昔話の男爵
ハインツは目の前の王子を見る。
ヴィクトールなら逆にあっさり手放してしまうだろう。相手方が文句を言えないくらいの教養を身につけさせ、それなりの家格のところへと嫁がせてしまうはずだ。……彼の考えではあてにしていない内通者がわりといったところか。
「王になるつもりもないくせに。なぜ問題を起こすのか、一度本気で訊いてみたい」
「案外、第三妃にそそのかされた陛下が、王にしてやるとでも言ったのかもな」
「頭痛がしてきた。母上に頼んで探りをいれてもらうか……」
……次は胃薬のほかに頭痛薬も進呈した方がよさそうだ。渋面のまま紙を捲るヴィクトールに、ハインツは思った。
「バカの一件は証人が確保できるまで保留になりそうか。早くどうにかしないと、組合長と一緒に流通までもが倒れそうだ」
捏造するにも限度がある。いくら不品行とはいえ、なまじ王族の血筋であるが故に、発した言葉の力は他よりも強い。
紙束の後半に手をかけたヴィクトールが、眉間に皺を寄せてハインツを見る。
「……紙に書いてあるとおりだ。憲兵たちは現場の状況に呑まれて幻覚を見たことになっている」
「件の生き残った令嬢の証言は?」
「ない。馬車から引き摺りだされたときに死体を見て、気絶したそうだ。憲兵の発見時の証言と大差はなし」
よりはっきりと胃痛がしてきた。一番の問題はそこだ。ハインツとヴィクトールの友人。よりにもよって関わってはいけない人物。
魔法が夢物語だと言われるこの世界で、ただ一人、魔法が使える人物。
——異形の魔法使い。そう呼ばれている友人。
その友人が、どういう訳だかあの襲撃された馬車の現場にいたという。ああ、早急に問いたださないと——頭の中でハインツは予定表を組み立てる。
なんだってそんなところに居たんだ——言いながらヴィクトールが頭を抱えた。この国の隠されている存在。姿すら見ることの叶わない異形の魔法使いが、実は元は普通の人間であったことを知る者は少ない。美丈夫だった彼の姿は今、欠片も残っていない。
ハインツの研究室には、まだ彼が人の姿だった時の絵姿がある。ヴィクトールたち三人で、スケッチとして描かれた物が。
元は近衛兵だった彼が魔法使いになってしまったのも、かの第二王子が原因だった。それもあってことさら、ヴィクトールはアレを毛嫌いしている。
ハインツはぬるくなった紅茶に口をつけた。
「そうでなくたって、アイツの自殺癖に苦労しているというのに」
友人はあの姿になってから、毎日のように死ねる方法を試している。
「結果ははかばかしくないけどね——」
どうやら異形になったことで魔法が使えるかわりに、死ねない身体になったのだそうだ。人ならざる力を得ても、人ではない。まるで呪いだ、とハインツは思っている。実際友人は、呪われたと言っていた。
ハインツは彼に会いに屋敷に足を運んでいるが、その内実は、自殺してはいやしないだろうかという生存確認も兼ねている。
昔の書物や、教会の聖書など、魔法とおぼしき記述のあるものを片っ端から調べているが、こちらも彼の自殺結果と同じである。薬師として彼のもとに足しげく通い、目視できる変化に合わせて調剤をしているが……ハインツは自分の知識が友人の助けになっていないことに、内心で消沈していた。
正直、ハインツも疲れている。
「ここまでくると、自殺が成功しないのが救いだよ」
幼い頃からの友人が、自ら命を絶つ姿は見たくない。
城仕えの医者ではないハインツは、人の死を目の前で見ることは滅多にない。薬師を目指したのもそれが理由だ。ハインツは自分が臆病であることを自覚している。
「——久しぶりにアイツの屋敷に行ってみれば、天井から首を吊ってぶら下がった状態で出迎えられた。自分の心臓が止まるかと思った」
「……僕はナイフで手首を切っているときだった」
ヤァ、いらっしゃい——と普通に出迎えられて、ハインツは一時思考が停止した。
「別の日は服毒だったな——」
「どこで彼が毒を入手してきたのかと、そっちの方が問題だった。あの姿で出歩いて、薬を売った相手が居たことに驚いたよ」
どれ程度胸のある相手だと思ってみれば、路地売買の盲目の老婆だった。
目が見えなければ容姿は関係なかったな、と一気に脱力してしまった。
存外ふらふらと出歩いている友人は、その魔法で姿を見えなくしているらしい。それで何をしているのかといえば、上手く死ぬ方法を朝昼晩と探しているそうだ。
「そのうち入水自殺でも挑戦しそうだ。水にアイツが沈むと思うか? 重石を持っても無理な気がしているんだが」
「落ち着けヴィクトール。この近辺で入水できるほど深い川はない」
