幸せを手放して正解だった(1)
「口約束にして破棄されては困りますから」
そう言いながらジュピテール王国側は婚約に関する契約書を差し出してきた。しかも今この場で署名しろと言う。
……ここまで準備されているということは、今日決め打ちする気で来たんですね?
何かこちらに不利益な事が混ぜ込まれているのではないかと、厚さ3センチほどもあるその書類をお父様と一緒に隅から隅まで時間をかけて確認して。……あまりの条件の良さに、何か騙されているのではないかと疑ってしまう。
「本当にこちらに記載されている条件でよろしいのですか?」
だって持参金も要らないし、侍女もこだわりがなければ向こうが用意してくれる。ドレスなど装飾品もすでに用意されているため買い足す必要無し。それでいて以前と同じ支援を約束され魔術師も貸してもらえる。
ただ、婚約期間が恐ろしく短く、三ヶ月間。すぐに嫁いでこいという以外は破格の条件だった。
「こちらも侯爵家として、ここまで何もしなくて良いというのは……」
お父様の言う通り。我が家はお金持ちな部類の貴族だ。ここまで気を使って頂かなくても大丈夫なのに。
「それが皇太子のご希望です。愛する人が身につけるものは全て自分が用意したいと」
……確かに以前の私はクロノス様が用意してくださった物だけを身につけて暮らしていた。あれはそういう趣味だったのか。
「逆に考えてください。支援と魔術師を差し出す代わりに、こちらはその条件をつけてでもジェニファー様を早急に、1日でも早く欲しているのだと。身一つで嫁いでいただくのが一番早いでしょう?」
上手く言いくるめられているような、重大な何かを見落としているような、複雑な気持ちのまま契約書にサインして。私は晴れてクロノス様の婚約者となった。
急すぎてなんだか実感が湧かなくて……この時には喜びという感情はまだほとんど無かった。
◇◇◇
「やっと終わった……」
長かった。交渉から始まり、自分の婚約まで済ます長丁場。もうすっかり夕刻になってしまった。
エディソン侯爵家に馬車が着き、お父様と共に降りる。
「私は家の者たちに婚約の件を話してくるから、今日くらいはゆっくり部屋で休むんだよ」
お父様がぽんぽんと私の頭を撫でる。急に決まった婚約話……きっと皆を驚かせてしまうだろう。ずっと家にいてもいいのよ、なんて言っていたお母様は驚いてひっくり返るかもしれない。
もう三ヶ月もすればこの侯爵家から去らなければならないのかと思うと、大好きな人の元へ行くというのに少ししんみりとしてしまって。
久しぶりに庭の花でも眺めようと思い立ち、屋敷に入る前に庭へと向かった。
クロノス様と一緒に暮らしていた期間、私はガーデニングに精を出していた。なのでその頃に好きだったオールドローズの色を咲かせる薔薇を、このエディソン侯爵家の庭にも植えてある。
冬には咲かない花なので今見ても花は見られないが、心を落ち着けたい時にはなんとなく足が向く場所だった。
「ジュピテール王国はここより寒いけど持っていったら育つかしら。庭師に聞いてみ、きゃっ! ……んんッ!!」
突然何者かに植え込みの茂みに引き摺り込まれ手で口を塞がれる。身の危険を感じ暴れるが完全に組み敷かれてしまう。この展開は非常にまずい! ……と思ったのだが。私を捕らえている人物を確認したところで抵抗を止める。
「やっと1人になってくれた」
黒くて長い髪が、私の頬にサラリと垂れる。先程交渉の場で見た、長身でフードを目深に被った……クロノス様の顔をしたジュピテール王国の男性だった。
「――ンッ!」
この人には聞きたいことが山積みなのだ。なのに口元を塞ぐ手を避けてくれない。身を捩ったってびくともしない。
「何? そんな顔で睨んだって可愛いだけだよ」
全然通じ合えないので、しょうがなく少し口を開き、接している手のひら部分をぺろりと舐め上げる。
これですよ、これ! 手退けてください、という意味で。
「ジェニー可愛い……キスしたい?」
……もう聞かなくとも分かった。
昨日お会いした白銀の髪の少年がクロノス様なのだろうが、理屈は解らずともこの黒髪の人も絶対クロノス様だ! この有無を言わせない愛し方、間違いない。色が違うだけで、神様の頃のクロノス様そのものだ。
そこでやっと口を抑えていた手が離れた。人間離れした美しい造形の顔が近づいてくるので、口付けられてしまう前に自らの手で口元を隠す。
「最初から最後まで、きちんと説明してくれるまでは駄目ですよ。クロノス様」
「……私だと分かっているではないか。ならば何も問題無いだろう」
やはりクロノス様で合っていた。しかし説明してもらわなければ状況が全くわからない。
まだ12歳でジュピテール王国の皇太子あるはずのクロノス様が、何故隣国に赴いた上に戦って、さらに成長した姿で自ら交渉の場に立ったのか。更に何故侯爵家の庭にいらっしゃるのか。
分からないことだらけだ。
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