タヌキの薬剤師さん
小さな町の薬局の話をします。
クマのお医者さんの隣にある薬局では、タヌキの薬剤師さんが働いていました。
お医者さんは怖そうな見た目をしていますが、患者さんにはとても優しく接していました。
そのため、お医者さんの評判は良く、隣の薬局にも多くの患者さんが訪れ、薬剤師たちは忙しく働いていました。
ある日、キツネの若者とヤギのおじいさんが、それぞれ薬局に入ってきました。
処方せん(お医者さんが『この患者さんにはこの薬を出すように』という指示を書き記した紙の事です)を受付のネコさんに渡して、キツネさんとヤギさんは待合室のイスで自分の薬が出来上がるのを待っていました。
その薬局にはタヌキさんの他にも薬剤師がいたのですが、他の患者さんにかかりきりになっていたので、タヌキさんはキツネさんとヤギさんの薬を一人で用意しなければいけませんでした。
先に来たのはキツネさんでしたが、薬の準備するための時間の関係で、先にヤギさんの薬を渡すことにしました。
ヤギさんの薬を渡して、お会計を済ませると、急いでキツネさんの薬を用意します。
キツネさんは、長く待たされたことに腹を立てて、ろくに説明も聞かずにひったくるようにして薬を受け取りました。
薬代を払って、おつりを受け取ると、何も言わずに帰ってしまいました。
そうこうしている間にも、次から次へと患者さんたちが薬局を訪れます。
タヌキさんは、その後もしばらく薬局の中で忙しく動き回っていました。
患者さんの流れが落ち着いたのは、それからずっと後の事でした。
一日の仕事が終わってから、薬局に電話がかかってきました。
電話をかけてきたのはヤギのおじいさんで、電話に出たのはタヌキさんでした。
ヤギさんは、「今日もらった薬の袋を見てみたら、せき止めの薬が入っていないみたいなんだよ」と言っています。
もしかしたら、薬を渡し忘れているのかもしれないと考えて、タヌキさんは薬の出庫記録を調べました。
しかし、薬局にある薬の数と、出庫記録の上での在庫数にズレはありません。
そのため、薬を渡し忘れている可能性はなさそうです。
タヌキさんは考えました。
ヤギさんは、かなりのお年寄りです。
もしかすると、気が付かないうちにどこかへ薬を置いてしまったのかもしれない。
あるいは、帰り道の途中で落としてしまったのかもしれない。
はたまた、薬と気付かずにうっかり捨ててしまったのかもしれない。
ともかく、薬を渡し忘れている訳ではなさそうなのだから、おそらく患者さんの所に薬があるはずだ。
そんな風に考えて、タヌキさんはこう答えました。
「落ち着いて、もう一度ゆっくり探してみて下さい。どうしても見つからなければ、先生に相談して、もう一度処方せんを書いてもらえるか聞いてみて下さいね」
それを聞いたヤギさんが、もう一度家の中を探してみると言ったので、タヌキさんは片づけをして薬局をあとにしました。
お年寄りだから、どうしてもこういう事が起こるときはあるよね、と考えながら。
しかし、タヌキさんは、もう少し慎重になっておくべきでした。
例えば、薬の渡し忘れが無かったとしても、渡し間違えが起こっているのではないか、と考えてみるべきでした。
話は変わりますが、ヤギのおじいさんの後に薬を受け取ったキツネの若者がどうしているかを見てみましょう。
キツネさんは、薬局でもらった薬と、薬の説明書を見比べていました。
そして、一つだけ、説明書に書かれていない薬が袋の中に入っている事に気が付きました。
まさにその薬こそ、本当ならヤギさんに渡されるはずだったせき止めの薬でした。
キツネさんは、薬局が間違えて他の患者さんの薬を自分の薬袋に入れていた事に気が付きました。
こんな時、いつものキツネさんなら、薬局に電話して、どういうことだと問いただす事でしょう。
しかし、彼はそうしませんでした。
キツネさんは、この薬がどういう薬なのかを知っていました。
この薬は『ハピナール』という名前で、強いせき止め作用を持っていることで知られています。
しかし、せき止めとしての作用があるのと同時に、多めに飲むことで高揚感や多幸感が得られるという働きもあります。
実は、キツネさんはクスリの乱用の経験があり、どんな薬を飲むと気持ちよくなれるのかについての知識がありました。
今ではクスリの乱用はやめています。
それでも、間が悪い事に、キツネさんはハピナールを手に入れてしまいました。
キツネさんからすると、まるでハピナールが『早く自分を使え』と言っているかのように感じられてしまいます。
