子犬の瞳(2)
その日私は、以前のあの嫌な思い出を引っ詰めたような王宮に今世で初めて足を踏み入れた。
正直に言えば、恐怖で足が震えそうだった。ただでさえ寄りつきたくない場所なのに、以前の私の処刑日が着々と近づいてきている中こんな場所に来てしまったら……また処刑されてしまうのではないかという気がしたからだ。
あの時助けてくださったクロノス様はもういない、私は自分の力だけで自らを守らねばならない。どうか何事も起こりませんようにと願いつつ、以前に歩き慣れた王宮の回廊を進む。
使用人に案内されるがまま王宮の中庭にある四阿に着き、そこにあるお茶席で待つように告げられた。
ヴェストリスに植生する植物が集められたこの庭は、一周することで徐々にその様相を変化させながら四季を楽しめるように手入れされている。ヴェストリスの天国とも評されるこの庭は王宮お抱えの庭師達が丹精込めてお世話しており、この国自慢の空間だ。
諸外国の来賓をもてなす時など、ここぞという時に使われるその立派な中庭を、たかが私との対面に使用されていることに冷や汗が出てきた。
以前バートン様の婚約者であった時に何度か来賓のもてなしの為利用したことはあるが、招かれる側は初めてである。……だからこそ、王家側がこの婚約話にかける本気度が分かってしまうのだ。
「ジェニファー様。ようこそお越しくださいました」
私が到着すると待ち構えていたかのようにフォード様が登場する。
以前と同じ子犬のような眼差しで、呼び方に「義姉様」が付かないのだけが違う、正義感の強い第二王子。声も姿も、特に以前と相違する印象は無い。
さっとそこまで確認した後、王族に対する最上級の敬意の礼をとる。
「お招きいただきありがとうございます。ジェニファー・エディソンと申します」
「そんなに固くならなくて結構ですよ。だって僕の方がだいぶ年下ですから、どうぞ楽にお話してください。あ、そうだ! 今日の紅茶は僕のお気に入りなんです。気に入ってくれるといいなぁ」
席に座るように促され、影に控えていた侍女達がターコイズブルーのラインが入ったティーカップを用意し始める。その様子を横目でチラリと見て、内心ギョッとした。
何故なら、今用意されているティーセットは熟練の職人がこだわり抜いて作った特注の品で、そのティーカップ1つで貴族が1年遊んで暮らせる代物だ。外交の時など、特にここぞという客にしか出さない物で、勿論私はよく知っています。
……だって以前バートン様が「ジェニファーの瞳の色だから、話のネタになって助かる。良い値段するし、自慢できる品だ」と、私に自慢していらっしゃいましたから。
自慢する相手を間違えてどうするのですか……と頭を抱えたものだ。
間違えてカップを落としたら大変な事になってしまうので少し緊張しつつティーカップを手に取ると、私の正面の椅子に座り同じくカップを手に取ったフォード様が口を開いた。
「こうして2人で会うのは初めてですね。ずっとお話してみたいと思っていたんです」
「そうですね。こうやってゆっくりお話させていただく機会はありませんでしたね」
機会がなかったというか、私が極力避けていたと言うのが正解である。社交の場でも王家に対しては表面上の挨拶だけで、後は極力大人達に混じったりクロノス様を探すために幾分か年下の子の輪に入ってやり過ごしていた。
さて、どうやってこのフォード様がクロノス様かどうかを探ろうか……と考えながら紅茶を一口いただいてカップを置く。
「この香りはヴェストリス南部産の茶葉に……ジュピテール王国産を混ぜていらっしゃいますか? しかもジュピテール王国産の中でもランクの高い、夏時期収穫の物かしら」
「正解です。華やかで完成された香りなのに、どこかアンニュイな感じが良いでしょう? でも産地をぴたりと当てたのはジェニファー様が初めてですね」
当たっていてよかったと胸を撫で下ろす。
味や香りではそこまで産地を絞れなかったので、王室と取引がある友好国やヴェストリス国内産の中から近い茶葉を考え、更にフォード様の好みを必死で思い出し近いものを答えただけだった。
「ジェニファー様は、紅茶がお好きですか? よければ次回は別の茶葉を用意させましょう。今度は絶対に当てれないようなやつにしたいな」
「わざわざご用意いただくのも申し訳ないので大丈夫ですわ。フォード様もお忙しいでしょうし、私もお父様の補佐として国中を回っておりますから……その、時間が合わずにせっかくの茶葉が無駄になる可能性もありますし」
フォード様がいきなり次回の話を始めるので、慌てて言い訳する。
すごくグイグイと来る感じはクロノス様と近い部分が無いわけではないが……私の勘は、違うと告げている。クロノス様は何も教えてくれない時には本当に何も言ってはくれないが、愛情表現だけはストレートで有無を言わせないタイプの人だ。
なので、この時点である程度まわりくどく次回を取り付けようとしているあたりが違う……と思う。
「まぁそうですね。特にジェニファー様は既にエディソン侯爵の右腕として活躍してらっしゃる。先日もとある村で魔物対策をした上に橋の建設についても助言されたそうで。本来王家が全うすべき仕事を率先し尽力してくださっている姿に感銘を覚えました」
「そんな、貴族として当然の事をしたまでですわ。まだまだ苦しんでいる民が沢山いますから。彼らを助けながら、私は待っているのです」
……クロノス様にお会いできる日を。
「何を待っていらっしゃるのですか?」
「約束を果たせる日がくるのを、です」
違った時に言い訳のしようがなくなってしまうギリギリのライン。私にとってこれは最終確認だった。
ここまで言えばクロノス様なら絶対に気が付いてくれるはず。逆に、これで反応がなければ……ええ、全力で逃げ帰ります。
「……そうですか。僕にはその約束の内容はわかりませんが、いつかそれも言っていただけるような関係になりたいと思い、今日この場にお呼びしました」
期待はハズレだった。予想はしていたが残念に思ってしまうのは……私の中に焦りがあるからだろう。
「13年前の魔物の大規模襲撃の日、ジェニファー様は城下町にいらっしゃったそうですね。一緒にいたはずの侍女や護衛も息のない状態で発見され、貴女は遺体すら出てこなかった。その状況にエディソン侯爵は憔悴しきって、ようやく見つかった貴女を隠すように家に仕舞い込んだ。きっとその時に、ジェニファー様をそこまで決心させる何かがあったのでしょう?」
その通りだ。私の心はその時のまま、ずっとクロノス様を思い続けている。
「8歳も年下の僕はその時生まれてもいませんし、僕では貴女を癒すことも慰める事も難しいのかもしれません。現状力不足なのは承知しております。それでも、どの王族よりもこの国を見て民の目線で動き、本当にこの国を良くしようとしてくださっている貴女の横に立てる男になりたいと思ったのです」
逃げなければ不味い展開になる。
そう分かってはいるが本当に脱兎の如く走り去るわけにはいかないので、何と言うべきか悩んだ隙に、がっしりと手を掴まれた。その衝撃でテーブルが揺れ、ティーカップがカチャンと音を立てる。
「近い将来、貴女に頼ってもらえるような男に必ず成ってみせます! ですから、どうか僕の事を考えてみてください。……ずっと好きだったんです」
いつもは子犬のような瞳が真剣なのも、掴まれた手から感じる熱も、本物だった。