■04・故に王太子は懊悩する
ヴィクトールは肌に張り付く夜着の不快感に目を開いた。
暑い季節ではないと言うのに、寝汗が酷い。肌に吸い付いたような布に顔を顰め、乱雑に脱ぎ捨てる。湿り気をおびた服が、床に落ちた。
もう随分と長く、夜の眠りが悪い。
考え事が、対処しなければならないことが多すぎる。気を揉むことが増えた。一晩眠れば気持ちも変わると言われるが、まったくそんなことは無かった。むしろ眠れないことで余計鬱々とした気分で朝を迎える。
暗くなれば眠り、明るくなれば起きる。いつからそうした当たり前の生活ができなくなったのだろうか。
ヴィクトールは深く息を吐く。
沈んだ気分は、何をやっても浮かび上がらない。
気が付かなければどれだけ良かった事だろうか。
いっそすべてを投げ出して、周囲に当り散らせれば楽になれるのではないか。人間の防衛本能ともいえるものが、許容量を超えた時、それが爆発といった形で現れるような気が、ヴィクトールはしている。
――だからといって実際にやる訳にはいかない。
ヴィクトールは豪奢な寝台から降りると、替えの夜着に袖を通す。
一度目が覚めてしまえば、再び眠るのに難儀している。ならば起きている方がいい。無理をして眠っても、結局疲れが増すばかりで休んだ気がしないのだから。
ベッドとはまた違う柔らかさのソファに腰を下ろし、ヴィクトールは思案に耽る。
こうして何も手につけない夜に、思考の海に浸るのが半ば日課と化している。
日中は執務に追われている以上、雑音から離れることが出来る貴重な時間でもある。ひたすらに頭を回転させていると、例えそれに解答が見いだせなくても、雁字搦めになった問題が解きかけることがままある。
王族としてやらねばならないことは、責任の重さと比例している。父の執務を手伝い始めたのは成人前。成人直前には、大半の執務を担っていた。それが次期王としての勤めならばと、率先して執りかかっていたのは善い行いだったのか未だ分からない。
宰相や文官たちの指導を受けながらだった。父から手ほどきを受けた覚えはほとんどない。帝王学や王族のあり方といったものは、公爵である叔父から学んだ。
幾ら順当に行けば玉座に座ることになると言っても、追うべき背中のない終着地点を目指すのは苦しく――そして不安だ。
怯えることは出来ず、その心境を吐露することは許されなかった。右も左も分からないことばかりの世界で、ひたすらに知識を得ていく。
ただ一つ安堵できたことは、間違えそうになると諌めてくれる家臣がいたことだ。時として不敬と切り捨てられない言葉をもってして、ヴィクトールを止める。その時点で選択を間違えるのは構わない。まだ、取り返しがつくから。
自身の選択の結果に懸かっているのは、国と民の生活だ。街の薬問屋に行くハインツの話だと、ヴィクトールの苦心の果てを、それを感じ取れる国民はあまりいないのかもしれない。それでも構わないと思っている。
王は奴隷なのだ。最も着飾った地位のある、国のための奴隷。
慕われ、敬われ、そして恐れられる存在でなければならない。
そう、叔父に教えられたからかもしれないし、執務に携わる宰相たち以下から言外に訴えられているのもあるかもしれない。間違えそうになれば正しい方向へ、舵取りをしなければならない。
国を存続させていくのに邪魔になる存在は排除しなければならない。そうして生きてきた。――普通、と言うものは想像上のものでしかなく、頭の中で予想し、その普通の中の民の生活が脅かされることのないようにする。
だと言うのに、この状況はなんだというのか。父はいったいどうしたのだろうか。いや、初めからそうだったのだろうか。
おかしいのは果たして――自分か、それとも父か。
ヴィクトールと父王は、果てしなく違ってしまった。それは教師役が善かったのか、父が悪かったのか。きっと終ぞ解り合うことがないのかもしれない。方針が違えばぶつかるのは当然で。頂に立つ者が、指示をする者が二人いれば下は混乱し、そして些細なことで分裂する。
英雄色を好む、とはよく言ったものだとヴィクトールは思っている。
それは英雄だからこそ許されることで、ただの王には不要なことだ。