そうなってしまうと、もう自分の意思でどうこうすることは出来ませんでした。
結局、キツネさんは、タヌキの薬剤師さんが誤って渡したハピナールを飲んでしまいました。
さて、ヤギのおじいさんは結局ハピナールを見つける事が出来ませんでした。
自分がうっかり失くしてしまったのだと考えたヤギさんは、次の日の朝にクマのお医者さんに事情を話して、お金を払って薬局にもう一度ハピナールを出してもらう事にしました。
ヤギさんは薬を受け取って、薬局をあとにしました。
それからしばらく経ったある日のお昼の事です。
他のスタッフが休憩室にいる時、タヌキの薬剤師さんは入り口の掃除をしていました。
クマのお医者さんは午前の診察と午後の診察の間に休憩時間を設けていますが、薬局は通し営業なので、患者さんが来た時のために、だれかが薬局内にいる必要があるからです。
タヌキさんが掃除を終えて薬局の中に入ろうとすると、突然キツネの若者が現れました。
こんにちは、とあいさつしようとすると、キツネはそれをさえぎるようにして言いました。
「ハピナールを、また出してくれないか?」
キツネさんはそわそわした、落ち着かない様子でした。
タヌキさんは、キツネさんの様子が少しおかしいことに気が付きました。
「ごめんなさい。そういった薬はお医者さんの診察を受けて、処方せんを出してもらわないと……」
「そんなことしなくても、この前は、あんたが俺にハピナールをよこしてくれたじゃないか?」
目を血走らせながら、キツネさんは迫ります。
キツネさんの言葉を聞いて、ようやくタヌキさんは気が付きました。
あのヤギのおじいさんが見つからないと言っていたハピナールは、自分が誤ってキツネさんに渡してしまっていた事に。
「も、申し訳ございません。もしかしてこの前お渡しした薬の中に……?」
「ああ、入っていたんだよ。ハピナールが」
タヌキさんの顔が、みるみるうちに青くなっていきます。
「あの、それで、ハピナールは今……」
「全部使った」
悪びれもせず、キツネさんは答えました。
タヌキさんは、思わずめまいを起こしそうになりました。
「使った、って……あの薬を全て飲んでしまったという事ですか……?」
「当たり前だろ? あんないいものを渡されてよぉ、使わないなんて選択肢は無いよなぁ? こっちからしたら、飢え死にしそうなところに上等なごちそうを出されたようなもんだぜ?」
「ああ……何で……私は何という事を……」
あわてふためくタヌキさんの肩をつかみ、言い聞かせるようにキツネさんが話します。
「まあ、いいじゃないか。ともかく俺はハピナールが欲しいんだ。あんたがミスしたおかげで、俺はまたクスリが欲しくてたまらなくなったんだ。当然用意してくれるよな?」
「そんな事……出来るわけないじゃないですか……」
「だったら、今回の事をおたくの上司や先生に話すまでだ。あんたもただじゃすまなくなると思うがな」
「……」
タヌキさんはだまりこんで、サルの薬局長とクマの先生の事を考えました。
患者さんに間違った薬を渡してしまい、しかもそれを患者さんが飲んでしまった。
こんな事が明らかになったら、二人は何と言うでしょうか。
薬局長はとても神経質で、いやみったらしい性格です。
この前も、患者さんに渡す薬の数を間違えた事を、他のスタッフのいる前で長々と叱責されました。
クマの先生も、患者さんには優しいけれど、それ以外に対してはとても厳しい態度を見せます。
もし自分のやった事がばれてしまったら、もう薬局にはいられなくなる。
今回の事がうわさになれば、薬剤師を続けるのも難しくなるかもしれない。
そんな考えに囚われてしまいました。
「……俺に考えがある。だまっていてほしければ、言う通りにするんだな」
「……」
うなだれるようにして、タヌキさんはうなずきました。
ここでもタヌキさんは、もう少し冷静になっておくべきでした。
どんなに頑張って隠し通そうとしても、いつかは必ずばれるものだと考えれば、ミスを隠すのはうまいやり方ではないと気が付いたはずです。
しかし、この時のタヌキさんは、自分がミスをしてしまった事についてのショックと、薬局長や先生に知られたくないという思いから、冷静さを失っていました。
タヌキさんはミスを隠すために、さらなる過ちを犯してしまいました。
タヌキさんは、キツネさんに言われるがままに、落ち葉を処方せんに変えました。
そして、それをキツネさんに渡しました。
キツネさんは時間をおいてから、素知らぬ顔で処方せんを薬局に出しました。
