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第一章 日常


 地名や建物名には、最早意味が無い。

 もしかしたら、人名にすら意味はもう無いのかもしれない。

 だからわたしはここを、単に《観測所》と呼んでいた。


 ――朝には弱い。

 目覚めて、上半身だけは起こしてからも、最低十五分は何もしないでぼうっとしている。

 今着ているのはワイシャツに、大分生地が薄くなってきた下着のみ。

 父個人が運営し、勤めていた天体観測所内には、男物の替えの服は何着かあったのだが、女物の下着だけはどうしても無かった。

 わたしが寝起きしている場所は、その観測所内にある一部屋である。この部屋には硝子の戸棚、机、白いカーテンが清潔感を覚えるように配置されていて、一見すると学校にある保健室のような雰囲気があった。その代わり、寝台は一つも無く、毛布を床に敷いて寝床としていた。

 硬い床の上で寝ても疲れはあまり取れないが、それでももう慣れた。四方が壁に囲まれていて、雨露や外気をしのげ、害虫の侵入を防げるだけでも大分恵まれていた。

 この建物は実の所、元々は《観測所》などではなかった。この建物が観測所として機能する以前は、実際は診療所として機能していたらしい。

 当時、ここの診療所を経営していた医者が借金を抱えて失踪し、すぐさま抵当に入ったそれを父が買い上げ、天体観測所として改装したのだと聞いている。

 欠伸をし、首を左右に曲げて軽くほぐす。ようやっと目蓋の重みも薄れてきた。立ち上がって、窓際の隅にある洗面台の前に行く。

 角が少しひび割れた鏡に、わたしの顔が映る。

 先ず気になるのは髪型だった。この半年間伸ばしっ放しであったが、丁寧に梳く事でサラサラ感は維持できていた。少し寝癖が付いている箇所もあるけれど、これくらいならば手櫛で十分だろう。どうせ見せる相手もいないのだし。軽く整えて終わる。

 次は歯磨き。毛先がボサボサになった歯ブラシを、鏡台の隅に置いてあるカップから抜き取って、水だけ付けて磨く。歯磨き粉は遠の昔に使い切ってしまっていた。歯磨き粉が無い分と、毛先がボサボサな分は、時間をかけて丁寧に磨く事で補う。歯が白くなるまでじっくりと、ただひたすら磨き続ける。磨き終えると、最後に顔を洗って終わり。

 洗面を終えると、《保健室》から出て、朝食を摂るために部屋を移る。着替えはまだしない。

 食べる物は観測所の裏に群生しているジャガイモと果物類だ。昔、この国の気候でも育つように品種改良された東洋バナナがあるのはありがたかった。

 ふと――父が研究の合間によく栄養補給にこれを食べていたのが脳裏に過ぎった。

 思考を食事事情に戻す。

 後は魚や肉等のタンパク源があれば良いのだが、釣道具は無いし、この小山には爬虫類と虫くらいしかいない。たまに姿を見る鳥を狩るのも一つの選択なのだが、今は狩猟を考えるよりも畑の維持をすることの方が大事なので、後回しにしていた。ついでに言えば、鳥達の個体数を増やした方が良いとも考えている。早くから狩っていては、絶滅の危険性があると思うからだ。

 廊下を進むと、《理科室》とわたしが呼んでいる部屋の前に辿り着く。

 扉を開き、部屋に入ってすぐ、扉の近くにある戸棚からビーカーを取り出す。

 次に海水を精製して真水を溜めてある密閉容器から水を注ぐ。飲み干してから、また注ぐ。

 最後に棚の下に置いてある段ボールからジャガイモを取り出し、ビーカーの水の中に放り込む。

 ――気泡によってジャガイモがぐるぐると回転する様を眺めながら、机上に置いてあるバナナを咥える。正直、食べ飽きている。

 バナナ特有の甘味とネトネトした食感とが、時折思い出した様に吐き気を催させる。けれども、まともに食べられる物はこれぐらいしかないのだから贅沢は言えなかった。

 バナナを二本、時間をかけて食べ終えると、調剤用のガラス棒でジャガイモを突付いてみる。そろそろ食べ頃のようだ。一思いに突き刺してみると、程良く煮えているのが確認できた。

 皿代わりにしているすり鉢へとジャガイモを移す。皮が剥がれてそこから黄色い中身が見えているジャガイモは、それだけで食欲をそそる。

 先ずは何も付けずに皮ごと丸ごと頬張る。幾らか口端からこぼれ出す。机の上にこぼれ落ちたカスも、指先でつまんで舐め取る。貴重な食料である。少しも無駄には出来ない。

 半分ほど食べると、次は手近に置いてある、調剤薬を保管しておくための瓶を手に取った。その中には、海水からわたしが精製した塩が入っていた。それをジャガイモに振り掛ける。

 その塩は大粒で、ザラザラとしていて、黄ばんでいて、焦げて赤茶けている。苦味があって、不純物だらけで、正直味は悪い。けれども貴重なミネラル源であった。

 朝食を終えると、先程の《保健室》に戻る。タンスに収納している衣類を取り出す。選んだ物は、以前わたしが通っていた中学校指定の体操着の赤ジャージとシャツ。名札やゼッケンは全て剥がしている――それに着替える。

《保健室》から出てすぐにある、建物裏の勝手口から外に出ると、小学校や中学校によく見受けられる、体育館と校舎を繋ぐ屋根付きのロータリーの様な場所があった。

 そこを通り抜けた先は庭園になっていて、この半年間、わたしがこつこつと耕して広げてきた畑があった。そこには半ば野生化したジャガイモとバナナが主に群生していた。

 辿り着くなり、腰に手を当てて見渡す――バナナはそろそろカブの増やし時かもしれない。


 ――午前中一杯、畑仕事をして、一区切りついた後、観測所の上にある給水タンクの上へとやって来た。

 ジャージの上着を脱いで、それを座布団代わりにする。そこに腰を下ろし、汗で湿ったシャツを風に曝す。

 そこからは、青い空と、水没した街の光景が見えた。海面の所々から、傾いだコンクリートの建造物がポツポツと突き出しているのが見えた。

 今わたしは、小山の頂上にある、この限られた空間の中で暮らしている。とても狭い、そんな場所。

 わたしは顔を上げた。ふとそれを、右上を見やる。視線の先には天体観測所のシンボルとも言える、半円型の構造物があった。隕石の衝突により、その表面はボコボコになってはいるが、それは幸運にもその形を留めていた。

 次に視線を左の方へと向ける。そちらには一台の風力発電機の柱のみがあった。本来であれば三つのブレードが付いているはずの物。けれども今は三枚ともブレードが取り外されていて、細長い柱だけが意味も無く地面から突き立っていた。

 その風力発電機は、本来ならばこの観測所の第二のシンボルでもあり、そして、メイン電力でもあった。隕石の襲来に備え、父が事前にブレードを取り外して以来、それは放置されたままだった。

 そのブレードは、今わたしがいる場所から見下ろせる位置に三枚ともあり、《観測所》正面の庭先に三本並ぶ様にして突き立っていた。

 今度は、視線を庭先から更に手前側に向ける。《観測所》の屋上には、動いていない風力発電機の代わりに電力を供給してくれている、型の古いソーラーパネルを設置していた。大きさにして一平米ほどの物が三枚並んでいた。

 最後に空へと視線を移し、しばし、ぼうっとする。

 

 ――今日の昼はまだ食べないで、もうしばらくこのままこうしていようと思った。

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