紙の上の死者
まるで弟の尻拭いに奔走する兄の姿だ。一部からはお労しいと気遣われ、また別のところからは情けないと嘆かれる。後者の一部には、まず間違いなく陛下のことも含まれているだろう。二人の父である国王はあれだけの騒動にも動かなかった。ただ一言、騒ぎを大きくするな——と、そう言ったそうだ。
あとは側近侍従たちが醜聞の火消しに走り回ったが、それがかえってよくなかったのだろう。以前からも同じ事をしていたあの第二王子は、しっかりと学習していて味を占めていたのだ。騒ぎを起こしても公にならず、罰も受けないと。欲しいものがあればその場で持ち帰り、飽きたら捨てる。
まるで子供だった。機嫌がよければ可愛がり、不機嫌になれば八つ当たり壊す。それが物ならまだましだった。あの弟王子は、物以上に『人』を選んでいた。泣き寝入りした家は少なくない、どれだけ怨まれようが彼には無関係なのだろう。
地位も権力も金もある。こと地位に関しては、絶対的に覆せない。国王が廃嫡をしない限りは、声をあげても握りつぶされる。だから口を閉ざす以外に方法がなかった。第三妃派閥の貴族たちが、示談と称して金品や嫁ぎ先を与えるのも一因しているのだろう。
なぜ、あの第二王子は笑っていられるのだろうか。あれだけの人々を奈落の底に突き落としておきながら、どうして笑えるのか。
フェリクスの住まいが、城の敷地でも離れた位置にあるのは、隔離のためだとハインツは思いたかった。その宮が、妾を囲う後宮の近くでなければ。あの後宮は、国王陛下のためだけじゃない。フェリクスのためでもある。
色情狂——それだけなら、どれだけよかったことか。
ハインツは彼が分からなかった。ただ言えるのが子供と同じということだけで。
手当たり次第に手を出すが、手を出さずに攫うだけのこともある。手厚く歓待し、そして着飾り、監禁していた。己の部屋に日がな一日飾り立て、猫のように擦り寄り甘えているらしい。なまじ見た目が美しいフェリクスに、手を出されていない者はすっかり甘やかしてしまったらしい。
機嫌が悪ければ同意し宥め、懐くように擦り寄れば耳に心地いい甘言を囁く。すべてがフェリクスにとって心地いい空間になるように、ただそれだけに尽力する。
無償の奉仕か、それとも奴隷か。
着飾られ監禁されていた娘を救い出した時、ハインツは己の考えに怖気が走った。
——僕の物を勝手に持ち出さないでよ。
フェリクスは不機嫌そうに唇を尖らせながら言ったのだった。
人は物と同じではない——ヴィクトールが厳しい口調で言っていたが、はたして彼はその意味を理解していたのだろうか。不機嫌であろうとも、目の前に立つのは腹違いの兄、だから暴れるような事はしなかったのか。それともハインツたちだけならば、外聞もなく騒ぎ立て癇癪を起こしていたのか。
あの一件の後しばらくの間、フェリクスは荒れていた。さすがに母である第三妃が諌めに来るほどには。それが後宮の妾の一人が死んだことを耳に入れての行動なのか、未だ判断はつかないが。
死んだ妾はひっそりと闇に葬られた。それがどういう意味だったのかをハインツが知ったのは最近だ。ヴィクトールの後ろ盾貴族、その年かさの娘。もとは国王陛下の妾へと来た娘だった。フェリクスか第三妃かは分からないが、その後ろ盾貴族たちは、体よく相手の勢力を殺いだ。
……もしかしたらアイネム伯爵の娘も、その犠牲になったのではないかと思っている。何しろ都合がよすぎたのだ。ハインツたちが動かなければ証拠も出ず、また表にも露見しなかったことも含めて。
第二王子に警戒していたであろう令嬢が、たまたまフェリクスが出歩いていた先に居たというのもおかしな話だ。そしてあの令嬢は、普段の彼の好みとは違っていた。釣り目がちで少し気の強い雰囲気と、自分にも他者にも厳しい態度。なぜあのとき、彼女はその場所へ出向いていたのか……。彼女を呼び出したとされる手紙は、既に破棄されている。
情報が集まるたびに、胸に来るのは後悔の念で。
ハインツは人の死を見るのが嫌だった。
なのに今の情況は真逆も同然だ。紙の上では恐ろしいほど死者に出会う。
アイネム伯爵は、国を去ってしまった。それでも最後のお役目とでも言うように、自分の仕事のすべての引継ぎを終えるまでは、普段と変わらぬように過ごしていた。誰も彼もが、その内実を知らぬままに……。
「なあ、ハインツ。ブランケンハイム氏の——その事件に巻き込まれた令嬢……イレーネ嬢だが、妙な呼び名がついているのを知っているか?」
「妙な呼び名? ああ、そう言えば、何だったか確か——」
「死人姫——」
そうだったなと、ハインツは小さく頷く。まだ歳若い娘に、なんという通り名をつけたのだと憤ったのは最近のことだ。あの事件で無事に生き延びた生存者を死人などと——。生きているのに、死者と同じように呼ぶなどとは。言うにも限度があるだろうに。その呼ばれ方もあって、件の令嬢は引き篭もっているのではないかとハインツは思っている。
