動物園の王子
僕の名前は樹。小学五年生。クラスで一番背が低くて、一番貧乏で、一番馬鹿にされている。
母子家庭の僕は、いつも同じ色褪せたライオンのTシャツを着ている。三年前、まだ父がいた頃、市立動物園で買ってもらった唯一の思い出だ。洗濯を繰り返して首元は伸びきり、ライオンの絵も半分剥げている。クラスのリーダー格の拓也は、このTシャツを見るたび「貧乏ライオン」と僕を呼ぶ。
休み時間、僕は教室の隅で本を読む。誰も話しかけてこない。それでいい。本の中には、僕を笑わない友達がたくさんいる。
ある日の放課後、いつものように市立図書館に逃げ込んだ。司書の田中さんは優しい人で、僕が来ると新しい動物の本を勧めてくれる。
「樹くん、これ読んだ? アフリカのサバンナの生態系について、すごく詳しく書いてあるよ」
僕は貪るように読んだ。ライオンの狩りの成功率は二割程度であること。群れのメスが狩りをし、オスは縄張りを守ること。シマウマは時速六十五キロで走れること。キリンの蹴りは一撃でライオンを倒せること。
知識が、僕の中に積み重なっていく。誰も知らない世界が、僕の頭の中で広がっていく。これだけが、僕の自尊心を保つ唯一の方法だった。
その日、図書館の掲示板に一枚のポスターが貼られていた。
『市立動物園 開園50周年記念イベント 小学生動物博士コンテスト 優勝者は一日ジュニア飼育員に!』
心臓が跳ねた。動物園。あの場所。父との最後の思い出の場所。
「田中さん、これ、僕、参加できますか」
「もちろん。樹くんなら絶対に優勝できるわよ」
田中さんの言葉が、僕に小さな勇気をくれた。申込用紙を手に取る。でも、教室で申し込んだら、拓也たちに笑われる。いや、それ以上のことをされるかもしれない。
迷った末、僕は母にも内緒で応募した。これは、僕だけの戦いだ。
コンテスト当日。十一月の日曜日、市立動物園のイベント広場に五十人の小学生が集まった。僕は例のライオンのTシャツを着ている。周りの子供たちは、みんな綺麗な服を着て、親と一緒に来ている。
会場の端で、一人で立つ僕に、運営スタッフの女性が優しく声をかけてくれた。
「一人で来たの? 偉いわね。じゃあ、頑張ってね」
第一問。「アフリカゾウとインドゾウの見分け方を三つ答えなさい」
僕の手が上がる。
「耳の大きさ、背中の形、牙の有無です。アフリカゾウは耳が大きくアフリカ大陸の形に似ていて、背中が凹んでいます。メスにも牙があります。インドゾウは耳が小さく、背中が盛り上がっていて、メスには牙がありません」
会場がざわついた。ボロボロのTシャツを着た小さな少年が、淀みなく答えた。
第二問、第三問。僕の手は何度も上がった。答えるたびに、周りの視線が変わっていく。最初は哀れみや軽蔑だった目が、驚きに変わり、やがて尊敬に変わっていく。
気づけば、ファイナリストは三人。僕と、私立小学校の優等生らしき女の子と、もう一人の男の子。
そして、会場の入り口に、見覚えのある顔が現れた。拓也とその取り巻きだ。
「おい、見ろよ。貧乏ライオンがいるぜ」
拓也の声が会場に響く。僕の心臓が、嫌な音を立てる。逃げたい。でも、ここまで来たんだ。
決勝問題。
「チーターは時速何キロで走り、その速度を何秒間維持できるでしょう。そして、なぜその時間しか維持できないのか、理由を説明しなさい」
僕は知っている。完璧に知っている。でも、今答えたら、明日学校でどんな目に遭うかも分かっている。拓也は絶対に許さない。「出しゃばった」と言って、もっと酷いいじめをするだろう。
Tシャツの裾を、固く握りしめた。手が震える。
ふと、このライオンの絵を見た。半分剥げかけたライオンが、こちらを見ている気がした。
父が言っていた言葉を思い出す。『樹、ライオンを見てみろ。あいつらは狩りをする時、全力で走るんだ。失敗するかもしれない。でも、全力で生きる姿こそ美しいんだよ』
そうだ。僕は今まで、失敗を恐れて、全力で生きてこなかった。笑われるのが怖くて、自分を隠してきた。でも、本当に美しいのは、全力で生きる姿なんだ。
