祈り×沈黙
深夜。
人工照明に白く照らされたラボは、静かだった。人工音声の通知すら控えめにされ、壁際の冷却装置が小さく唸りを上げているだけ。外はまだ夜明前で、誰もが眠りについているだろう。
この時間が好きだ。誰にも見られない。誰にも、気を遣わせずに済む。
わたしは、車椅子のアームに指をかけると、静かに回す。滑るように進むよう設計された無音のタイヤは、まるで床の上を浮いているかのように滑らかだった。でも、わたしは知っている。
この数メートルを進むだけで、どれだけの“見えない段差”があるかを。
自動運転型の車椅子も、外部補助装置も断っている。効率のためじゃない。技術を信用していないわけでもない。ただ、自分で進みたいのだ。たとえ遅くても、不格好でも。
どこかで、わたしはずっと“与えられたもの”の上に立つことを恐れていたのかもしれない。
この身体も、知性も、与えられた仮初めでしかないなら。せめて、自分の意志で何かを動かしたい。
スクリーンの前に到着すると、システムが自動的に再起動を始める。
何千回目か、いや何万回目なのかももはやわからない進化のデータ演算が始まる。
もう、何度地球を殺しただろう。人類の文明を焼き尽くし、氷河期を強制し、酸素を奪い、何もかもを壊してきた。
でもそれは、未来の可能性をひとつひとつ潰していく作業でもある。
目指しているのは、ネセリアに適応しうる進化形。
人類という形を保ったまま、この病と共に生き延びる手段。
──それが、見つからない。
指先でチョーカー型のインターフェースに触れ、リンクを確認する。
わたしのAIは、旧式のボイス応答型だ。
本当なら、わたしも意識を接続し、もっと高効率な解析を得られていたはずだった。
でも、できない。
それは、父の研究の代償だ。
先天的にネセリアに感染していたわたしを救うため、父は未完成の遺伝子療法を施した。
その結果、わたしは部分的に症状の進行を抑えられたが、同時にメルトアップの適合要件を失った。それはすなわち、AIとの深度接続も不可能になったことを意味している。
本当なら、わたしはとっくの昔にその道を選ばなければならなかった人間だ。
ネセリアの進行は、幼い頃からわたしの神経を少しずつ侵し、身体の機能を奪い続けていた。
当時の医療水準では、進行を止める手段はなく、ただ意識が崩れる前に“意識だけを救い出す”しかないとされた。
実際、同じ病を抱えていた子どもたちは、ほとんどが十歳になる前に、メルトアップを選ばされた。
肉体を捨てて、永遠の静寂の中に“保存”される道。
それが唯一の希望とされていた。
でも、父はそれを拒んだ。
希望ではなく、未来を与えたかったのだと、今では思う。
ネセリア。
それは、神経系に作用する未知の感染症。
痛覚や感覚が歪められ、記憶が混線し、ついには人格そのものが解体される。
身体より先に心が蝕まれていく病。
必要(Necessary)であるがゆえに避けられない死の象徴として、ある研究者がそう名付けた。
あるいは、Necrosis――壊死の記録として。皮肉なことに、今やその名は世界中で当たり前のように使われている。
「必要、だなんて」
喉の奥に、感情が引っかかる。
わたしにとって、それは一種の呪いの言葉だった。
避けられない終わりを正当化するために、どれだけの人が“必要だから”と目をそらしてきたのだろう。
何が、ネセサリーだ。
誰が、そんなものを必要だと言った?
わたしの身体も、父の人生も、そのために失われなければならなかったのか?
だから、こんなふうに夜を延ばしてでも、わたしは演算を止めたくない。
未来がどれだけ失敗の山に埋もれていても、そのどこかにひとつ、意味のある解があるかもしれないから。
種の存続は絶望的だ。感染率は高く、発症までの潜伏期間も長い。
生殖機能にも影響を及ぼすため、未来の命すら立たれている。
だから、“彼ら”は選んだのだ。
肉体の一時的な凍結。
脳の深層構造とAIとのディープリンク。
個を守りながら、肉体を手放す道。
それが、メルトアップ。
理論上は意識も記憶も維持され、個人として存在し続けられるとされているが、実際には誰も“戻ってきて”はいない。
片道切符のその先に、本当に人間としての自分がいるのかなんて、誰にもわからない。
でも、わたしにはそれを選ぶことすら許されなかった。
そして今、こうして夜な夜な、演算を続けるだけの存在として残っている。
それでも、わたしはここにいる。
わたしにしかできないやり方で、未来を探している。
……もし、父がこのシミュレーションを見たら、なんて言うだろう。
わたしは静かに、演算結果を確認する。
また失敗。致死率98%。
100%じゃない、ただそれだけが──わたしにとって唯一の救いだった。
それでも。
それでも、まだ演算は止められない。
誰かが、この夜を越えなければならない。
アマネは明かりを落とさず、静かにもう一度、データを組み直す。闇のラボで祈るように。──彼女の演算はまたひとつ、世界を終わらせた。