学年一の才女がクソザコエロ女だったんだか…
あれ以来、神凪とは図書室で会えば少し言葉を交わす程度の関係に落ち着いていた。
同じクラスではあるが、教室で彼女が誰かと雑談しているところを見たことがない。
彼女はいつだって本を開いている。休み時間でも、放課後でも。ページをめくる指の速さからして、並の読書家じゃない。
――才女。
クラスの大半が彼女をそう呼ぶ。
けれど俺は最近知り始めている。
その清楚で知的な外見の奥に、何かと爆弾めいたワードを無自覚で落としてくる、“別の顔”があることを。
「橘くん」
「……ん?」
「今日も...ちょっと..その私の手伝ってくれる?」
……ほら、こういうのだ。
昼休み。
静かな図書室の奥で、神凪結衣は一冊の分厚い辞書を小脇に抱えながら、俺をちらりと見上げた。
「じゃあ、橘くん本日もアレ、お願いね」
その言い方に思わずむせた。
声をひそめてるのに、妙に含みのある響き。
「……神凪、その言い方だとちょっとあれだから」
「え? ただ、上の棚を一緒に整理してほしいって言ってるだけなんだけど?」
小首を傾げ、真っ青な瞳で見つめてくる。その無邪気さが逆にいやらしい。
本棚の上段に手を伸ばした瞬間、神凪がすっと俺の背中に近づいてきた。
ふわりと髪が肩口に触れる。甘いシャンプーの香りが、鼻の奥をくすぐった。
「ほら……もう少し、奥まで入れて..!」
「……おまっ、その言い方……!」
思わず声を荒げると、神凪は首を傾げて目をぱちぱちさせる。
「え? ただ本を棚に戻してほしいだけですけど?」
そう言いながら、俺の肘に自分の胸を押し当てるように体を寄せてくる。完全に無自覚だ。
距離感ゼロ。
制服の生地越しに伝わる柔らかさに、俺の心臓は爆発寸前だった。
「……神凪、近いって」
「そうですか? でも、ほら……支えてあげないと、橘くん、落ちちゃいますよ?」
耳元に吐息をかけながら囁く。その声音がいやに艶っぽくて、理性が削られていく。
「……天然でやってるのか、確信犯なのか、わかんねぇな」
「え? わたしはいつも真面目ですよ? 本に嘘は書いてありませんから」
にっこり笑って言うけど、その仕草一つ一つが全て卑猥に変換されてしまう。
――才女の仮面の裏に隠された、天然すぎる小悪魔。
気づけば俺は、神凪結衣という存在に、ずぶずぶと引き込まれていた。
ようやく本を棚に収め終えた頃、俺は心臓を落ち着けようと深呼吸した。
だが神凪は、そんな俺をじっと観察するように見上げてくる。
「……橘くん、なんか顔赤い」
「いや、そりゃ……あんな距離近かったら誰だって……」
「え? 近かったかな? だって本が大きいから、わたし一人じゃなかなか上手くイケなくて。橘くんがおっきくてよかった」
わざとじゃない。わざとじゃないのは分かっている。
けれどその受け取り方によっては危険ワードを無自覚に繰り返されるたび、俺の脳は危険な方向に変換してしまう。
「……っ! お前……言葉選べよ、ほんとに……」
「どういうこと?」
首をかしげる仕草まで清楚で、だからこそ余計にタチが悪い。
しばしの沈黙。
俺が言葉を詰まらせていると、神凪はふっと笑った。
「……ねえ橘くん」
「な、なんだよ」
「わたしといると、変なことばっかり考えちゃうの?」
その言い方があまりに無邪気すぎて、逆に背筋がゾクッとした。
からかっているわけでもなく、本当に純粋な問いかけ――だからこそ余計に卑猥に響く。
「……お前さ、ほんっと無自覚爆弾だな」
「爆弾? そんな危ないもの、わたし持ってないわよ?」
「……いや、充分危ないわ」
小さく笑うと、神凪はまた本を開き、視線をページに落とした。
しかしその横顔はほんのり赤く染まっていて――俺はそれを見逃さなかった。
もしかすると。
彼女は自分の“無自覚”を、ほんの少しだけ分かっていて――わざと装っているのかもしれない。
「じゃあ次はこれお願いね?」
そう言われ俺は辞書を受け取った。だがそこで事件が起きた。
本棚に辞書を押し込もうとした瞬間、足元がぐらりと揺れた。
反射的に手を伸ばして――俺は、神凪の胸に触れてしまった。
「……っ!?」
柔らかい。温かい。俺の手のひらを包み込む感触に、脳みそが真っ白になる。
「ご、ごめんっ! 今のは――事故で!」
慌てて手を離した俺を、神凪はぽかんと見つめていた。
頬がうっすら赤く染まっている。けれど怒るでもなく、ただ瞬きを繰り返して――
「……ねえ、橘くん」
「な、なんだよ……」
「わたしの……柔らかかった?」
小さな声。けれど耳に届いた瞬間、心臓が跳ねる。
その目は真剣で、どこか興味津々で。まるで、未知の事実を確かめたがっている研究者みたいに。
「っ、おま……! なに聞いてんだよ!」
「だって……橘くん、すごく驚いた顔してたから……。そんなに変だった?」
「変って……そういう問題じゃ……!」