もちろん、王家の存続と言う意味での色事は良いだろう――血筋を途絶えさせるわけにはいかないのだから。それは他の貴族、果ては一般人とて同じこと。連綿と繋がる血は、やがて歴史として紡がれて行くことになるのだから。
そこに伴うもの。
――つまりは義務だ。
それ以上はただの欲でしかない。
よりにもよって王が――己で手綱を握れない欲を持つとは。
それも色欲だ。後継者候補で最も血みどろになりがちな類。城の中では後宮だけに留めて欲しかった、父の悪癖。
ヴィクトールは背もたれに背を預け、天井を見上げた。
だらりと下ろした両腕を、冷たい空気が撫でた気がした。
お手付きとなった者はどれだけいるのか。数えるのが恐ろしいほどだった。その内の、胎に子を宿した者のその後。子を持った王妃である母の決断はどれ程だったことか。父はそのあたりに無頓着すぎる。
――民衆に種をばら撒けばどうなるか、分かりきったことだろうに。
汗で額に張り付く髪が鬱陶しい。
母は父の子を後宮の中にだけで留めようとしている。少なくとも、後宮の中からの子ならば、血筋の正当性は保たれる。
腹違いの弟は、誰が見ても父に似ていた。その容姿も――色欲も。フェリクスは、父の若い頃の姿によく似ている。日にあたると赤く見える濃い金の髪、新緑よりも深い緑の瞳。父はさぞや女好きのする姿だっただろうことは想像に難くない。
――最初はただ、わがままなだけかと思っていた。
フェリクスのあの無邪気な顔に。
それが薄気味悪いと感じるようになったのは、幼い頃の友の死がきっかけだった。それほど歳は離れていないが、弟はいつまでたっても子供のようだった。
十五を迎えた歳に、色情の気が表れた。
そこまで父に似たのかと、愕然とした。
もしくは父を篭絡する手管を持った第三妃に似たのか。とにかく、ヴィクトールの母が、女官長に提言し弟に近づける女官を制限するほどには酷かった。
また第二王子の宮の女官がお手付きになった――。
夜会に出た先で貴族令嬢と一晩を過ごされた――。
厨房に配達に来た娘が王子に連れて行かれた――。
弟の色欲は年々酷くなっていった。
後宮の妾を使わなければならない事態に陥るのは、それほど時間はかからなかった。
最近は弟を持ち上げ甘言の声を出す者の中に、自身の娘や派閥内の娘を差し出す連中すら出てきている。
弟の種から子ができれば、ヴィクトール寄りの派閥から一歩、先んじることが出来るからだろう。父を隠居させる話が現実味を帯びてきたあたりから、自分の政権闘争の火種がくすぶり始めている。
噂を知ってか、フェリクスの近衛兵に志願する兵士は少ない。第三妃が実家の私費で、護衛騎士を雇っている。この国は国軍所属は兵士、民間の兵士を騎士と分けて区別している。
金さえ積めば、騎士は雇える。しかし城に上げる護衛を民間にするわけにはいかない。少数のみしかたなく国軍預かりとして、フェリクスの宮だけ騎士を置く配置とした。第三妃は私兵が護衛になった事を喜んでいたが。
それがフェリクスの行動に歯止めが利かない原因の一端になっている気が、ヴィクトールはしている。
困ったことに、どんどん頭痛が酷くなる。
頭の痛くなる事案が多すぎるのと、寝不足もそれに追い討ちをかけている。
自分が王冠を戴くことは、政権中枢では一応の規定路線となっている。
しかし、そこに利権や甘い汁が欲しい貴族の出世が絡と途端――泥沼に嵌る。欲望に忠実な連中が中央に集まれば、政どころではなくなるだろう。担ぎ上げるのは、文字通りのお飾り人形だ。ただ座っていればいい、人形。
父は程よく使える人形で、弟はまさに理想的な人形だろう。
フェリクスに王とは何かを解いても無意味なはずだ、だから尚のことちょうどいい。
弟は、あの色欲がなければ……可愛く愚かな弟でいられただろうに。
どれだけ諌めても弟は不貞腐れるばかりで、どうして? なんで? と繰り返すばかり。後宮という存在から弟に愛情などをとつとつと説いても、肉欲を先に知ってしまった以上、理解するには至らなかった。
血を残すと言う意味では、間違ってはいない。
義務としての婚儀が、政略結婚があるのだから……そこに愛情はないにも等しい。
お互いが理解しているからこそ、問題が表面化しないだけ。
フェリクスにとって後宮は、肉欲を満たすことを公に許された場所――そう言う認識だ。目の前で許されていることが何故駄目なのか、という純粋な疑問でしかない。王族の本来の役目など、まったく分かっていない。
