決意×再訪
翌朝も研究棟は、人の気配がまばらだった。
時折、機材の稼働音や自律システムの小さな駆動音が壁の向こうから伝わってくる。
アマネは、端末の表示をじっと見つめていた。
新しく割り当てられたサーバー領域に、夜通し走らせたシミュレーションの更新ログが流れている。
その文字列のひとつひとつが、微細な感情の波をかたちにしていくようだった。
「なにこれ……すごい……」
背後から声がした。アマネは視線だけをそちらに向けた。ユイだった。
彼のワクワクした気配は、こういうとき隠しようがないのがよくわかる。
近づいてくる足音も、まるで抑えきれない好奇心のリズムのようだった。
「もうアップデート走らせてるんだね? やっぱり早いなあ。アマネちゃん、本当に異次元の処理速度だよ」
「私はアップデートの方向性の指示と、必要なデータの選別、それと簡単な計算を少ししているだけ」
アマネは表情を変えず答える。だが、その口調はほんのわずかに柔らかかった。
ユイは端末を覗き込みながら、スクロールしていくログの波に目を走らせる。
「簡単な計算か──ユイくんはリンゴを3個持っててアマネちゃんに1個あげました。きっとそんな計算だな。うん、簡単だ」
しばらくその流れを見つめたあと、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえばさ──セナさんと、明日会う約束をしたんだ」
アマネの指が、一瞬だけ止まる。
けれど、それは本当に一瞬のことだった。
「そう。よろしく伝えておいて」
声色も表情も、動揺していないかのように、アマネは振る舞った。
ユイは気づいているのか、いないのか。小さな笑みを浮かべたまま続ける。
「昨日アマネちゃんが話してたこと、ネセリアのこと、それにメルトアップのことも、もっとちゃんと知っておかないとって思った。早く話したいな」
その声には、真剣さと期待と、ほんの少しの不安が混ざっていた。
アマネは、そんな彼の気持ちを感じ取ってか、ただ静かに頷いた。
「じゃあ、ちょっと生物チームから必要なデータをもらってこないといけないから、ちょっと行ってくる。あとで、進捗共有してよ」
「新しいサンプルが揃えば、次の段階に進めると思う」
ユイは小さく笑って頷くと、背中を向けて部屋を出ていった。
アマネは、目の前の端末に視線を落としたまま、ただ、空気が変わるのを感じ取っていた。
扉が閉まり、静寂が戻ってくる。
先ほどまで確かにあったユイの気配が、空間からすっと消えていった。
アマネはゆっくりと息をついて、シミュレーションログを閉じた。
そこに表示されていた「変異パターンの最終走査群」には、彼女自身のコードネームと結びつく新しいタグがいくつか並んでいた。
私も今日セナに会う。
それをユイには伝えなかった。隠そうと思ったわけでは無い。わざわざ話すことでもないと、そう考える様にしている自分が少しだけ疎ましいと感じる。
昨日、久しぶりにセナに会った事は、きっとほんの偶然に過ぎない。けれど、これを頼むならやはり彼しかいない。そう感じた。
「オロス、アップデート作業をこのまま継続させて。観測サイズを惑星規模にまで拡大して」
呼応する様に、シミュレーションの世界と、チョーカーデバイスがわずかに点滅する。
アマネはもう一度だけ、端末に視線を戻し、パラメータが動いているのを確認して、スリープモードに切り替えた。
バックレストに手をかけ、車椅子を回す。
フロアの明かりが、自動で少しだけ強くなる。
連日でカイロスドームに行くのは、少しだけ気が重かったが、昨日のセナの懐かしさが、少しだけアマネの気持ちを軽くしてくれていた。
昨日と同じ道を、昨日と同じ電車を、昨日とは違う気持ちで進んでいる。
普段なら嫌になる様な向かい風も、帰りには追い風になっているかもしれないと思うことができた。
約束よりも少し早く、アマネはカイロスドームの受付ゲートを抜けた。
通路を進みながら、視線を壁際の案内表示にも、すれ違う職員にも向けなかった。
途中、肩越しに小さくチョーカーデバイスが振動した。オロスからの通信は特にない。ただ、バックグラウンドで作業が継続していることを知らせる合図だった。
セナの部屋は、中央区画の医療ブロックにある。通い慣れているとは言えないが、アマネの車椅子の動きは迷いがなかった。
部屋番号を確認し、扉の前で一度だけ深呼吸し、ドアチャイムを鳴らす。
静寂がわずかに満ちたあと、扉が静かに開いた。
「やぁ、アマネちゃん。準備は出来てるよ」




