第一章 T-SWAT
紫煙とジャージと異世界転移
アスファルトが溶け出しそうな、日本の夏だった。
蝉の鳴き声が、耳鳴りのように脳髄を揺らす。
俺、鮫島勇護は、伸びきった無精髭を撫でながら、気怠げに横断歩道を渡っていた。
服装はヨレヨレのグレーのジャージに、コンビニで買った便所サンダル。
元ロス市警SWAT隊員。
数々の凶悪犯罪現場に突入し、「ジャパニーズ・マッドドッグ」と恐れられた男の成れの果てがこれだ。
「……今日は出る気がするな」
俺の視線の先にあるのは、極彩色のネオン看板『パーラー・オーシャン』。
帰国してからというもの、俺の戦場はロサンゼルスのスラム街から、駅前のパチンコ屋へとシフトしていた。
狙いは新台の「海物語」。開店前の並びには間に合わなかったが、角台が空いていれば勝機はある。
信号が青に変わる。
俺はポケットに入った『マールボロ・赤』の感触を確かめながら、サンダルをぺたぺたと鳴らして歩き出した。
その時だった。
――キキーッ!!
鼓膜を引き裂くようなスキール音。
俺の職業病とも言える「脅威感知」が、即座に反応する。
右前方。大型トラック。
ドライバーはハンドルに突っ伏している。居眠りか、心不全か。
数トンの鉄塊が、制御を失って交差点へ滑り込んでくる。
その軌道上には、麦わら帽子を被った小さな女の子がいた。
「――チッ」
思考よりも先に、身体が動いた。
パチンコの軍資金が入った財布がポケットから飛び出すのも構わず、俺はアスファルトを蹴った。便所サンダルのグリップ力など知ったことか。
(距離、クリア。タイミング、ギリギリ)
俺は少女の細い身体を抱え込むと、全力で歩道側へと突き飛ばした。
柔らかい感触が手から離れる。
同時に、視界の全てを銀色のバンパーが埋め尽くした。
「確保……なんてな」
ドォォォォォン!!
衝撃。熱。そして、完全なる暗転。
俺の人生最後の記憶は、トラックのフロントグリルに映った、間の抜けたジャージ姿の自分だった。
***
「あー、はいはい。また来たわ」
目が覚めると、そこは真っ白な空間だった。
雲の上のような、あるいは病院の集中治療室のような、無機質で眩しい場所。
俺の目の前には、事務机に足を乗せ、スマートフォンをいじっている女が一人。
ジャージ姿に、ボサボサの髪。俺と同じサンダル履き。
とてもじゃないが「神聖」とは程遠い姿だが、その背後には後光のようなものが薄っすらと漂っている。
「……ここは? 俺は死んだのか?」
俺が冷静に尋ねると、女はスマホから目を離さずに答えた。
「死んだ死んだ。即死。グチャグチャ。女の子は無傷。あ、君のパチンコの軍資金は風に舞って誰かに拾われたわよ」
「そいつは残念だ」
「で、私は女神ルチアナ。いわゆる転生の手続き係みたいなもん」
ルチアナと名乗った女は、あくびを噛み殺しながら俺の方をチラリと見た。
「ふーん……。君、魂が硝煙臭いわね」
「ヘビースモーカーなもんでな」
「違うわよ、血と火薬の匂い。……SWAT? ふうん、面倒くさい経歴」
彼女は面倒くさそうに頭を掻くと、手元の書類を宙に放り投げた。
「普通の『剣と魔法の世界』に送っても、君みたいなのは馴染めないでしょ。スローライフとか絶対無理なタイプだし」
「否定はしない」
「だから、ちょうどいい処分先……あ、いや、就職先があるわ」
ルチアナはニヤリと笑った。それは慈愛の女神の笑みではなく、不良在庫を押し付ける悪徳商人の笑みだった。
「『太郎国』。そこに行きなさい」
「太郎国? ふざけた名前だな」
「文句言わない。あそこなら君の好きなタバコも手に入るし、なんなら君のスキルを活かせる仕事も山積みよ。……特に、あの国の王様が『警察組織』を欲しがってるしね」
彼女はスマホの画面をタップした。
俺の足元に、魔法陣のような光が展開される。
「ちょっと待て。俺には拒否権は――」
「ないわよ。あ、これ餞別。向こうじゃ貴重だから大事にしなさい」
ルチアナが放り投げてきたのは、俺が愛飲している『マールボロ・赤』のカートンだった。
俺がそれを受け取った瞬間、床が抜けるような浮遊感が襲った。
「じゃ、頑張ってねー。あ、向こうのパチンコは釘が渋いから気をつけて」
「おい、それどういう……!」
俺の意識は再び、光の中に吸い込まれていった。
***
「……ッ!」
着地。
俺は反射的に膝を使い、衝撃を殺して地面に降り立った。
ジャージとサンダルという軽装だが、身体のキレは生前――いや、現役時代そのものだ。
「ここは……」
顔を上げると、そこは奇妙な光景だった。
遠くには中世ヨーロッパ風の古城が見える。
だが、俺が立っている場所は綺麗に舗装されたコンクリートの道路。
道の脇には、見覚えのあるコンビニエンスストアのような建物や、赤提灯がぶら下がった屋台が並んでいる。
空を巨大なトカゲ(ワイバーンだろうか)が飛び、その下をジャージ姿の主婦がママチャリで走っている。
「なんだ、この悪趣味なテーマパークみたいな街は」
ファンタジーと現代日本が、ミキサーにかけてぶち撒けられたような混沌。
ここが女神の言っていた『太郎国』か。
俺は深いため息をつくと、ルチアナに渡されたカートンから一箱取り出し、封を切った。
慣れた手つきで一本くわえ、ポケットに入っていたオイルライターで火をつける。
シュボッ。
紫煙を深く吸い込み、異世界の空に吐き出す。
空気は少し澄んでいるが、どこか懐かしい排気ガスの匂いも混じっていた。
「……シケた場所だ」
俺はサンダルをペタペタと鳴らしながら、このふざけた世界への第一歩を踏み出した。