じくじくと胃が痛む。すべて投げ出してしまいたい衝動に駆られたことは幾度となくある。ヴィクトールはハインツのように気長な性格ではない。短気な部類に入ることを自覚している。まあ、そのハインツもクリストフのことになると、途端に癇癪もちになってしまうが。
王には向いていない性格だと思っている。ただ義務が――王族に生まれたからには投げ捨てるわけには行かないから、それらを補完できる様にしている。
それだけなのだ。
ふっ、とヴィクトールは自嘲気味に笑った。
自分も大概、酷い性格をしていると改めて思う。
そう、ヴィクトールは友人を、長く自分の近衛を勤めていた男を、政略の駒に使った。
友を、利用した。
哀れに思ったから、だけではない。
けれど彼に、憐憫を持ったことは間違いようのない事実で。
何故あんなことになってしまったのか――。
クリストフには何一つ瑕疵はなかったはずなのに……。何かを瑕疵にしろというのなら――ヴィクトールの近衛になったばかりに、あんな目にあってしまった。
夏の蒸し暑い日、耳に煩いほど鳴く虫の声。
どこから情報は漏れていたのだろうか。未解決の疑問は未だにある。ヴィクトールの行動は城の中ですらごく一部しか知らされていないのに……。疑い出したらきりがない。それこそこの執務室に出入りできる人間や、事務官、女官、果ては父すら疑うまでに至ってしまう。
重度の人間不信になりそうだ。疑心暗鬼のその先に、待っているのは一体何か?
自死を行うクリストフは、一体何を思ってそうしているのだろうか。この姿に絶望したからか、それともヴィクトールを恨んでいるのだろうか。
いっそ憎んでくれればいい、激しく燃えるような強い思いで。自分は確かに原因なのだから。ヴィクトールがあの日、あの場所に出かけなければ。何度後悔してもし切れない。
クリストフにはまだ、未来があった。それを奪ったのは他ならぬヴィクトールだ。
下級貴族からの叩き上げだった。貴族という地位を利用してゴネ得をよしとしない人物だった。馬が合ったのだろう、ハインツも交えてよく集まった。
ヴィクトールの友人は頼まなくても選別されてしまっている。何があろうと側に居ることができる、そんな友人はほんの一握り。ハインツはその一人だ。
クリストフは本来の近衛としては不適切な距離感だった。だが、それがよかった。万が一の時に、自分が割り切れるから。護衛なのだから、死を迎えるのはありえる可能性だと。
――けれどやはり駄目だった。
かつて居た一人、ハインツだけが知っているヴィクトールの友人の一人――彼は、フェリクスの問題に巻き込まれて死んだ。無残な死を迎えたと、嘆ければよかった。彼の死は恐ろしいほどひっそりと片づけられた。
子供の頃の、小さな友人。
まだ幼かったヴィクトールには、それは恐怖として刻み込まれた。
周りが手を焼くほど泣き喚き癇癪を起こしたのは、後にも先にもその時だけだ。しかし当時理解できなかったことが、どれ程恵まれていたのか、今なら分かる。
小さな友人は、家ごとなくなっていた。自主的な爵位返上、家名を捨て国を去り、その後の足取りは不明だ。まるでアイネム伯爵のようだとヴィクトールは思う。
形は違えど、友人のクリストフもまた死を迎えようと苦心している。それを止めるために、恩賞として爵位を与え、王家で持て余していたあの屋敷を住居とするよう手配した。
少しでもヴィクトールの目が届き、介入できる場所に居させる。監視の影すら置いているのは、自身が安心したいがためだ。
頭では理解していても思ってしまうのだ。
どろり、と澱のような感情が流れてくる。醜い感情を、ヴィクトールは頭を振ってそれを追い出す。
そう……正当な理由なく、王族殺しはさすがに拙いと分かっている。
――自分は、あの時のような喪失感を、味わいたくないだけなんだ。
ハインツは気が付いただろうか。死を招く娘を娶らせようとする理由を。死にたがっている男に希望を持たせるような行いの裏に何があるのかを。
他国を挟ませること、それすら意味があるということに。
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