第1話ー1 覚醒
少年はぼんやりと空を見上げた。空は白く霞み、朝焼けが世界を包み込んでいた。しかし、そんな美しい朝焼けに向かって、少年が捧げたものはあいさつではなく、また感謝の言葉でもなかった。ただ一つ、重たい溜息だった。
また今日が始まる。
少年にとってそれは希望ではなく、絶望だった。昨日はまだ続いているのだ。あの、悪夢のような昨日が。
少年は無言のまま指を齧った。右手の人差し指は既に少年の噛み痕でボロボロだ。強い空腹に眩暈を感じている。落ち着きなく、イライラと頭を掻き毟った。体を震わせ、強い痛みにうめき声を漏らした。
その様子はさながら、戦場で心的外傷を受けた兵士の様だった。生まれながらにして、脅威にさらされ続けたが故の、当然の恐怖であった。少年は今や、肉体に宿る生存本能に従って生き続けているだけであった。
(もし生まれ変われるんなら、誰にも頼らないで一人で生きていきたい。誰にも関わらないで、一生自分の為だけに生きていきたい)
漠然と、そんなような意味の事を考えていた。そして、その日の夕方。
少年は死んだ。
なんてことのない、タバコの火の不始末だ。父親が、いつも通り泥酔しながら煙草を吸った。そして、いつも通り少年を罵倒しながら殴り、蹴り、火を押しつけていた。母親もまた、いつも通り黙ったまま酒を飲み、その光景をじっと見ているだけだった。
たまたま今日は、大人がどちらも泥酔していて、火の不始末に気が付かなかった。
そして、少年は燃え広がる炎をじっと見ていた。深く、静かな恐怖が少年を包み込んでいた。泥酔した二人が零した大量の酒に、火が燃え移り、三分もしないうちに巨大な炎となった。
少年は煙を吸い込み、意識がもうろうとする中で、台所にもたれかかりながら、炎の中で目を覚ました両親を眺めていた。
あの顔が。恐れていた。恐怖の化身が。不快感から驚愕、恐怖へと表情を変えていく様が、燃える炎の中で二人、最期の踊りを踊り狂う姿が、少年の目には奇跡のように映った。二人が倒れ、動かなくなるころに、燃え盛る痛みと共に少年もまた、意識を投げ落とした。
そしてひたすら願った。
次こそは、どうか、自分の為だけに生きていきたい、と。
少年が目を覚ますと、まったく覚えのない空気の中にいた。全身がやたらと重く、上手く扱えない。少年は見覚えのない寝具の上で体を起こし、両手を見た。そして、酷い違和感を覚えた。
自分の体に刻まれた激痛の記録や、右手の人差し指の傷も、すべてある。なのに、酷い違和感がぬぐえない。
自分の手を眺めているうちに、少年は妙なことに気が付いた。腕に、どうやら体中にも、炎の様な模様があるようだ。こんな模様はなかった。一瞬だけ「ああ火傷の痕か」と思ったが、すぐに首を振って打ち消した。そんなはずはない。火傷が、こんなあからさまな「模様」になるわけがないのだ。それは、身をもって知っている。
少年はとっさに顔に手を当てた。何故だか予想がついていた。覚えのない感触がする。そして、視点がやたらと低い。両足はある。無くなったわけではないようだ。しばらくの間少年は、自分がどういう状態なのか理解できずにいた。
少年はようやくあたりを見渡した。見たこともないような大きな部屋だ。どことなく清潔感が保たれた部屋で、今少年が座っている寝具以外に、誰も寝ていない寝具が五つ。どことなく素っ気ない部屋だ。なんだか不気味だった。どことなく現実味がない。まるで、つい最近まで使われていたのに、そのみんながいなくなってしまったかのような、そんな不気味さがあった。
部屋を見渡した少年は、鏡があることに気が付いた。部屋の端に何故か設置されている洗面器の上に。
少年はそこへ向かい、途中で気が付いた。背が縮んでいるのだ。どうやら、これが一つ目の違和感のようだ。
身長が足りないので、近くの椅子を引っ張り、その上に立った。ようやく、鏡に自分の姿が映った。
少年は自分を見た瞬間、目を疑った。そこにいたのは、まったく見覚えのない少年。炎の様な模様は顔にもあり、首にある前世の傷もそこに残されていた。なのに、まったく別人になってしまっているのだ。よく見れば肌の色もだいぶ違う。髪も、眼の色に至るまで。
少年は呆然と鏡を眺めた。薄めの褐色の肌。真っ白い髪。眉毛どころが、睫毛、産毛すら白い。そして、嫌に鮮やかな、オレンジと金色が混在する、まるで炎の様な色の瞳。何より・・・酷く、酷く整った顔立ちをしていた。まるで、彫刻やビスクドールの様に、ある種無機質な顔立ちをしていたのだ。
やはり、見覚えのない体の様だ。少年は顔をしかめた。鏡の中の少年も、微かに眉を顰める。
(こんな顔立ちをしていたら、目立ってしまう)
少年は過去の暴虐の経験から、目立つこと、すなわち死を意味するのだ、と知っていた。生き残るにはなるべく目立たず、気づかれないような容姿でなくてはならない。
それなのに、だ。少年は望みとは真逆の顔をしていた。
「・・・・・」
なんとなく気が付いていた。もう昔には戻れないのだということ、もう自分が自分じゃないのだということ。
ここはどこなのだろうか。いわゆる、あの世という場所なのだろうか。
少年は微かにため息を吐いた。そして、椅子から飛び降りると、背伸びをして窓の外を見た。
辺り一面の木。どうやら森の中らしい。が、どこかから波の音が聞こえる。
少年は海というものを見たことがなかった。大きな水溜りである、というような知識はあったものの、それがどんなものなのかは全く想像できていない。
その時だった。遠くから足音が聞こえてきた。少年は黙ったまま慎重に寝具へと戻った。
すぐにドアが開き、やつれた表情をした若い男が入ってきた。男は白いローブを身にまとい、胸には奇妙なバッヂがつけてあった。
「・・・目を覚ましたのか。お前。今日は大事な日だ。さっさと準備しろ」
少年は、なんだか言葉に覚えがあった。前から聞いたことがあるような声。少年は黙ったままじっと男を見ていた。
聞いたことがある理由。簡単だ。焦り、不安。何かに追われる人間の声だからだ。
「・・・なんだよ。逆らうつもりか? ・・・まぁ、お前は言葉を話せないんだったな。べつにいいさ。俺を困らせるんじゃねーよ」
少年は、酷く冷たい声を放った。
「・・・嫌なら、やめたら」
男は酷く、どきっとしたような表情をして黙った。僅かに呼吸が上がっているのが、少年の目でもわかった。
「・・・・・・・いい、から・・・さっさと、支度しろ」
結局、支度も何もなく、少し寝具を整えてから出ただけだった。
終始、少年と男は無言だった。しかし、男はずっと震えていた。どうやら、少年の言葉が男の何かにふれたようだった。