように引っ張り、地面と平行にする。そこで勇気を出して背面に体重を掛けてみる。こうすると、足、腰、柱の向こうのロープの接触部の三点で体重が支えられ、手が自由に使えるようになる。この状態だと内側に体重を戻さない限り、バランスを崩さない限り、体勢が安定するのがわかる。これなら大分安心して作業ができるだろう。
当初の作業の流れに戻る。記憶の中の電気工の様に、安全具を使いながら、一段、一段、確実にゆっくりと登って行く。
上まで登り終え、作業に移る前に、先ずは命綱を脚立の足場にしっかりと結び付ける。そうしてから作業を始めた。
左腕に巻き付けていた最長のロープを、言われた通りにギアボックスの下にある溝の部分をなぞるように、紐をそこに直接はめ込むようにして通す。そうしてから固く結ぶ。後は命綱を解いて、慎重に下りてゆくだけだ。
パソコンの前に戻ってすぐに報告する。
『終わったよ』
『もう昼か。食事はどうする?』
『そっちもお仲間さんが呼んでるんじゃないの?』
『こちらの方が大事だから気にしないで良い。仲間にもそう伝えてある。』
『じゃあこうしましょう
ご飯食べないと力も出ないし
頭も働かないし
いったん休憩!』
『了解。行って来る。』
食後、すぐに作業を再開した。
『さっきの続きだ。先程、片方は柱の上に巻き付けて、もう片方は屋上に放り投げたロープを、今度はピンと張った状態になる様に、屋上の手摺に巻き付けながら力を込めて引っ張り、そのまま縛って固定してくれ。その際、事前に通していたブレードが抜け落ちない様にしてくれ。上手くブレードが張り詰めたロープに吊り下がったら、一番柱側のブレードのロープだけを解いて、今度はそれを地面に落としてくれ。ついでにと考えて、残り二つのブレードのロープはまだ解かない事。』
屋上からその光景を眺めると、幾本ものロープがそれぞれの役割を担っているのがよくわかる。ブレードを取り付けるための道筋が、ようやくわたしにも理解できてきた。
三枚の重たいブレードを、公園にある遊具のターザンロープの様に吊るし上げることで、持ち運びを容易にしたのだ。
最初に観測所の壁面にぶら下げるのに使った、三枚のブレードを吊るしていたロープも、ほどいて下に落としておけば、下に降りた後にそのロープで直接引っ張って行ける。
そのことに気付いた時、彼は本当に頭が良いのだと、わたしは半ば感動を覚えていた。
『最後の作業に移ろう。最後はかなり面倒臭い。一枚のブレードを取り付ける度に、折角張ってくれたロープをその都度緩める必要がある。地面の何処かに制御盤があるはずだ。昨日見付ける様に頼んでいたが、そういえば確認していなかった。制御盤は見付かったのか?』
『観測所と風力発電機の間の地面にあったよ』
いよいよ大詰めのようだ。
気が急いて、脇から胸部にかけて、何とも言えないくすぐったさが走る。
『ブレードを一枚取り付ける度、その都度制御盤で次の取り付け箇所が下向きになる様に操作して行く。元からこの仕組みは整備の為にプログラムされている。だから君がタイミングを計って、目押しで一々止めたりする必要は無い。見て判ると思うが、その際に柱と手摺に張ったロープがそのままだと、ロープはブレードに当たって切れるか絡まるかしてしまう。先程残り二枚のブレードを吊るしていたロープを解かない様に言っていたのはこの為だ。また持ち上げなければならなくなるからな』
こういうのを、舌を巻くと言うのだろうか。彼が一晩で考えた修理プランは、とても合理的だった。
女一人でも、時間さえかければ簡単に修理ができる流れが完全にシミュレートされているようだった。
『了解~
一枚取り付けたらまた声かけるよ
制御盤の操作方法はそのときにね
たぶん途中で忘れちゃいそうだし』
『そうだな。その方が良い。最初の一枚を取り付け終えてから、制御盤の操作方法を説明する。』
パソコンの横に今まで置いてあった箱から、風力発電機のブレード固定用のボルトを二つ取り出し、ポケットにしまう。落とせばゴトリと音がする程にごつくて重たい代物だ。ポケットに入れているだけで、その重みでズボンがずり下がってしまう。
どうしたものかと考える。命綱を結ぶためのズボンがこうなっては危ない。
ズボンのポケットに入れないで、かつ、最も落とさないであろう入れ場所……それは肘だ。肘の部分に入れればいいんだ。
そう気付くなり、左の袖口からボルトを落とす。後は手を肩の高さくらいに常時上げて肘を曲げておけば、袖口から転がり落ちることは先ず無いだろう。
彼の影響か、わたしにもいくらか考える力が養われていた。
