末期の刻
豪奢な調度品と立派なデスクのある部屋に、俺は音もなく舞い降りた。
灰皿にうち捨てられた葉巻からは良い香りが漂う。
だが、じきにそれは甘苦い香りとなって、最後には何の香りもしない灰に成り果てる。
先ほどまでそれを堪能していた男は、ゆったりと椅子に座っていた。
だが、俺を見るなり濁った目を見開く。
俺は肩をすくめて、彼を見つめた。
湯上がりのように瑞々しい髪と五年前程から伸ばし始めた髭は、この男の虚像を覆い隠すように威厳を持たせている。
ただ、イタリアの名匠に作らせたオーダーメイドのスーツと靴は、まるで拘束着のように自由がない。
そして、手巻き式の高級腕時計は正確に時を刻み続け、その男が確かに生きていることを示していた。
男の外見や物は一級品。
地位や能力もそれに見合ったものを持っている。
ただ、その目だけは不釣り合いなほどに濁っていた。
俺は無言で窓辺に行く。
薄暗い夕闇の中、濁った空とは裏腹に人々が住む建物が星のように輝いている。
地上に浮かぶ紛い物の星空を一瞥すると、俺は静かに男に話しかけた。
「久しぶりだが……大分成功したようだな」
男は俺が来た意味を取り違えたのか、傲慢な笑みを浮かべる。
顎を少し上げながら自信に満ちた顔をして口を開いた。
「もちろんだとも。あんたのおかげで、やることなすこと全て上手くいったのさ。今や俺はこの国で有数の金持ちになれたし、女も選びたい放題だ」
確かに、この男は成功した。
両親を飛行機事故で亡くしたこの男は、親戚をたらい回しにされたあげく、北の大地に人足として売られていった。
そんな状況でも、彼の目はまるで熱く燃えさかるルビーのような輝きを持っていて、俺はその輝きに可能性を感じた。
だからこそ、俺は彼と契約して運命を切り開く機会を授けてやったのだ。
人は才能や才覚だけでなんとかなる物ではない。
それを活かすだけの舞台があってこそ、大成する。
男は俺が与えた機会を自らの命を燃やし尽くす勢いで必死につかみ取り、今や一国の首相ですら動かすことの出来る大物へと成り上がった。
俺はじっと男を見つめて問いかける。
「それで、約束の期限については覚えているな?」
男はまるで雷にでも打たれたかのように硬直すると、まるで小動物のようにわなわなと震え始める。
大きく見開いた目と半開きの口、そして耳を澄まさなくても聞こえてくる心臓の鼓動。
俺が一歩彼に近寄ると、椅子から勢いよく立ち上がって扉へ掛けだそうとした。
だが、恐怖で足が動かなかったようで、みっともなく地面に転がってしまう。
音もなく彼に近づいて肩に手を触れると、声にならない悲鳴を上げながら床を転がる。
「大丈夫か? まだ幾ばくかの時間はあるのだが……その様だと、今すぐにでも死んでしまいそうだ」
俺の言葉に、男は冷静さを少しだけ取り戻す。
「まだ時間があるというのか!? 何故それを早く言わない! 後……どれくらい残っているんだ」
俺は優しげに彼の背中を撫でながら、静かに告げた。
「後一分だ。僅かだが、思い残すことがないように使って欲しい」
彼は発狂したように叫びだした。
「うわああぁぁぁぁぁ! 嫌だ……嫌だ……俺はようやくここまで来たんだぞ。これからっていう時に何故なんだ! この悪魔め……こんなことなら、お前なんかと契約しなければ……」
男は考えつくばかりの罵詈雑言を俺に浴びせ続けた後、糸が切れた人形のように力を失って動かなくなった。
部屋に籠もった陰惨な空気を解放するように、俺は窓を開ける。
ため息を外に向かって吐くと、白い霧となっていく。
温かみのあったはずのその霧は冷たく張り詰めた虚空に飛散して、すぐにその一部と成り下がるのだった。
――俺が彼と交わした契約は単純な物だ。
彼の寿命を犠牲にする代わりに、成功の機会を与え続ける。
死ぬまで虐げられて無味乾燥な一生を全うするか、二十年間幸せな人生を送る。
俺と契約したということは、彼は後者を選んだということだ。
もちろん、俺が出来ることにも限界がある。
その人間の寿命と才覚を圧縮した分しか、その人間は成功できない。
この男の大成ぶりからして、才覚はかなりあったはずだ。
だが、そのきっかけを作り続けたのは俺であり、成功するために彼は文字通り燃え尽きるまで寿命を燃やし続けた。
