38.何だ、友達に向かってその睫毛は
「あ」
「え」
嫌な音がした。
恐る恐るリリアが足を退けると、そこにはすっかりひしゃげた眼鏡があった。レンズも割れてしまっている。
地面に落ちたアイザックの眼鏡を、リリアが踏んづけてしまったのである。
「え、え――――っ!? ご、ごめんなさい、アイザック様! わたし」
リリアが慌てて眼鏡を拾い上げ、眼鏡に向かって謝罪をする。
リリア、それはアイザックの本体ではない。
「いや、私がきちんと注意しなかったからだ。リリアのせいじゃないよ」
「弁償! 弁償します!」
「出来るのか? 言っておくが、高いぞ」
アイザックが身体を屈めて顔を近づけ、リリアを睨む。眼鏡がないので、そうしないと見えないのだろう。
その瞬間、リリアがひっと息を呑んだ。
そこでふと思い至った。まずい。これはまずい。
そう思った瞬間、リリアの鼻からたらりと血が垂れた。
「り、リリア! 血が!」
「へ?」
慌ててハンカチを取り出し、彼女の鼻に当ててやる。ついでにアイザックから引き離した。
アイザックは何が起きたのかよく見えていないようで、不思議そうに首を捻っている。
いつもの眼鏡がなくなったアイザックの顔面は、もはや凶器であった。
あまりにも顔が良いのである。彼の顔を見慣れている私ですら、新鮮な驚きを覚えるほどに顔が良い。
もともとの作りが良すぎるのだろうが、鼻の高さと柳眉の形の良さ、彫刻のような顎のラインが相まってまるで芸術作品を見ているような気分になる。
何だ、友達に向かってその睫毛は。
至近距離で食らってしまったリリアが鼻血を出すのも無理は――いや、年頃の女の子が興奮して鼻血を出すというのはさすがにどうかと思う。
フォローしきれない。
眼鏡キャラが眼鏡を外すことを絶対に認めない派閥もあると聞くが、リリアはそうではないらしい。
さりげなく、リリアをアイザックから遠ざけて間に入る。
「怖い顔をするなよ、アイザック。私が弁償するから」
「いや、僕は」
「いいから、いいから」
なおもリリアに言い募ろうとする彼に、ずいと顔を近づけて圧を掛ける。
ゲームの中にも、主人公が彼の眼鏡を壊してしまうというイベントがあった。シチュエーションは違うが、このまま進むとそのイベントに突入してしまう恐れがある。
眼鏡が無いせいで何もできないアイザックに、主人公が「責任を取ります!」とか何とか言って付きっきりで手取り足取り面倒を見てやる、というイベントだ。
乙女ゲームの主人公諸君に告ぐ。女の子は、気軽に「責任を取ります」とか言ってはいけない。「何でもします」もだ。
「お兄様からも言われているんだ、君に重々お礼をしておくようにって」
「は?」
「ほら、君も一緒に送っていってやるから」
呆然としているリリアと怪訝そうなアイザックを半ば引きずるようにして、私は公爵家の馬車へと歩みを進めた。