処方せんには、ハピナールを出すように、と書かれています。
ハピナールを受け取ると、キツネさんは我が意を得たりという顔で帰っていきました。
そんな事が、何度か続きました。
キツネさんは、薬を受け取るときには必ずタヌキさんから受け取るようにしています。
偽物の処方せんを見破られたり、何度もせき止めの薬をもらっていることを怪しまれたりするのを避けたかったからです。
もっとも、タヌキさんが作った偽物の処方せんは、とてもよく出来ていたので、偽物だとばれる事はありませんでした。
受付のネコさんも、サルの薬局長ですらも、処方せんが本当は葉っぱなのだと見破れなかったほどです。
キツネさんは、何度も薬局を訪れ、偽物の処方せんでハピナールをもらっていきます。
処方せんに書かれているハピナールの量も、キツネさんの指示で段々増えていってます。
さすがのタヌキさんも、このままではまずいと思いました。
「あの、キツネさん……さすがにこれ以上は……」
「うるさいな。あんたはさっさとクスリを出せばそれでいいんだよ」
キツネさんは、聞く耳を持ちませんでした。
「俺の言う通りにしていれば、あんたも薬剤師を続けられるし、俺もクスリが手に入る。だれも困らないだろう?」
そう言って、うっとうしそうにしながら薬局をあとにしました。
薬局長は、最近になってハピナールが処方される回数が増えていることに気がついていました。
ですが、キツネさんが偽造された処方せんを使ってハピナールをもらっているという事にまでは気が付きませんでした。
「タヌキさん。あのキツネの患者さん、この所ずっとハピナールが出ているけれど、そんなにせきがひどいの? クマ先生がハピナールをこんなに続けて出すなんて珍しいよね?」
そう聞かれても、タヌキさんは平静を装って言いました。
「せきがけっこうひどいみたいで、先生も仕方なく出しているみたいですよ。薬はちゃんと使えているみたいで、飲みすぎや乱用の心配はなさそうですし」
しかし、ついにタヌキさんが恐れていた事が起きてしまいました。
月曜日の朝、いつもより早めにサルの薬局長が薬局にやってきました。
たまっている書類仕事を片付けようと思っての事でした。
そこで薬局長は、信じられないものを目にしました。
「うう……ハピナール……ハピナールを……」
薬局の前にいたのは、あのキツネさんでした。
うわごとのようにして、ハピナールを求めています。
キツネさんが正気ではないのは、もはやだれの目にも明らかでした。
「ちょっと、キツネさん!? 大丈夫ですか!?」
薬局長も、彼がハピナールの使い過ぎでこうなったのだと考えて、すぐに近くの大きな病院へと連れていく事にしました。
薬局が営業を開始してしばらくしてから、タヌキさんが薬局にやってきました。
荷物をロッカーに入れて、白衣に着替えようとしたその時でした。
「タヌキさん。ちょっと悪いけど、すぐに応接室に来てくれないかな?」
薬局長に声をかけられて、タヌキさんは落ち着かない様子で応接室に向かいました。
「この処方せん、全部タヌキさんが鑑査したものだよね。あのキツネの患者さんにハピナールが出されているものだけど」
応接室の机の上には、合わせて8枚の処方せんが並べられていました。
その全てが、タヌキさんが葉っぱを処方せんに変えたものでした。
「あのキツネさん、ハピナール中毒を起こしていたんだ。薬局の前でハピナールをくれってうめいていたから、あわてて病院に連れて行ったんだ。ハピナールを処方していたクマ先生に事情を話しに行ったら、『キツネさんにハピナールを出したことは一度も無い』って」
タヌキさんは、下を向いてだまったままです。
「つまりこの処方せんは、偽物だったって事。良く調べたら、処方せんの正体は葉っぱだったんだよ。こういう事が出来るのは、キツネやタヌキなんだけど、あのキツネさんがここまで精巧な偽物を作れるとは思えない。タヌキさんはどう思う?」
タヌキさんは、どう言えばいいのか途方に暮れてしまいました。
元はと言えば、薬を間違えて渡すというミスをした事を隠したかったから、キツネの言う通りにしたのが始まりです。
しかし、そもそもどうして自分はミスを隠そうとしたのだろうか。
もし正直に話したら必要以上に責められるからこそ、自分はミスしたことを隠そうとしたのではないか。
そう考えれば、必ずしも自分だけが悪いという訳では無いような気もしてきます。
「……私は何も知りません。偽物だと気が付かなかった私が悪いのはもちろんですが、あのキツネさんがどうやって偽物の処方せんを用意したのかまでは見当もつきません」