たとえ明日、拓也に何をされても構わない。
今、この瞬間だけは、全力で生きたい。
「時速約百二十キロです。しかし、二十秒程度しか維持できません。理由は、チーターの体は極限まで速さに特化していて、筋肉の酸素消費量が極めて高いため、体温が急上昇するからです。それ以上走ると、体温が危険域に達して死んでしまうんです」
僕は続けた。
「だから、チーターは獲物を二十秒以内に仕留められなければ、諦めるしかない。成功率は五割程度。でも、諦めない。何度でも挑戦する。それがチーターです」
会場が静まり返った。
そして、大きな拍手が起こった。
優勝が発表された。僕の名前が呼ばれる。トロフィーを受け取った瞬間、拓也が近づいてきた。
「おい、樹。調子に乗るなよ」
低い声で脅す。周りには大人がいるから、手は出せない。でも、月曜日は覚悟しろという目だ。
僕は初めて、拓也の目をまっすぐ見た。
「拓也。君は体が大きくて、力が強い。僕は小さくて、弱い。でもね、ゾウはライオンを踏み潰せるけど、ライオンの群れの知恵には敵わないんだ。力だけじゃ、勝てない」
「は? 何言ってんだよ」
「僕はもう、逃げない。君が何をしても、僕は図書館で勉強を続ける。動物園に通い続ける。君は僕を殴れるかもしれない。でも、僕の頭の中の知識は奪えない。この自尊心も、奪えない」
拓也は言葉を失った。今まで黙って従っていた相手が、初めて反撃した。暴力ではなく、言葉で。
運営スタッフが間に入る。
「君たち、お友達? じゃあ一緒に記念撮影しよう」
断れない雰囲気の中、僕と拓也は並んでカメラに収まった。その写真は、後日、市の広報誌に掲載されることになる。『動物博士コンテスト優勝者と友人たち』という見出しで。
翌週の月曜日。登校すると、教室の空気が変わっていた。
担任の先生が、朝の会で市の広報誌を掲げた。
「みんな、樹くんがすごいコンテストで優勝したんだよ。しかも、今度の土曜日、市立動物園のジュニア飼育員として、来園者にガイドをするんだって」
クラスがざわついた。僕を見る目が、完全に変わっている。
「樹、マジで? すげえじゃん」
「動物のこと、そんなに詳しかったの?」
質問が飛んでくる。拓也は、席で腕組みをして黙っている。でも、手を出してこない。もう、出せないのだ。僕は「市の広報誌に載った優勝者」になってしまった。殴れば、大問題になる。
放課後、図書館に行くと、田中さんが満面の笑みで迎えてくれた。
「樹くん、おめでとう! 新聞にも載ったわよ。あなたの推薦文、私が書いたの」
「田中さん……」
「あなたはずっと、この図書館で頑張ってきた。その姿を、私は見ていたわ。全力で本を読み、全力で学ぶあなたは、誰よりも美しかった」
涙が溢れそうになった。
土曜日。ジュニア飼育員として、ライオン舎の前に立った。青い制服を着て、マイクを持つ。大勢の来園者が集まってくる。
僕は、胸を張って話し始めた。
「皆さん、こんにちは。今日はライオンについてお話しします。ライオンは百獣の王と呼ばれますが、狩りの成功率は実は二割程度です。でも、諦めません。何度でも、全力で狩りをします。全力で生きるんです」
来園者が熱心に聞いてくれる。質問が飛ぶ。僕は全てに答える。
ガイドを終えた後、飼育員のおじさんが肩を叩いた。
「樹くん、良かったよ。中学生になったら、ボランティアで手伝いに来ないか? 将来、ここで働きたいなら、応援するよ」
その言葉が、僕の未来を変えた。
色褪せたライオンのTシャツは、今も僕の宝物だ。あれを着ていたから、笑われた。でも、あれを着ていたから、ライオンのように全力で走ることができた。
弱くてもいい。小さくてもいい。大切なのは、全力で生きること。その姿こそが、誰よりも美しい。
僕は今、それを証明できた。
動物園の王子——クラスメイトは、そう呼ぶようになった。最初は冗談だったかもしれない。でも、僕はその名前を、誇りに思うことにした。
なぜなら、僕は本当に、動物たちの王子になったのだから。