ああ、そうだ、そうだったね——と乾いた笑いをしながらヴィクトールは言った。その笑みに、ハインツは違った意味で心配になってきた。
ここ数ヶ月のヴィクトールの心労を考えれば、それも仕方のないことで、友人の自殺癖も仕方のないこと——なわけがない。
「——なあ、昔話の男爵、覚えているか? ほら、自殺癖男爵の話」
唐突に、ヴィクトールが言った。
「ああ、覚えているが……かの男爵がどうかしたのか?」
ハインツは怪訝そうに顔をしかめた。
「いや、大した……じゃないな、大したことだが、自殺癖男爵は最後はその癖を止めたんだよな。あれ、嫁が来たからだったよな?」
その怪訝な顔にハインツは眉間に皺を寄せ、まさかといった顔でヴィクトールを見つめる。あからさまな表情に彼は慌てて言葉を続けた。
「別に嫁をどうこうじゃなく、生活を共にする存在がいると善いのではないか、とね」
「……一応、侍女がいただろう」
「あの女は信用していない」
判るだろう——とヴィクトールが言う。あの美しき侍女の姿を思い浮かべて、ハインツは渋い表情になる。
「つまり、それなりに親しい関係になれるであろう無関係な相手と」
「見繕えるか?」
「無茶振り、無謀、無理。好きな言葉を選んでくれ、我が友よ」
「俺を見捨ててくれるなよ——っ!」
「引っ付くな! 暑苦しい!」
いい年の男が白衣の男に縋りつく光景。知っている者でも我が目を疑うことだろう。何しろここは執務室で、いるのは王太子とその薬師である。
ハインツは心底嫌そうにあしらいつつも、ヴィクトールを無碍にはできない心中だった。何しろ懸念事項は大量だ。友人のこと、外交、政敵、王位……。
第二王子のフェリクス、第三妃の生んだ子供でヴィクトールの弟。
ハインツたち三人の、ある意味では敵でもあった。
なぜ彼はこんなにも、王子であることを笠に着てあれほどまでの暴挙に出ることができるのだろうか。ハインツは友人と共にヴィクトールに付き添い、第二王子の宮へと乗り込んで、その一端を理解した。
いや、させられたとも言える。そう、権力を笠に着て——などという次元の問題ではなかった。彼は単に、何も気にならないのだ。人から見れば恥である行いであろうとも、非道だろうが外道だろうが、何でも出来た。
護衛の騎士は見知らぬ顔で。丸腰の彼は笑いながらハインツたちを出迎えた。
——ようこそ。兄上、薬師殿、そして兄上の近衛兵、と。
両手を広げ、さも歓待しているといった風体の彼のすぐ側には、首を鎖でつながれ、両手足を拘束された女が、あられもない姿で床に転がされていた。
王子のいる宮に不法に侵入してきた者です——そうはっきりと言ったフェリクス。
しかしハインツは、その女を知っていた。夜会で見たことがあるアイネム伯爵家の令嬢だった。父親は長年財務に関係している事務官で、彼女が第二王子の噂を耳に入れていないはずがなかった。彼女は泣いていた。
その場でヴィクトールの怒りが爆発したのは、当然の結果だった。
なぜ彼女があんな目に会わなければならなかったのか。調べてみれば何のことはなかった、目に付いた、食指の動く女が居たから攫ってきた。ただそれだけだった。予想はしていたが令嬢は無傷ではなかった。家に帰った早々に、彼女は自ら命を絶った。
家畜に劣る愚劣な行いとさえ言えるのに、フェリクスは罪を問われず。王家としては簡単に頭を下げるわけにはいかないと、詫びらしい詫びすらせずに終わってしまった。
ただヴィクトールだけが、非公式ではあるがアイネム伯爵家へと謝罪に行った。ハインツも友人も、当事者の一人として付き添った。
もういいんです——と、人形のように作られた硬い表情で無感情に告げた伯爵の姿。屋敷から聞こえていた女の嗚咽に、それを宥める少女と年かさの女、その二人の声。
もとは明るかったであろう屋敷の空気は、いまや暗く沈んでいた。いっそこちらを罵倒しても許される状況だったのに、アイネム伯爵は理解がありすぎてしまった。
さしものヴィクトールでさえ、どう手を打てばいいのか迷っていた。彼も当時はまだ若かった、何が正しくて、何が間違いで、何が救いになるのか——ハインツたちは選べなかった。
まだ若く経験が浅かったからこそ、非公式の謝罪という行動が出来たのだ。いや、今もきっと、ヴィクトールは頭を下げるのだろう。だからこそ、あの愚弟の行動を逐一監視しているのだ。何一つ、洩らすことなく報告を要求している。
そんなヴィクトールだからこそ、ハインツはそれに助力している。オストヴァルト侯爵家当主である、己の父の助言を受けながら。
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