追放された令嬢は、時間を操る魔女となる
「君には貴族の品位がない──だから婚約を破棄する」
信じていた婚約者に、すべてを奪われた。
地位も名誉も、そして私自身の存在も。
……けれど。私は、消えたりしない。
奪われたものを“時の力”で取り戻す。
これは、ただの復讐譚じゃない。
私がもう一度、人生を取り戻す物語。
渡辺家の広間には、春の香りを纏った紅茶と、甘ったるい花の香水の匂いが充満していた。
時雨澪は、淡い青のドレスに身を包みながら、紅茶の湯気越しに婚約者の顔を見つめていた。
視線の先にいるのは、貴族の若き俊英・渡辺蓮。
整った顔立ちに金の装飾をあしらった礼服。礼儀正しく、聡明で社交界の人気者。
だが澪には知っていた。
彼が他人の目の前では優雅な仮面をつけているだけだと。
二人きりになると、彼は必要最低限の言葉しか発さない。笑いもなければ、視線さえほとんど合わせない。
そして何より、ここ数ヶ月、彼が彼女を連れて公の場に出ることはほとんどなかった。
(おかしいと思っていた。気づいていたのに、私は……)
紅茶を口に運ぶ手が震えていた。
婚約者としての義務は、誰よりも果たしてきたつもりだった。社交界のマナーも、剣術や魔法の基礎教養も。
家柄は渡辺家より少し劣るものの、祖母の代から高位貴族としての血を引く時雨家。
「蓮様の未来のために」と、無理をしてでも背伸びしてきたのは自分の方だ。
それでも、彼は笑ってはくれなかった。
「……澪、今日は来賓の方が多くてね。礼儀を欠かぬように。無駄な会話は控えてくれ」
「……はい」
咄嗟に返事が出た。
反射のような従順な返事。
だが、蓮の目はもう澪を見てはいなかった。彼の隣には、眩しいほどに白いドレスをまとった少女がいた。
栗毛の巻き髪に、大ぶりのダイヤの髪飾り。きらびやかな装いに似合う、あからさまな自信の笑み。
「蓮様、わたくしのスピリット魔法、お気に召しましたか?」
「ああ、見事だった。あの水竜を呼べるのは君くらいだろう」
「うふふ。蓮様のために、毎日練習したんですもの」
澪の胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
彼女の名は、フェリシア=グレイアム。
地方領主の娘で、最近急速に社交界に名を馳せている少女だ。
容姿も魔力量も申し分なく、何より人前での振る舞いが極めて上手い。
その彼女が、渡辺蓮の隣にいる。
そして澪は、彼の正面に座らされている──あたかも「比較対象」のように。
(私、今日……何をするために呼ばれたの?)
そう思った瞬間、運命の糸が切れる音がした。
「──婚約破棄を申し出る」
蓮の声が、広間に響いた。
まるでそれが「当たり前の手続き」であるかのように、感情の起伏は一切ない。
周囲の貴族たちがざわめく中、澪の時間だけが止まっていた。
「理由は──お前に、貴族の品位がないからだ」
ざわ……と空気が波打つ。
品位がない?
この一年、どれだけ努力してきた?
蓮にふさわしい淑女になるために、どれだけのことを犠牲にしてきた?
無能と言われても泣かずに歯を食いしばってきた?
それを……。
「……私が、何か……至らないことを……」
「聞いていないか? “貴族の品位がない”と明言した。それ以上の説明が必要か?」
冷たい声だった。
澪が知っている蓮の中でも、最も冷酷な声だった。
「君との婚約は、公的には解消。君の爵位は剥奪され、時雨家の名も中央貴族名簿から除名となる」
「っ……!」
呼吸が止まりそうになった。
そんな……時雨家を……!?