神凪は唇に指をあて、少し考え込むような仕草をした。
その横顔はいつもの清楚な才女そのものなのに、口から出てくる言葉は危険すぎる。
「……橘くんにだけは、いろいろ教えてもらおうかな」
「はぁっ!?」
「ふふっ。……冗談よ?」
小悪魔みたいに笑って、また本を抱え直す。
けれど耳の赤さは誤魔化せていなくて――彼女がわざと卑猥な言葉を並べていると確信してしまった。
「それがお前の素なのか?」
「ふふっ、それは内緒。....でも橘くんになら私の全てを見られてしまってもいいかなって」
「……っ、と、とにかく今のは事故だからな!」
必死に取り繕う俺に、神凪は本を胸に抱いたまま、くすりと笑う。
「事故……ね。じゃあ、橘くんは“事故なら触っていい”って考えなの?」
「ち、違う! そういう意味じゃなくて!」
「でも結果的に、ちゃんと触ってたわよね? わたしの……胸」
上品な声音で、平然と口にする。
その瞬間、俺の心臓は跳ね上がり、顔が一気に熱くなる。
「お、おまえな……! そういう言い方やめろって!」
「え? どういう言い方? わたし、本当のことしか言ってないんだけど」
「……っ!」
才女らしい無垢な表情の裏に、からかいの光が確かに宿っていた。
神凪は指先で自分の髪を弄びながら、わざとらしく視線を伏せる。
「……でも、悪い気はしなかったわ」
「……は?」
「むしろ……ちょっとドキッとした。だって、橘くんがあんなに慌てるなんて思わなかったから」
ちら、と上目づかいで見上げてくる。
頬はほんのり赤く、それが演技なのか本音なのか、俺には見分けがつかなかった。
「……なぁ神凪」
「なに?」
「お前、やっぱ確信犯だろ」
「ふふ……どうかしら。わたし、ただの読書好きだもの」
そう言いながら、彼女はまた一歩、俺の方へ寄る。
制服越しに伝わる微かな熱。
耳元に届く、息混じりの囁き。
「……ねえ橘くん。もう一回“事故”、起きてもいいのよ?」
耳元で囁く神凪。
俺はさすがに黙ってられなくて、ほんの出来心で――
「じゃあ……次は、わざとでもいいのか?」
そう言った瞬間。
神凪の目が、かすかに見開かれた。
「……っ!」
頬がぱぁっと赤く染まる。
さっきまで余裕そうに揶揄っていた才女の顔が、一瞬で崩れてしまった。
「な、なに言ってるの……本気にしたら……困るじゃない……」
「おいおい、今まで俺を散々弄んできたのお前だろ」
「ち、違っ……! わたしはただ、その……ちょっと橘くんをからかおうと……」
「へぇ。じゃあ、神凪の“柔らかいの”も、からかいの一環だったのか?」
「~~~~っ!!!」
耐えきれなくなった神凪は、慌てて本で自分の顔を隠す。
耳まで真っ赤にして震えているのが、バレバレだ。
「な、なんで……橘くんってば、そういうこと言うの……ズルい……」
「いや、今のはただの反撃だからな」
「反撃禁止……っ!」
「は?」
「わたしが攻めるだけでいいの……! 反撃されたら……耐えられない……」
本の陰から覗いた瞳は、涙ぐみそうに潤んでいた。
「...その、何だ、悪かった」
思わず謝ると、神凪は本で顔を隠したまま小さく首を振った。
「ち、違うの……悪くない……でも……」
「でも?」
「……橘くんが、あんな反撃するなんて思わなかったから……心臓がびっくりして……」
小さな声。
普段の清楚で余裕ある才女らしさは欠片もなく、今にも泣き出しそうな子供みたいだ。
……とはいえ。
「いやいや、お前が先に仕掛けてきたんだろ」
「だ、だからって……本気で仕返しするなんて思わないじゃない!あんなセクハラじみた発言...」
「それはホントにすみません」
「もう!!!」
バン!と本を閉じ、彼女は俺の胸にぐいっと押しつける。
「この辞書で、橘くんをぺちゃぱいにしてやる!」
「俺には元から胸ありません!」
むきになって押しつけてくるけど、辞書ごときで痛いはずもなく。
むしろ神凪の必死すぎる顔が面白くて、つい笑いが漏れてしまった。
「……な、なに笑ってるのっ!」
「いや、あの神凪が子供みたいにジタバタしてるから」
「~~~~っ! 笑うなぁぁぁ!」
今度は辞書を持ち上げて、本気で頭に振り下ろそうとしてきたので――
「おい危ねぇ!」と慌てて押しとどめる。
その拍子に、神凪の身体がふらりと傾いて――
ドサッ。
気がつけば、俺の腕の中にすっぽり収まっていた。
「……」
「……」
互いに硬直する数秒。
そして次の瞬間――
「~~~~っ!!!!」
神凪は飛び退いて、顔を真っ赤に染めた。
「こ、これは事故! 事故だから! 絶対に勘違いしないで! いいわねっ!」
「……誰よりも事故が多いの、お前だろ」
「うるさい!!!」
そう言い捨て神凪は去っていった。なんだか非常に股間が痛いのである。鎮まれ俺の息子よ。
ーー俺の大学受験までおよそ一年と七ヶ月。
今日は帰ったら勉強の前に....