まるで風船を持つ様に、左手で一枚目のブレードに結ばれたロープを引っ張りながら、右手はスパナを握り締めて柱の前に立つ。
これからまた登らなければならないのだが、片手はスパナを握っていなければならないし、ロープも持たなければならない。ロープは体のどこかに結び付けておけば良いだろう。
とりあえず思いついたので、左腕の肘近くの二の腕にでも結んでおく。こうすると、ボルトはいよいよ袖口からしか落ちることはなくなった。うん、いい感じだ。
最初に登った時の要領で、梯子を上って行く。左右の手はどちらも常時肩より上の方にあり、踏み場を掴んでいる。ボルトを肘の部分に入れたのはやはり正解だった。
上まで辿り着く。忘れない内に、先ずは命綱を結ぶ。左手はスパナを握りながらではあるものの、どうにかしっかりと結べた。
次に補助用の安全帯を使いながら、背面に重心を傾ける。腰に体重がかかってゆく。これでようやく作業に移れる。
左腕に結び付けていたロープを、ボルトをこぼさないように注意しながら解く。それを引っ張ると、ブレードが今一度柱と接触し、渇いた音を立てる。それは数ヶ月越しの接触だった。
柱の上部には、鳥の様な形状をした、ブレードの中心部分となるギアボックスがある。それは雨露で黒く汚れていた。それを丁寧にジャージの右袖で拭ってから、隙間無くぴっちりとはめ合わさるように、ブレードとギアの接続部分を密着させてゆく。
慌てず、風が強い時は吹き去るのをじっと待ち、目に汗が入っても拭わず、慎重に進めてゆく。左手で仮止めし、右手のスパナで軽くブレードを叩いてみる。正しく組み合わさったプラモデルの部品同士のように、接合部はしっかりと噛み合わさっていた。仮止めしていた左手を離しても、安定している。
次に左手にスパナを持ち替えた後、右手で左腕に結び付けていたロープを解いてから、ジャージのファスナーを下げて胸元を開く。左脇にそのまま右手を突っ込んで、左肘にあるボルトを一つ取り出す。
ボルトを捧げるようにして、そっと運ぶ。差し込むべき穴にボルトの先端を差し込んでから、ボルトを咄嗟に落としたとしてもすぐに掴めるように、スパナを握りながらも、必ず左手を下に添えて、先ずは直接手で回していく。三分の一ほどの深さまでボルトが締まった所で、指の力だけでは回せなくなった。
左手に握っていたスパナを足場の上に置いてから、足場とそれを一緒に握る。これで人心地つけた。後はスパナでしっかりと本締めをするだけだ。
丁寧に、慌てず、時間をかけて、じっくりと、しっかり回してゆく。最後は体重をかけながら回して、ようやく一つ目が終わった。
だが、締めねばならないボルトはもう一つある。そして、ブレードはまだ二枚もある。慌てず、ゆっくり、確実にしてゆこう。
三枚のブレードを取り付け終えた頃には、もう日が暮れ始めていた。
思えば、こんなに長い時間、青年と交信し続けたことは初めてだった。
『終わったよ
ほんと疲れた』
地面にあぐらをかいて、膝の上にノートパソコンを移し、猫背になりながらチャットする。
『お疲れ。』
簡潔ではあるが、それでもなぜだか心に響く、そんな労いの言葉だった。
『楽しかった
色々教えてくれてありがとう』
『礼を言いたいのはこちらの方だ。こんな大変な事を、よく聞き入れて実行してくれた。本当に感謝している。ありがとう。』
まだ見たことも会ったこともない青年が、画面の向こうで深くお辞儀している気がした。
『そんな堅苦しいこと言わないでいいよ
わたしたちの仲じゃない』
今のわたしはこのままだと、まだ会ったこともない彼に、思わず好意を伝えてしまいかねないほどに気分が高揚していた。
『ねえ笑ってよ~!』
『俺は今恐らく笑っていると思うが?』
『そうじゃなくてさ
せめて文章でも伝わるようにさ』
散々重労働させたのだ。これくらいのわがままは聞き入れてもらいたい。
『難しいな。俺ではすぐに思い付かない。仲間に訊いて来る。少し待っていてくれ。』
わたしはそれを読んで大笑いした。背中を地面に倒して、手足をバタバタする。そうしていると――それに気付いた。
仰向けになったことで、それが視界に映った。上下逆さに見える視界の中で、風力発電機が、夕焼けの中、ゆっくりと回っている。
彼が言うには、明日一度止めて、またボルトが締まっているのか確認する必要があるそうだ。その際、またしっかりと締め直さないといけないらしい。
――いいよ。何回でも締め直してあげる。
その日、彼が最後に送ってきた文章はこんなものだった。
『うっしゃーお疲れー』
わたしはそれを見て、彼の不器用さに笑った。
『よっしゃ』ではなく『うっしゃ』としたのはいい。でも、せめて『!』や『~』くらいは使おうよ。