不完全×不完全
一部リライトしまし。
2025/05/27
壁一面のスクリーンに、かつての地球が映し出されている。
あれはもう存在しない過去の風景。けれどこれは記録映像ではない。私が構築した、超高精度の地球環境シミュレーションだ。
地形、気候、生態系、果てはヒトの暮らしに至るまで、量子スケールで再現している。
操作用のアームレストに手をかけながら、私は車椅子ごと少し前に滑らせて画面を見上げる。
「……うわ。これ、本当にシミュレーションなの?」
背後から声がして、私は振り返った。
パーカー姿の青年が、スクリーンを見上げていた。
足元はラボに似つかわしくないスニーカー。フードは脱いでいるが、研究所の格式には明らかにそぐわない。
「……誰?」
「ユイ。今日から共同研究するんだって。よろしく、アマネちゃん」
屈託のない笑顔。けれど、その目の奥にある温度は妙に落ち着いている。
私はその顔に見覚えがなかったし、名前にも聞き覚えはない。
でも彼は、まるで昔から知っている友人のような距離感で、こちらに歩み寄ってくる。
私のプロジェクトルームに、初対面の人間がいきなり入ってきてこの態度。
正直、いろいろと許容しがたい。
「……あなたに“ちゃん”付けされるほど、私たちが親しいとは思えないけれど」
「えー……だってアマネちゃんって感じだよ。あ、これ、触っていいやつ?」
「触ってから聞かないでくれる。勝手にあちこちいじらないで」
「了解。怒られるの、早かったな……じゃあ改めて。今日から一緒にやることになったユイです。
こう見えて、生物サイドのサブチームでリーダーやってたりする。すごいだろ」
彼の視線は、私が作った世界に引き込まれているようだった。
私の知らない青年。でも彼の目に、私の研究が確かに映っている。ただ、それだけのことなのに、少しだけ自分の研究が肯定されたような気がする。
「共同研究なんて、聞いてない」
「俺も昨日の夜に言われたばっか。どっちにとっても唐突ってやつ」
悪びれる様子もなく、ユイはホログラムに顔を近づける。
その眼差しは、研究者のものだった。
「このマップ、重力分布に主観変数入ってる? 動きに“癖”がある」
ユイは画面をじっと見つめながら、驚きを隠せない様子だった。
「観測者モデルを組み込んでる。感情因子との紐づけはまだ」
私は少し肩をすくめて、あまり強調しないように答えた。
「それでこの精度? ……正直、すごいな。ひとりでやってるの?」
ユイの声には感嘆が混じり、目が輝いているのがわかった。
「そうだけど」
私の言葉は短く、突然の変化に対してまだ少し動揺している。
「……すげぇ。こんな精度、初めて見た」
彼の口元がゆるみ、純粋な感動がにじんでいた。
言葉は軽い。でも目は、冗談を言っていなかった。
その距離感に戸惑いながらも、どこか、救われるような気持ちがした。
「昨日まで、ケアセンターにいたんだ。もう少しで冷凍カプセル入りって話まで出ててさ。結構ギリギリだった」
無邪気なようでいて、どこか空虚な響きを持つその言葉に、私は言葉を返せなかった。
「生物サイドはさ、今となっちゃ絵空事って言われがちだけど、それでも俺たちは、まだ克服の道を探してる。
たぶん偉い人達は、アマネちゃんのシミュレーションと俺たちの研究を合わせれば、可能性の枝葉をもっと広げられるって思ってるんだろうな。
……俺自身、このシミュレーション見て、ちょっとだけ“勝てるかも”って思ったくらいだし」
「現実を見て。根拠のない可能性は、ただの幻想」
「うん。そうだね。でも……幻想にすがらないと、やってられないときもある。
冷凍されるくらいなら、未来に賭けたい。そう思ったんだ」
「……私の研究の邪魔はしないで。これは、私の場所だから」
「邪魔なんてしない。むしろ、すごく頼りにしてる。
感情因子と観測者モデルの融合なんて、今のところ他じゃ誰もやれてない。
アマネのシミュレーションは……一つの宇宙だよ。だったら、その中で希望を探しても、いいでしょ?」
「私のアプローチは“再現”じゃない。“推論”よ。
未知の変異を物理法則のレベルで一から組み直して、そこから“条件回避”を導き出している。
――その中で、ネセリアの発現条件を逆算し、
存在しない空間座標に“生まれなかった未来”を定義する。
それが、私の仕事」
言葉は淡々としているけれど、私は一歩ずつ自分の考えを整理しながら話していた。
感情が乱れていたのが、ほんの少しだけ静まっていくのを感じる。
「……難しすぎるけど、要するに“ネセリアが生まれない未来を探してる”ってこと?」
ユイの声が優しく返ってきて、そこに不安はない。
「そうね」
短く答えながら、私は深呼吸をした。気持ちが少し落ち着いてきている。
「……十分、幻想じゃん。でも、いいと思う。俺、そういうの嫌いじゃない」
ユイは柔らかく微笑んだ。彼の言葉が、わずかながら私の胸に響いた。
私は言葉を返さず、再びホログラムへ視線を戻した。
地球の上空を、衛星軌道の雲がゆっくりと回っている。
あり得たかもしれない未来。あるいは、もう戻らない過去。
そのはざまに、私の研究は立っている。
「可能性の枝葉を拾い集めたところで、根が腐っていたら意味がないの」
静かに、でも確かにそう言い残して、私はコンソールに指を走らせた。
マップの色調が微かに変わる。時間が進んだ。
誰にも気づかれずに、世界はまた一つ、静かに崩れていく。