生きているのに死んでいるとは、此れ如何に。
「お前は、イレーネ嬢については後を追っていないのか?」
「ああ。何しろ向こうがいい顔をしなくてね、今回の証言調書だってかなり苦労した。ヴェルツェル国との関係悪化は避けたいから、それとなく探りを入れるところで止めている」
簡単な書簡での問い合わせでも露骨に顔を顰めるのだからどうしようもない。随分と嫌われたものだと、ハインツは苦笑する。
「……そのイレーネ嬢な、周りの人間がおかしな程に死ぬらしい」
はぁ? と思わず呆けた顔で、ハインツはヴィクトールを見た。
「こちらも情報はかんばしくないが……。あの事件の後、イレーネ嬢は伯父の勧めで、新しい屋敷で使用人と生活していたそうだ。だが、三ヶ月もしないうちにその使用人は全員死んだらしい。話半分だとしても、これはおかしくないか?」
「まさか誰かが、イレーネ嬢も亡き者にしようとしていると?」
「可能性はなくもない」
仮定とはいえ、そうなると少々話が変わってくる。何しろその話から頭に浮かぶのは、あの第二王子になるのだから。
「この話をアイツにしたら、乗ってくると思うんだが……ハインツ、どうだ」
じっと、まるで同意を求めるようにヴィクトールはハインツに視線を向ける。アイツ——クリストフ・クラルヴァイン。二人の友人で、異形の魔法使い。自分たちよりも少し年上の友人は呪いの一件もあって、縁談などは断り続けている。そもそも姿が異形と化して、日々死ねる方法を実践で試している自殺癖の未婚の男など、たとえ伯爵といえども避けるだろう。
分かりきっていることをどうして今、ここで言うのか。ハインツは怪訝そうに会話を反芻し、そして至る。自殺癖男爵とクリストフが同じであると。そして令嬢イレーネの周りで起きる不審死。
——知り合って、いい方向に行くとは思えない。むしろ混ぜ合わせて劇薬になりそうな組み合わせじゃないか。だがしかし……クリストフが興味を惹かれる可能性は限りなく高い。
ただの傷の舐めあいになるか、それともイレーネが悲鳴を上げて逃げるか。もしくは、クリストフが死ねるか。
「イレーネ嬢の護衛としての意味合いか? ヴィクトール、他にも裏があるな」
「裏がないわけがないだろう」
「もったいぶった言い方はするな。さっきの話ではクリストフとは無関係な人間が該当者になる。本人の確認も取れていない状況とはいえ、彼女は無関係じゃないだろう」
調書いかんによっては、重要参考人にすらなりうる。
「——それに、アイツの姿は、貴族令嬢には刺激が強すぎるだろう」
クリストフが美丈夫と呼ばれていたのは、すでに過去の話だ。絵姿でしか知りえない、かつての姿。
「確かに、それは否定しない」
低く唸るように、ヴィクトールは肯定した。
「あの侍女が平気なだけで、世間一般は平気じゃない。僕はアイツを色物的な目で見られてほしくはない」
数年前の、蒸し暑い、夏の出来事だった。
厳かな口調で、ヴィクトールは言う。
「異形の魔法使い——そう言えば、耳の聞こえはいいのだろうがな」
「どちらも良いとは言い難い。人肌の温かさは消え、骨と皮かと見間違うかのような、あばら骨が浮かんで見える細い身体、あの金の髪はなくなり、その顔は——」
「まるで獣のような生き物、それの頭蓋骨で出来ている。分かっている。言うな、ハインツ」
その姿を隠すように、身体全体を覆う闇色のローブを纏い、フードを被り頭を隠す。それをたまたま見た者がまた噂をするのだ。王都の外れの屋敷には、化け物が住んでいる——と。
「死にたがっている人間に、近付く者が死ぬと噂される娘を娶らせる気か。ヴィクトール」
責めるようなハインツの口調に、ヴィクトールは力なく微笑み返す。
耳に、夏の虫の鳴き声が聞こえた気がする。
かき分け進む草むらの向こう、飛び出した弓矢、突き飛ばされたヴィクトールの身体、地面に伏せたハインツの視線の向こう——あの体躯を傾かせながら声を上げたクリストフ。
彼の倒れた先にあったのは、小さな何かの石碑のような物で。彼がそれに身体をぶつけるのと同時に、世界が一瞬白く染まった。強い風に、草が、木が、虫が——そこに在るすべての音をがなり立てるように鳴いた。
視界が色を取り戻し、音が、なりを潜めたとき。
——そこにいた彼の姿は、変わり果てていた。
絶叫。
笑い声。
知っている姿。
耳に聞いた声音。
姿の変わった友人。
叫び、弟を掴んだ兄。
「すごいや、本当に化け物になった!」
悪戯に成功したと言わんばかりの表情で、あの弟王子は言った。
「知っていたかい、ハインツ。俺は酷い人間なんだよ——」
「ああ、知っていたよ。この大馬鹿者がっ」
しんと静まり返った室内で、吐き捨てるようなハイツの小さな声が響いた。
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