うちは先祖代々、法務魔道の家系で、宮廷で何百年も仕えて──
「これが……あなたの、望み……?」
「そうだ。これで君は自由だ。貴族のふりをする必要もない。庶民の世界で好きに生きるといい」
それは救済などではない。
ただの“捨て台詞”だ。
そして何より、周囲の誰も、澪をかばわなかった。
貴族たちは距離を取り、目を逸らし、使用人でさえ手を差し伸べない。
ああ、もう終わったのだと、澪は直感した。
(……終わった)
何も言わず、澪は立ち上がった。
テーブルの下で震える手を必死に握りしめながら、ただ一礼をして、その場を去った。
その背に、蓮もフェリシアも、何の言葉も投げかけなかった。
その日、時雨澪は一人で屋敷を出た。
蓮の父が形式的に用意した馬車に押し込まれたまま、行き先は「中央から最も離れた辺境」とだけ告げられた。
使用人も一人もつけられず、荷物はわずかに小箱一つ。屋敷にあった衣服や装飾品、魔導具はすべて没収された。
寒い雨が降っていた。
馬車の窓から見える景色は、どこまでも灰色で、花の色すらない。
澪の胸の奥にある“何か”が、ゆっくりと冷えていくのがわかった。
(……私は、捨てられたんだ)
それはただの婚約破棄ではなかった。
蓮は、澪の存在すら「なかったこと」にしようとしていた。
努力してきたすべてを無視し、価値がなかったと断じ、貴族社会から完全に切り捨てた。
それが、「渡辺蓮」という男の答えだった。
──
辺境にある小さな古屋に澪は移された。
風を防ぐ魔法結界は古く、部屋は湿っており、夜になると小さな魔獣が遠吠えをあげた。
けれど澪は泣かなかった。
悔しさも悲しさも、涙にするには、すでに疲れ果てていた。
手元に残された数冊の本と、祖母が遺したという古い日記。
彼女はそれを毎晩、明かりのない部屋で読み返した。
そして、ある記述に目が止まる。
「……“我が家には、禁忌の血が流れている。千年前に失われた、時間に干渉する魔術──”」
澪は思わず息を呑んだ。
「時間……魔術……?」
貴族の世界では、「時間を操る魔法」はあまりに危険で、遠い昔に封印された“禁呪”とされている。
過去を変え、未来を変え、人の運命をねじ曲げる可能性があるからだ。
だが、それが時雨家の血に宿っていた?
その時、ふと、指先に感覚が走った。
──時が、少しだけ巻き戻る。
数秒前まで燃えかけていたランプの芯が、再び点火されている。
まるで時間が“ひとコマ”戻ったように。
「これが……私の力……?」
震える手でランプを見つめながら、澪は目を見開いた。
そして気づく。
これは“やり直せる力”だと。
(……あの日に戻れたら、私は何をする?)
あの広間での裏切り。
侮蔑。
婚約破棄。
何も言えず、何もできなかった自分。
その時間を、ただ巻き戻すだけでは意味がない。
澪は、決意した。
「……奪われた時間を、奪い返す。今度は、私の意志で」
──
それから数日後。
森の中で澪は、小さな木箱に足を取られて転び、膝を擦りむいた。
倒れ込んだその体を、誰かがそっと抱き起こした。
「……大丈夫か?」
落ち着いた低い声に、澪は顔を上げる。
そこには、深い藍色の瞳と銀髪を持つ青年がいた。
「……あなた、誰……?」
「小鳥遊玲。元・宮廷魔法士だ。今は、辺境で魔術研究をしているだけの人間さ」
玲は穏やかに笑いながら、澪の膝に簡易治癒魔法をかける。
暖かな光に包まれて、澪の身体の痛みが引いていく。
「君……ただの娘じゃないね。魔力の波動が、時間をたゆたってる」
「……あなたには、わかるの?」
「わかるよ。僕も昔、同じような魔法を研究してた」
澪は警戒しながらも、彼に一つだけ尋ねた。
「……時間を操る力は、呪い?」
玲は少しだけ目を伏せてから、静かに答えた。
「それを呪いにするか、力にするかは……君次第だ」
その言葉は、澪の胸に刺さった。
──
その夜。
ひとり、空を見上げる澪の瞳に、かすかに光が戻っていた。
「……私を否定したすべての人間に、“時”が裁きを下す」
そう呟きながら、彼女は再び指を鳴らした。
魔力が巻き起こり、時間が揺らぐ。
その背に、金の魔法陣が静かに輝いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
少しずつ彼女の心を照らしていく「玲」の存在も、ぜひ見守っていただけたら嬉しいです。
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