その日は、いつもの朝だった。
その日は、いつもの朝だった。
早朝はまだ薄暗く、冷たい空気が春の息吹を隠していた。
私はいつも通り仕事に向かおうとキャメルの合皮の鞄を肩に下げ、「ああ、昨日うまくいかなかったな」と憂鬱になりながら、小田急線に乗った。
電車の中は相変わらず暖房が効いていて、自転車に揺られ冷えた身体を温めてくれた。手持ち無沙汰になり、100均で買った安っぽいイヤホンを耳にいれ、音楽アプリで今度のスタジオで練習するバンドの曲を流した。ハイテンションな甘い歌声と、華やかなのに、どこか淋しげな旋律を重ねた曲が終わる少し前に、乗り換えをしようと電車を降りる。
そういえば、今日はまだライン確認してないかも、と音楽アプリをスワイプして閉じる。広告通知を何件も放置したままの画面に、バンドサークルのグループラインだけが上に浮いていた。通知は2時間前の『画像が送信されました』を最後に4つ。
「珍しいな」
通知が来る時は馬鹿みたいにたくさん溜まるのにと思いながら、周りに聞こえないくらいの声で小さく呟くと、グループラインを開いた。そこには3件のコメントと一枚の画像が添付されていた。画像は回覧板の手紙みたいな文字が書かれた文書だった。バンドのグループラインには異質だと思う前に、小さい文字が目に飛び込んできた。
『3月21日(水)午後9時43分。ご逝去されました。』
「え」
昨日と同じ天気、同じ通勤路。
いつもすれ違うおじさん、いつもの構内アナウンス。
ただ一つ、この文字だけが異質だった。
何が起きたのか頭が追いつかず、思考が止まる。
ふざけた連中ばかりのバンドサークルだが、こんな不謹慎な真似をするとは思えなかった。
画像をタップして、そこに書かれている文を目で追う。
『故人 各務央吏は、3月21日(水)……国立教堂病院にて、大動脈剥離による…のためご逝去されました。……つきましては通夜と葬式を執り行います…』
たった数行の文章を読むのに、5分以上の時間がかかった。何度も何度も読み進めては読み返してを繰り返していた。
「央吏……」
気づけば名前を読んでいた。返事が帰ってこないことは分かっていたが、それでも呼ばずにはいられなかった。
「……死んだ?… 央吏が?」
頭の奥深くが冷えていき、現実を理解していたが、感情は一向に追いつかなかった。
スマホの画面に雫が落ち、画面に映る文字が揺らめく。
「どういうこと?……ねえ、わかんないよ」
一度こぼれ落ちた涙は、とどまるところを知らなかった。堰を切ったようにぽろぽろと流れた。行き交う人に気づかれまいと、マスクを上げ直すと、自動販売機の影に隠れた。
マスクの下で名前を呼んだ。呼ぶたびにみんなで過ごした時間が頭をよぎった。
「鳴海さんって、やっぱすごいっすよ」
あるバンドでサポートに入ったときの記憶。
練習の合間にボーカルもドラムも水分補給と言って買い物に出かけてしまい、ベースの子は彼氏と電話をしに足早に部屋を出ていった。スタジオの中には私と央吏がぽつんと残されていた。
「何が?」
あまり話しを弾ませるのが得意ではなかった私は、ぶっきらぼうに聞き返した。
「キーボードっすよ。経験者ってのもありますけど……」
央吏はきれいに切りそろえた黒髪をぽりぽりとかいた。周りがあんな連中ばっかりだから、余計に真面目に見えた。私も同じ黒髪を人差し指に巻きつけながら言葉を返した。
「ふうん…でも、私より上手い人いるじゃん」
我ながら嫌な先輩だと思った。なんでいつも上手に返せないんだろう。
「いや、なんていうか……ちゃんとしてるんすよね。俺が言うことじゃないんですけど、っぱ上手いっすよ……」
「なにそれ」
初めてだった。誰かにピアノを褒められたのは。ずっと自分より上手な人に囲まれていたから、みんな私より努力家でストイックだったから。もしかしたら、先輩後輩の社交辞令だったかもしれないけど、それでも少しだけ言葉を選ぶようにちょっと迷いながらまっすぐ言葉を贈ってくれたことが心底嬉しかったんだ。
あの日、私はちゃんと央吏に「ありがとう」と返せていたのだろうか。気恥ずかしさでそう言えなかったのではないか。今になって後悔が込み上げて喉の奥を辛くする。
どうだったのかは、もう誰にもわからない。
それでも、私たちの間にあったあの時間は、私が持っている。そうすれば、央吏の言葉は生き続けて、消えることはないんだ。
私たちの間に愛なんてなかった。ただのちょっと話す程度の、3年間同じバンドサークルに所属していただけの先輩と後輩。
それでも同じ時を生きて、共有した。
故人が生きていた証明は、今を生きている私たちにしかできないんだ。
これから私たちはたくさんの人の人生を背負っていくことになる。それがきっと、「大人になる」ってことなんだろう。
24歳の立春。人々がこれまでの環境に別れを告げ、新しい環境に出会う季節。
私は一つ、大人になった。
時刻は7時を回っていた。これ以上立ち止まるわけにはいかない。
ぐいっと涙を手の甲で拭って、いつもより少しだけ遅く、苦い通勤路を歩き出した。
空を見上げると、昨日と同じ天気だった。
その日はもう、いつもの朝だった。