だから、彼がこうして死んでいくのは、ある意味では当たり前すぎる結果に過ぎないのだ。
俺は彼を優しく地面に寝かせると、見開かれた男の目を静かに閉じた。
――これは優しさからではない。
成功という毒気に当てられて濁り果てた目を、これ以上見たくなかったからだ。
彼の腕時計がまるで残滓のように未練がましく時を刻み続ける。
その音を聞きながら、俺は静かに呟いた。
「今日はもう一件仕事をしなければならないな……」
* * *
空はすっかり暗くなり、濁った空は地上の街灯に照らされて曖昧に光っていた。
歓楽街に近づくにつれて、人通りが多くなる。
少し厚着をした恋人達が、むき出しの手を繋いで幸せそうに歩いて行く姿、仕事帰りの者がクリスマスの贈り物を選ぶ姿……
今を生き、そして遠くない幸せな時間を紡ごうとする人間達を見て、俺はさっきの男のことを思い出していた。
彼もまた、成功する前はあんな風な顔をしていた。
だが、いつしか成功することが当たり前になり、欲望を満たし続けたことでいつの間にか、昆虫のように外面のみの生き物となり、内面がドロドロに腐り果てる。
そんなことを考えている間に、次の仕事場へとたどり着いていた。
歓楽街の中心にあるその建物は、周りのケバケバしさと対比してとても趣深い。
コンクリートの無機質なビルばかりのこの場所で、重厚な木の門が出迎える。
道ばたに酔っ払いが捨てた空き缶が転がっている中、この門の周辺だけは掃き清められて、清潔さが保たれていた。
俺は門を音もなくすり抜ける。
その先には、よく手入れされた日本庭園のような庭が広がり、客を出迎えるように灯籠に灯がともっていた。
気配を消していたはずだが、奥から女が静かに進み出てくる。
艶やかに手入れされた髪を綺麗に結い上げ、眉と口紅を自然ながらもしっかりと描き上げた彼女は、柔和な笑みを浮かべて俺を出迎えた。
「時間にはしっかりしている方だから、そろそろ来てくださると思っていました。どうぞ、お上がりくださいませ」
無表情のまま俺が頷くと、女は奥の建物に俺を導く。
これが次の仕事をする場所であり、この女が経営する店だ。
昔の武家屋敷を改装したその店は、さっき仕事をした男のように一流とされる者が足繁く通う銘店として知られている。
そう……この女もまた、俺と契約して成功した一人だった。
だが、その割には今日は静かだ。
客は他にはおらず、この女が雇っている者も来ていない。
訝しげな顔をする俺を見て、彼女はクスクスと笑った。
「今日は貸し切りです。この店を開いて約十年……お客様から予約されることは沢山ありましたが、こうして私が予約するのは初めてのことです」
女は俺が脱いだ靴を綺麗にそろえて、おしぼりを渡す。
この冬の寒さの中、ちょうど良い温かさのおしぼりは俺の手を心地よく暖めた。
彼女は俺を座敷に座らせると、小鉢を持ってくる。
俺はそれを見て静かに頷いた。
「ほう……昔、作っていた煮物だな」
彼女は丁寧に俺にお辞儀をしながら微笑んだ。
「私の原点ですからね。しっかりと味わってください」
煮物を口にすると、舌触りのよい食感と共に濁りのない出汁の味がした。
面取りをした大根は舌に乗せるだけで溶けていき、しっかりとあく抜きをした牛蒡は土臭さを完全に消して、程よい食感を与えてくれる。
小鉢を半分ほど食べたところで、女が燗酒と料理を持ってくる。
ごく自然な動作で徳利からお猪口へ酒を注ぐと、彼女は俺の顔をじっと見た。
「貴方様は、まったく出会った頃から変わらないんですね」
「そういうお前は大分変わったようだな」
女は嬉しそうに微笑みながら頷く。
「そうですね……最近、少し小じわが出来はじめたかもしれないですね」
俺は彼女の顔をまじまじと見たが、そんな物はどこにもない。
「小じわなんてどこにもないぞ? 綺麗なもんじゃないか」
途端に女がはじけるように笑った。
まるであどけない少女のように臆面も無く声を立てて笑う。
俺は憮然とした顔で彼女に問いかける。
「一体、何がおかしいんだ?」
女はまだ笑いが止まらないのか、肩をふるわせながら口を開く。
「だって……貴方ったら冗談を真に受けて、真剣に私の顔を見つめるんだもの」