結局、タヌキさんはシラを切ることにしました。
しかし、薬局長は続けます。
「この前ネコさんが、タヌキさんが葉っぱを処方せんに変えるところを見たって言っているけど?」
「……知ってて聞いたんですか? どうして私がやっていると知りながら止めようともせず……あっ」
「いや、薬局長としてとても残念だけど、今まで全く気が付かなかったよ。それにしてもタヌキさん、語るに落ちたね」
薬局長に鎌をかけられて、ついにタヌキさんは自分が処方せんの偽造をしたことを認めるに至りました。
「タヌキさん。あなたはうちの薬局をつぶす気なの? 薬剤師が薬物乱用の手助けをするなんて、一体どういうつもりなの?」
薬局長は努めて平静を保っているようですが、声はふるえていました。
これから薬局や自分に起こる事を考えれば、そうなってしまうのも仕方ない事なのかもしれませんが。
「どうしてあのキツネさんにハピナールを渡そうとしたの? お金でももらっていたの? それとも脅されてたの?」
「……まあ、脅されていたと言えば、そうなんですけど……」
「何を言われたの?」
「……実は、ヤギさんに渡すはずだったハピナールを間違ってキツネさんに渡してしまって。その事をだまっていて欲しければもっとハピナールをよこせと言われて……」
「そんな事で処方せんの偽造をやったの!?」
タヌキさんはだまりこんでしまいました。
そんな事で、とは何だ。
そのために自分がどれだけ悩んだのか、あなたには分かるのか。
そもそも、ハピナールを間違えて渡したことを正直に話していたとしたら、あなたはどんな言葉で私を責めていただろうか。
その場合は、決して『そんな事』と言って許してくれたりはしなかっただろうに。
タヌキさんは、怒りにも似た感情をこめて、薬局長を見据えていました。
薬局長は、そんなタヌキさんの様子を見て、どう言っていいのか分からずにだまりこんでしまいました。
それからしばらくして、警察署から来たイヌさんと、保健所から来たウサギさんが、薬局に立ち入りました。
クマ先生も、今回の事を知ってかんかんです。
結局、キツネさんは偽造した処方せんの使用などの容疑で捕まってしまいました。
タヌキさんは、薬剤師を続けることが出来なくなりました。
薬局には、医薬品の不正な取り扱いを理由として、業務停止の処分が下されました。
その後、タヌキさんがどうなったのかは、だれも知らないのだそうです。
・日本国内において、処方せんの偽造・変造は刑法159条(私文書偽造等)、偽造・変造処方せんの行使は刑法161条(偽造私文書等行使)及び刑法246条(詐欺)に基づいて処罰されます。麻薬や向精神薬の処方せんを偽造・変造した場合、麻薬及び向精神薬取締法に基づく処罰も行われます。
・薬剤師法第5条および第8条によると、薬剤師について、薬事に関し犯罪又は不正の行為、又は薬剤師としての品位を損するような行為のあったときは、戒告、3年以内の業務の停止または免許の取消しといった処分が下されます。
・処方せん医薬品の不正販売違反など、薬事に関する違反があった場合、薬局に対して医薬品・医療機器等の品質・有効性及び安全性の確保等に関する法律(薬機法)第75条第1項の規定による許可の取消し及び業務停止が行われる可能性があります。
・ミスというのはどんな職場でも起こり得るものです。ただし、ミスを隠すことは許されません。薬局の場合、調剤機器の設定ミスで、本来渡すべき薬ではないウブレチドという薬を、23人の患者さんに合計2970錠、誤って渡してしまうという事件が起きています。この時に誤った薬を渡した薬剤師は、間違いに気づいたにも関わらず『社長に叱責されるのが嫌で報告も回収もしなかった』と述べており、それからおよそ1週間後に中毒による死者が出るに至りました。もしミスに気付いた時点で適切な対応が取られていたらと考えると、残念でなりません。本作品とは状況も大きく異なっておりますが、ミスを隠そうとしたり、そのために不正に手を染めるような事は決してあってはならないと思われます。
・あくまで私見ではありますが、このような現場で一番大事なのは『ミスを隠さなくてもよい』と思えるような組織づくりであると考えます。ミスを厳しく叱責する事が、ミスの隠ぺいに繋がるのだとしたら、本末転倒のように感じます。
・以上、長々と書かせて頂きましたが、万一事実誤認等が含まれている場合は、お手数ですがご指摘いただけますと幸いです。