――そういえば、この女と出会った頃もそうだった。
この女の両親はろくでなしだ。
遊びたい盛りに子供をもうけて、おろす金がなかったからと無責任に子供を生んだあげく、育児を放棄して虐待を続けた。
ちょうど俺に出会ったとき、この女は十歳。
身なりはボロボロで、今にも倒れそうな風体をして居るのに、目は澄んだサファイアのように深く輝いている。
その目を見て、俺は彼女と契約をすることにした。
だが、彼女は俺に不思議な約束をさせる。
「契約に一つだけ加えてくれないかしら? 契約が終わる最後の夜に貴方が私の前に現れる。それくらいのお願いは聞いてくれても良いでしょう?」
呆気にとられる俺を見て、彼女は今と同じように声を立てて笑ったのだ。
「全くの無表情に見えたのに、貴方って面白いわね」
結局、その約束を守ってこうしてきたわけだが……
そんな俺に、女は嬉しそうな顔でお猪口に酒をもう一度注いだ後、唐突に切り出した。
「ねえ……一つだけ、お願いを聞いてくれないかしら?」
またいつものあれかと思って、俺は無表情になる。
命乞いは山ほど聞いてきたし、情で引き延ばしにかかる奴は無数と見てきた。
俺の表情を見た彼女が慌てて首を振る。
「契約のことじゃないわよ! まったく、貴方って本当に無粋よね……そうじゃなくって、私にお酒をついでくれないかしら」
ポカンと口を開ける俺に、彼女は笑み浮かべた。
「私ね……客には絶対酌をさせなかったの。私はもてなす側で、お客様はもてなされる側。その線引きだけはきっちりとしてきたわ。でもね……最後の一夜だけは、私がお客様になりたいの。二十年間しっかり頑張ってきたことは、貴方ならきっと分かっているはずだし、それくらい良いわよね?」
俺は久々に声を立てて笑った。
笑いながら、いつの間にか差し出された彼女のお猪口に酒を注いでやる。
女は嬉しそうにそれを押し戴くと、酒を口にした。
目を細めながらお猪口を空けると、彼女は感嘆の声を上げる。
「ああ……本当に美味しいわ。これが客として人から注いでもらったお酒の味なのね。じゃあ、もう一杯注いで頂こうかしら」
女は遠慮なしにお猪口を俺に突きつける。
酒を口にしながら彼女は二十年間の思い出を俺にゆっくりと語り始めた。
店を持つまでに苦労したことや、成功した後にも色々あったこと。
でも、その中で幸せに生きることが出来たということを……
何本徳利を空けたか分からないが、外が白み始めた。
女が満足げな顔をしながら俺に問いかける。
「もう十分話せたとおもうけど……あと、どれくらい時間が残っているかしら?」
俺は彼女の顔をじっと見つめて静かに告げた。
「あと幾ばくかという所だが……知りたいかね?」
女は酒で赤くなった顔をしながら静かに首を振る。
「やっぱりやめとくわ。そういうのって野暮ってものなのよね……じゃあ、後はこのまま突っ伏して寝させてちょうだい。一度で良いからやってみたかったのよ」
そして、俺に優しく笑いかけた。
「私は十分すぎるぐらい幸せに生きることが出来たわ。貴方と契約出来て本当に幸せだった……ありがとう」
そのまま女は眠るようにテーブルに突っ伏すと、静かに事切れる。
俺が目を閉じる必要は無いけれど、敢えて彼女のまぶたに優しく触れた。
最後に彼女が見せた笑顔を思い起こしながら、俺は静かに呟く。
「因果なものだ……神がしっかり仕事していれば、俺なんかと契約なんてする必要が無いのにな。」
彼女の目は、成功による濁りはなかった。
そして、何より……
「最後まで俺を手のひらで転がしやがって……まったく、最後まで食えない女だったよ。」
あの様子だと、俺と契約した時に二十年後にどうやって死ぬかを決めて、それを見事にやりきったようだ。
――人は生きるために時を重ねるか、死ぬために時を重ねる。
あの男は前者で、女は後者だった。
ただ、それだけのことにすぎない。
俺は女を一瞥すると、静かに席を立った。
「さて……次の仕事に行くとしようか……」
エッセイとかではない初めての短編となります。
ちなみに私は断然ハッピーエンド派なのですが、たまにはこういった形の作品も書いてみたくなりました。
読んでくださってありがとうございました。
楽しんで頂けたなら幸いです。